小出のバス停「婆石」は、もう文字が擦れて見えなくなっていた。婆石の地名は、傍にある婆石からきている。
「婆石」のバス停の後ろに野原があり、そこに大小二本の杉の木が立っている。その根元に婆石がある。
婆石と並んで、枯れた木の根があるが、これは昔、婆石を示す為イチイの木が植えられていたそうな。こうしてみると祭壇のようでもあり、婆石は祀られた石であったのだろう。
枯れたイチイの木と隣り合わせになっている石が婆石だ。意外に小さい石で、イメージとは違ってしまう。
「婆石」「姥石」と
「遠野物語拾遺12」で書かれているように、女人禁制の地を犯した巫女が、山神の怒りに触れ、吹き飛ばされて落ちたところ、石になったという伝承である。六角牛山にも、同じ伝承がある事から、遠野三山全てに、この女人禁制の伝承があるのだろう。
神域である山が女人禁制となったのは、
千葉徳爾「オオカミはなぜ消えたか」によると、山伏が山を占拠した為、女性である巫女は山に登れなかったという説に加え、山に棲む魔物から女性を守る為であったという。これは、女性の妊娠のシステムが理解されていなかった為だという。つまり、女性というものは、人と交われば人の子を産むが、獣と交われば獣の子。魔物と交われば、魔物の子を産むと信じられていた為であったよう。その女性を山の魔物から護るには女人禁制とするのが確かに無難であったろう。
ただ気になったのは、この婆石の地に「天照皇大神」の石碑があるという事。天照の石碑は珍しいというわけでは無いが、実はこの婆石の先には何故か、天照の石碑は皆無となる。山神の石碑と並ぶ天照皇大神は、もしかしてこの先に行けないのでは無いか?と思ってしまうのだ。
早池峯神社入り口手前に、神名を刻んだいくつかの石碑がある。そこにあるのは「愛宕山」「金毘羅大神」「山神塔」「三峯山」「駒形神」「保食大神」であり「天照大神」は存在しない。早池峯神社周辺を探索しても「天照大神」は、いないのが現状だ。
天照大神は別名「大日孁(おおひるめ)貴神」と呼ばれる。「日孁(ひるめ)」の「め」とは「女神(めがみ)」の「め」であるというが「孁」の漢字は「霊」「女」の組み合わせで成り立つ漢字であり「霊女」、即ち「巫女」であるとされる。この天照大神の女神説と巫女説は、未だ結論されていないのが現状のようである。
ただ、天照大神がもしも巫女であるならば、婆石の結界石は巫女を寄せ付けないモノであるから、この小出の婆石の先には行けないとなってしまうのだ。
この婆石のある小出の少し手前に、御祖神社というのがあり、そこに天照大神は祀られている。
早池峯神社を含む大出、婆石のある小出を含む附馬牛には、どうも天照大神に対する禁忌があるようだ。例えば
「遠野物語拾遺148」において、伊勢参りをすると凶作になるという。また
「附馬牛村誌」には、この天照大神を祀る御祖神社を早池峯大神を祀る新山神社に合祀しようとしたら災害が起きたと書かれている。もしかして、早池峯大神は天照大神を嫌っているのか?ここで思い出すのが婆石の結界石だ。
例えば椿大神社を調べた時の
「石神社略縁起并古書」には、まず倭姫命が霊巖に太神宮荒魂を奉斎したとあり、その後に天照大神が巖上に影向したと記されている
。「日本書紀(神功皇后)」の
「秋九月の庚午の朔巳卯」には、こう記されている。
「荒魂は先鋒として師船を導かむ」
伊勢における荒魂は、早池峰大神でもある。その荒魂が先鋒として思い出すのは、朝廷側による蝦夷征伐である。
「室根神社史実録」によれば、養老二年に蝦夷平定を願って
"神明の霊威"を頼って勧請されたのが熊野本宮神であった。その熊野神は、熊野灘から海を渡り、現在の唐桑半島(宮城県)に辿り着き仮宮を建立し祀ったのが、早池峯大神と同じ神を祀る業除神社となる。「神明」とは一般的に伊勢神宮を意味し、そこに祀られる天照大神の事を意味する。
熊野と伊勢は対比させられる存在だ。「光と影」「生と死」「表と裏」など、伊勢と熊野は表裏一体の関係の様であった。「日本書紀」の一書によれば伊邪那美は、紀伊の熊野の有馬村に葬られたと云う。当初は墓所のようであったが、現在は花窟神社が建立され、伊邪那美が祀られているのだが、それはつまり熊野が黄泉の国の入り口と捉えても良いだろう。それだけ熊野は死に近い地である。
その熊野から
"神明の霊威"つまり
"天照大神の霊威"示す為に蝦夷国へ運ばれたのが、
天照大神の荒魂でもある
早池峰大神であった。早池峯大神は水神でもあり、穢祓の神でもある為か先鋒神としてその地を浄化した後に、天照大神が影向するという一連の流れがあるのだろうか。とにかく、荒魂が先であるらしい。
しかし何故に小出の婆石から先には、天照大神の石碑が無いのか?実は、ここでもう一度伊勢神宮を調べるとわかるのだが、天照大神を祀る内宮と、その荒魂を祀る外宮とは別の地名である。
「日本書(神功皇后)」に
「我が荒魂をば、穴門の山田邑に祭はしめよ」と記されているように、荒魂の祀られる地名は山田邑の地である。つまり、天照大神と荒魂は同じ地を踏まないのだ。ところが何故に、内宮と外宮を別の地に祀ったのかは、その明確な理由がわからない。まだ調べていないのもあるのだが、確定しているのは荒魂は指定されて別の地に祀ったという事だけだ。
天照大神が同じ地を踏まないのは、なんとなく理解できるのだが、それでは婆石から先に、何故に天照大神は進めないのか?それは先に記した様に、天照大神は別名大日孁貴神というように、実は神では無く「巫女」であるなら、この婆石の結界石から先には進めないのは道理となる。それ故に、神でない天照が早池峰大神を祀る新山神社に合祀されそうになった時に災害が発生したのは、早池峯大神の怒りであり神威であったのだろう。
しかし天皇の皇祖神である天照大神が単なる巫女であるというのは現代では理解できない人が殆どだろう。しかし天皇家の一族が、過去の歴史の中で殆ど伊勢神宮を参詣してない事実から、天照大神には、多くの謎が含まれているのだけは理解できるのだ。