此も似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺は曹洞宗にて、遠野郷十二ヶ寺の触頭なり。或日の夕方に村人何某と云ふ者、本宿より来る路にて何某と云ふ老人にあへり。此老人はかねて大病をして居る者なれば、いつの間によくなりしやと問ふに、二三日気分も宜しければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にて又言葉を掛け合ひて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来りし故出迎へ、茶を進め暫く話をして帰る。これも小僧に見させたるに門の外にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見れば亦茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日失せたり。
「遠野物語88」
これも本当に「遠野物語87」そっくりの話だ。ただ、過去から老人に聞いて来た人魂譚や狐火、狐に化かされる話は、どこか定型化されているきらいがある。ある意味、人から聞いた話がいつの間にか自分の体験談の様に語るものに近いのかもしれない。遠野には「ひょうはくきり」と呼ばれる人達がいたという。「ひょうはくきり」とはつまり「ホラ吹き」だ。人を喜ばす為に、ホラを吹いて喜ばせる。そのホラも、あたかもホラとわかる場合は笑い話で済むが、真実かホラかわからない場合は、相手を戸惑はせる。
明治29年の三陸大津波において
「沿岸が大変な事になっているらしい!」という情報が広がると、何人かが峠を歩いて海に向かったと云う。車も列車も無い時代に、その津波の状態を確認し、遠野に戻ってその話を伝えたい話したいと思っている人が山の峠を登ったのだろう。そしてそういう人達の”土産話”を期待して待っている遠野の人達もまたいた。テレビやラシオなどが無い時代、ましてや文字も読めない人が多く居た時代は、人の話を聞くのが楽しみの時代であった。その人達を喜ばすのを生きがいとした人がいた。
このオマク譚も、とこかの話を感心し面白いと思い、自分達の土地に持ち込まれた話である可能性はあるだろう。そうでなければ、これほどまでに似た様な話が多い理由がわからない。ただそこには遠野独自のオマクという現象を信ずる民衆の意識があった事が、その全てであったのかもしれない。
現代で幽霊の存在を信じるという人が、どれだけいるだろう。心霊譚はいつの時代でも流行るものだが、科学の発達した時代にそれを頭から信じる人は減って来ている。ノーベル物理学賞を受賞したブライアン・ジョセフソンは、心霊現象を科学するとして現在その解明に努めているというが、学界ではブライアン・ジョセフソンの行為に難色を示しているという。科学的と心霊的とは相まみれないものと学界では認識されているからの為だ。しかし世界には心霊現象と云われるものが無数に出回り語り継がれている。それは信仰の狭間に落された堕天使のようなものかもしれないが、その舞台が日本になれば妖怪であり幽霊となる。その日本には祟りの文化があり、古くは貶められて死んだ菅原道真が祟られるという認識に加え、落雷などの偶然が重なり、祟り神に祭り上げられた。死んでも尚、生きている人達に接触しようとするのは
”余程の想い”があるからと当時の人々は考えた。その想いが怨みであるなら祟りとなり、見守るという優しい想いに変化した場合、祖霊などとなるのが日本の文化でもある。
先祖を大事にする、もしくは祖霊を大事にしたいという想いは、ある意味『祟られたくない』という想いの反転である。墓参りをしないから、家に悪い事が続きが没落したなどという話は、そこに起因している。「草葉の陰で泣いている」という言葉も、祖霊がいつも見守っているという言葉でもあり、いつも霊に監視されているのだという強迫観念にも通じる。つまり霊からいつの間にか日本人は逃げる事が出来なくなっているのが現状だ。しかし、だからといって、それが悪という事は無い。付喪神では無いが、物を大事にする、人を大事にするという観念が、言葉は悪いが日本の文化の根底にあり祟られない
”秘訣”であるという認識をどこかで持っている日本人は、世界でも稀有な存在である。そういう意味から、遠野に広がるオマク譚というものは、霊を身近に感じ、常に意識する為の話であるのかもしれない。