画像の絵は北斗曼陀羅。正確には
「終南山曼陀羅」と呼ばれるものだ。そこには十二宮、二十八宿、北極紫微大帝の坐す妙見殿の天官、更に三尸、三魂、七魂、五臓、等々が描かれている。その中に注目したいのは、滝があり女神が佇み、そこに民が願いをしている姿がある。
早池峯などの高山は、昔は修験者が登る程度で、民は恐れ多くて登る事は無かった。遠野では、人は死ぬと、その魂は滝で清められ早池峯に登って行くとされた。これは早池峯だけでなく、地域の高山全てにそういう信仰が伝わっていた。魂は天へと昇って行くもの。つまり、高山の頂は天に通じるか、天そのものと考えられていた。その早池峯の麓に、又一の滝がある。又一の瀧は、早池峯神社から更に奥へと進むのだが、又一の滝は旗屋の鵺などの話も伝わる事から、古くから又一の滝への道は開けていたのだろう。つまり、早池峯に登らずとも、直接早池峯の御神体に向かって祈願する事は容易であった筈だ。早池峰から繋がる天に対しての願いの入り口が、麓の滝である又一の滝であった可能性はあるだろう。
「衣川伝説」においても、妙見は恐らく水神であろうという事だ。星の神といえば、建葉槌命に倒された香香背男が有名だが、日本海の沖に浮かぶ星神島において雨乞いの神として、何故か香香背男が祀られている。星の神と水神との結び付きは、未だに理解できない面があるが、
安田宗生「熊本の妙見信仰」を読むと、熊本の妙見神の殆どは水神であるという。安田氏曰く、恐らく水神に後から妙見神が習合したのであろうという事だ。考えてみると、妙見神は亀に乗って海を渡って来た女神であり、それは竜宮思想にも結びつく。熊本県神社庁の妙見神の見解は
「熊本神社庁誌」によれば
「神仏混合の熟した平安末期から鎌倉初期にかけて広まった。」としている。
ところで熊本県の妙見神の中で気になる神社がある。白川吉見神社は水神を祀る草部吉見神社から分霊された神社だが、その白川吉見神社では、社殿の前の水源を妙見としている。まあ湧水や水源を妙見としている神社は多いのだが、白川吉見神社の祭神は國龍神。つまり阿蘇の龍神である健磐龍命に嫁いだ草部吉見神社の水神である阿蘇津比咩の事を言う。以前、阿蘇津姫は瀬織津比咩であると述べたが、この白川吉見神社ではその龍神である、阿蘇津比咩=瀬織津比咩が妙見神と結び付いている。
つまりだ、何故に水神である竜神と妙見神が結びついたのかは、やはり亀に乗って来た女神がそのまま伝えているのだろう。亀に乗っているのは龍神である女神であり、つまり亀は船の代わりであり、女神を運搬しているのだ。
植野加代子「秦氏と妙見信仰」によれば、妙見という地名と秦氏が結びつく事に着目し調べると、秦氏の扱う織物であり鉱物であり酒などを輸送する場合に船を使用していた。つまり、水上交通である。その水上交通を抑えていたのは秦氏であった。例えば淀川も秦氏の勢力範囲内であるが、琵琶湖から流れる宇治川水系の淀川に祀られる與止日女は瀬織津比咩と習合し、宇治川の橋姫も瀬織津比咩と並び祀られる。水上交通に秦氏が関わり、秦氏と瀬織津比咩が強く結びつくのを感じる。例えば、
「遠野物語拾遺119(神業)」においては、遠野の琴畑渓流の社に祀られていたのは瀬織津比咩であり、そこでは木流しという、やはり樹木と言う物資を川を利用して流す事が行われていた。前にも述べたように、琴畑には秦氏の影が見え隠れしている。
もう一つ、妙見と水神の結び付きを示しそうな話がある。
平田篤胤「古史伝」では
「必ずここは大虚の上方、謂ゆる北極の上空、紫微垣の内を云なるべし。此紫微宮の辺はも、高処の極にて天の真区たる処なれば、此ぞ高天原と云べき処なればなり。」と、高天原を称して述べているのは、高天原が本来、北辰崇拝に基づくものと考えたからである。そして妙見では、五と三の数字を重んじる。北極五星は天上の最も尊貴な星とされるのだが、その中でも三星は特に尊い星とされている。その三と五の組み合わせに関する神話が
「古事記」に登場する。それは天照大神と素戔嗚尊による誓約の場面だ。そこで三女神と五男神が生れるのだが、その後の扱いを見ても、三女神の扱いを重視しているのは、三女神と三星が結び付くからと考える。その三女神は
宗像三女神で、水神である。その宗像三女神の中でも多岐都比売命を祀る中津宮である大島には星の宮があるのを知った。またその大島には星の信仰をしたであろう安倍一族の安倍宗任の墓も存在する。以前、多岐都比売命は瀬織津比咩では無いかと書いたが、星を通してここでも繋がる。とにかく「古事記」に於いても、水神と星神の結び付きが成されていたのである。