これも同じ頃のことらしく思われるが、佐々木君が祖父から聞いた話に、赤い衣を著た僧侶が二人、大きな風船に乗って六角牛山の空を南に飛び過ぎるのを見た者があったということである。
「遠野物語拾遺235」この「遠野物語拾遺235」を読んで、フト思い出したのが
「日本書紀 斉明天皇記」の即位して後の夏五月の記述だった。
「空中にして龍に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。靑き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて膽駒山に隠れぬ。」空を馳せるものとは大抵は鳥なのだが、この当時は龍もまた空を馳せるものとして信じられている時代だった。つまり、具体的な龍のイメージは無く、鳥以外の空を飛ぶ不明なものは龍と捉えた可能性もある。また、当時の日本人の着る衣装以外のものを来ている者は、異文化人である唐人でもあると捉えているようだった。ただ、鳥以外で空を飛ぶモノとなると、この時代では有り得ない話だろう。
ただ気になるのは、江戸時代に流行った
「うつろ船」というものがある。これはUFOではないか?と外国人も、この江戸時代の「うつろ船」の記事を採用してUFO記事を書いているようである。画像は滝沢馬琴などが手掛けた随筆「兎園小説」に、馬琴の長男である滝沢琴嶺の絵が挿絵として採用されたもののようだ。この「うつろ船」の舞台は、常陸国の浜で、海から漂着したものか、空から飛来して浜に降り立ったものであろうか本当のところはわからない。ただ、うつろ船の乗員は「蛮女」という表現であるから、南蛮の渡来人女性をイメージしているのだろう。時代は江戸時代であるから、斉明天皇時代と違い、白人系も多く日本に来ているので、斉明天皇時代の唐人より南蛮人の方が、より異人らしいイメージがあったのだろう。
加門正一「江戸うつろ船ミステリー」では、「うつろ船」を学術的に解明しようとしているが、この現代のUFOらしきうつろ船の造形に関しては、ひさご誕生譚から
「ひさごの形状では?」という疑問符が付いたままで断定は出来ない様だった。瓜から生まれた瓜子姫もひっくるめ、瓢(ひさご)誕生譚の可能性は、確かにあるだろうが、その瓢を家に見立てて窓を付けたりする想像力が、江戸時代ではどうだったのかは、確かによくわからない。ただ感じるのは「日本書紀」における
「龍に乗る青い笠を着た唐人」と
「うつろ船の蛮女」の根っ子は、同じ様な気がする。
さて、その「うつろ船」の話は、かなり全国に広がりを見せている様で、いくつもの似た様な話が伝わっているのも、元からの話から伝播したからのようだ。ところで「遠野物語拾遺235」に戻るが、赤い着物を着た僧侶が大きな風船に乗ってとあるのだが、風船が初めて入って来たのは1857年の大阪で、普及したのが明治以降のようだ。「遠野物語拾遺235」では、佐々木喜善は祖父から聞いたとあるが、佐々木喜善は1886年生まれであるから、その祖父でもせいぜい40歳ほど年上と考えていいだろう。
つまり祖父の誕生日が1846年頃の天保年間であるのならば、当然風船の事は知っているだろう。画像の様に遠野の裁判所で平成の時代に天保元年生れの人探しがまだ公示されていた事を考えれば、天保生れもまだ身近な存在なのかもしれない。つまり、佐々木喜善の祖父のような天保生れも近代でありながら、江戸時代と明治時代をの狭間の生き証人であり、様々な事を知っていたのであろうと想像する。その祖父が更に人から聞いた話が、この風船に乗って空を渡った話だが、どうもこれも「うつろ船」の亜流の話ではないかと思えてしまう。画像の一つに、まん丸な円盤状のうつろ船があるが、見方によっては丸く膨らんだ風船の様でもある。「うつろ船譚」は、江戸時代には似通った話が伝播し多数あるのだが、その「うつろ船」の話を更に「日本書紀」の話と融合させ変化させたのが、この「遠野物語235」の話の様に思えるのだ。伝播の時間を考えても、江戸時代に発生し広がった話が遠野に伝わるまで、かなりの年数を有すると云う。その丁度良い頃合いに、佐々木喜善の祖父の友人が祖父をからかうように
ひょうはくきりとして話したものなのかもしれない。