岩戸あけし 天つ命の そのかみに 櫻を誰か うゑはじめけん(西行上人集604)
この歌の詞書には
「みもすその川のほとりにて」と記されている。西行の時代は、本地垂迹の具体的な理論化が成されていた時代であった。それ故か
「高野の山を住みうかれて後、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、大神宮の御山をば神路山と申す、大日如来の御垂迹を思ひて詠み侍りける。」という詞書によって詠われた歌は、下記の通りだ。
榊葉に 心をかけん 木綿垂でて 思へば神も 仏なりけり
大日如来と伊勢神宮に祀られる天照大神は、本地垂迹の関係となる。だから伊勢神宮で御垂迹を思って詠んだ歌は、天照大神に対してのものだ。そして大日如来は太陽であり真理であった。しかし、先に紹介した歌は「みもすもの川の畔」で詠んだ歌だ。「みもすもの川」とは五十鈴川であり、倭姫命が穢祓をした川でもある。その穢祓の川沿いに櫻を植えようとの歌であるが、岩戸神話から天照大神の事を詠っているのか?と思いつつ、陽気の天照大神に陰気を重ね合わせる歌に疑問を覚える。
西行の歌で一番多いのは、桜の歌か?と思いつつ、実は恋の歌が多かった。次に来るのが桜の歌で、次が月の歌である。そしてその西行が、平泉の奥州藤原氏の元へ行った後に詠んだ桜の歌がある。
花見れば そのいわれては なけれども 心のうちぞ 苦しかりける
(花を見ると理由はわからないが、心が切なく苦しくなってしまう。)
恋の歌の次に多いのが桜の歌であるようだが、恋の歌と桜の歌は重複しているのが多いのだが、ある意味西行は恋多き歌人でもあった。その恋多き歌人の西行だが、この歌は桜の面影に誰かを想う歌なのだと誰しもが思うだろうが、それは果たして人間の女性であろうか?桜の下で死んだ西行は、その願いが成就したのだが、桜を女性に見立てての想いを貫いたのか、はたまた桜に重ねるべく神がいて、その身許に委ねる様に死にたいと想ったのかは謎である。ただ、大日如来と天照大神を重ねた歌には、榊を依代として登場させている。
神路山 月さやかなるかひありて 天下をはてらすなりけり(西行上人集601)
太陽神である天照大神の祀られる伊勢神宮において、太陽では無く月が世を照らすという歌とは、どういう意図からのものであろうか。実は、桜と月に重なる神がいる。月は月の変若水信仰から、天の眞名井の清い水と重なり、穢祓の川と繋がる。その月の使いである兎は、その水の路を繋いで伊勢へと流れる。その川は宇治川であり、兎路川でもあり、それは五十鈴川と繋がる。伊勢神宮の前に渡る橋を宇治橋というのは、その流れが繋がっている為だ。その兎路の源流は琵琶湖の桜谷であり、佐久奈谷の桜明神からのものであった。その流れから「大祓祝詞」が誕生し、その桜明神は佐久奈度神社に祀られ、宇治の橋姫神社にも分霊された。
西行が平泉にいた期間は、3か月とも1年とも伝えられるが最低でも冬には到着して、桜の咲く頃まではいた筈であろうから半年は滞在したのだろう。2度目の平泉は、燃え落ちた奈良の大仏の寄進の願いで行ったのだが、そこまでの頼みを聞いて貰える間柄となったものには、奥州藤原氏と何等かの共通した意識があった筈と考えるのは無粋であろうか?京都に生まれ、大和の吉野の桜に魅せられた西行であったが、更に心惹かれたのは束稲山の桜に出逢ってからであった。奥州藤原氏の崇敬した神は元々、京都から渡った神であった。その深い縁を感じた西行は、益々桜に惹かれて行ったのだろうと思えるのだ。その為に、この
「花見れば そのいわれては なけれども 心のうちぞ 苦しかりける」という歌は、桜の影に隠れる神に恋してのものであったのだろうと考える。