土渕村山口に新田乙蔵と云ふ老人あり。村の人は乙爺といふ。人は九十に近く病みて将に死んとす。年頃遠野郷の昔をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖のやうに言へど、あまり臭ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。処々の館の主の伝記、家々の盛衰、昔より此郷に行はれし歌の数々を始めとして、深山の伝説又は其奥に住める人々の物語など、此老人最もよく知れり。
「遠野物語12」
こうして現在、遠野を巡って調べるに、その地域の話を深く知る人間は古老であり、翁となる。遠野は「語り部のおばあさん」として商業的に宣伝されるが本来、深くいろいろ知っているのは地域の翁であるのは、女性は嫁として嫁いで、朝から晩まで仕事に追われ、地域の話を聞く余裕など無かったよう。その為か、日中に家を訪れても家を守る女性は
「お父さんが帰って来ないとわからない。」と言う場合が多々ある。
例えば、綾織の笠通山に、2年続いたアイオン台風とカスリン台風の後に三笠山という石碑を建てたのだが、何故に三笠山なのかを知っている古老はいなかった。聞くと
「当時の古老の言うとおりに。」という答えだけが残っているのは、そういう古い風習や信仰に対する興味が失せてきたせいであろう。また明治時代に、ロシアの民俗学者であるネフスキーが遠野を訪れ、オシラサマを調べ変える時に、そのオシラサマをお土産として貰ったと云う。それはつまり、明治時代には既にオシラサマの信仰が薄れ、そういう碑と昔前の風習よりも、新たな西洋文明の到来に嬉々としていた時代であったろうと想像する。古いものより、新しい、見た事も聞いた事も無い文化の波に、人々の心が惹かれたという事があったのだろう。
2011年に三陸大津波の災害により
遠野文化友の会から出版された
「大海嘯 被害録」によれば、2011年と同じように、明治29年にも三陸大津波が起こり、沿岸域は壊滅状態に追い込まれた。そして同じように日本国政府関係者は遠野を拠点とし、沿岸地と連絡を取りあう為にケーブルを結んで、電話を通し、それを垣間見た遠野の人達は驚いたという。それが遠野での初めての電話であったと。とにかく明治時代になり、津波だけではなく岩手県にも文明開化の波は押し寄せたようだった。ただその代り、古いものに対する敬意は失われたのかもしれない。戦後、テレビや冷蔵庫、洗濯機など見た事も無い文明の利器が広まり、新しい時代に目を奪われて行った。その為に、古いものに対して、目が行き届かなかったのかもしれない。風習や信仰は形式だけとなり、意味を伴わなくなった。
小友町には、胎内巡りの大岩が山中にあり、その当時は村人総出で年に一度、山に登り、その胎内巡りの大岩の穴を潜ってから下山し、家に帰って風呂に入ったと云う。その胎内巡りの多い割前には小さな社があったが、今では残骸だけが残っている。これも、余分な信仰として廃れたという事だろう。
「注釈遠野物語」によれば、乙爺は土淵町第三地割の字名が南沢で、そこで乙蔵家と呼ばれて1人で住んでいたそうである。乙爺は、確かに誰かに伝えたかったのだろう。誰も耳を貸さなかったのは、一人暮らしで家も汚く臭かっただけではなかったろう。それでも、昔の事に興味があり、それを知りたい者は聞きに行った筈だ。それが無かったのは、時代の流れもあったのだと思ってしまう。
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