この政吉が小友村にいた若い時のことである。ある年の正月三日に
小友の柴橋という家から、山室の自分のいた家まで、帰って来る途
中で暗くなった。すると前に立って女が一人、背中の子供をゆすぶ
りながら行く。その子供が時々泣く。日頃知っている女のようにも
思ったが、それが子供をおぶいながら、こちらが幾ら急ぎ足である
いても、どうしても追いつけぬのでこれはおかしいと感じた。その
うちに自分もかけ出して追いつこうとすると、つと路を外して田圃
路を、背中の子供を泣かせながら、一向平気であるいている。路の
無いところをしかも雪の上なので、ははあこれはてっきり"おこん"
だと思い当ったのであった。
やがて自分の部落になり家に入って行こうとすると、もうその女が
こちらより一足先きに自分の家へ入って行くのであった。家には多
勢の若者が集まって、賑やかに遊んでいた。政吉はそこへ行きなり
飛び込んで、おい今女が来なかったかときくと、皆して笑って狐に
ばかされて来たなと言った。そこで試みに障子を開けて外を見ると、
はたして風呂場の前に一疋の狐が、憎らしくもちゃんと坐って家の
方を見詰めている。よし来たと猟銃を取出して、玉をこめて火縄を
つけると、どうしたものか火が消えて火薬に火が移らない。そこで
考えてそっと友だちの一人を呼んで、その鉄砲を持たせてそこにい
て狙っていてもらい、自分は今一挺の鉄砲を出して厩口の方へまわ
り、狐の横顔を目がけて一発で仕留めてしまった。
大変に大きな狐であったという。その晩は御蔭でみんなと狐汁をし
て食ったという話。この爺にはまだ色々の狐の話があるが、小友で
狐に騙されて塩鮭三本投げたという話など、たいてい他でもいう話
と同じようであった。
「遠野物語拾遺206」

まず、政吉が追いつこうにも追いつけなかったと記されてあるが、これは
「現代遠野物語(不思議な女性)」でも紹介したように、似た様な話がある。この昭和時代に起きた「不思議な女性」の話は、狐に関する似た様な話を真似たようでもある。また、暗くなるシーンがあるが、これは
「遠野物語拾遺189」に、お稲荷様が天候を操作する話が紹介されている。これもお稲荷というより狐の摩訶不思議な力を語ったものであろう。
ところで文中に
「ははあこれはてっきり"おこん"だと思い当ったのであった。」とあるが
「おこん浄瑠璃」という、狐を我が子の様に可愛がったお婆さんとの哀しい話がある。そこに登場するのが"おこん狐"だ。「おこん浄瑠璃」の成立年代はわからぬが、恐らく政吉の言う"おこん"とは「おこん浄瑠璃」に登場するおこん狐を意味しているのではないか?となれば、その"おこん狐"を簡単に撃ってしまう政吉の方を悪者として感じてしまう読者もいるのではなかろうか?
とにかく「遠野物語拾遺」には、いろいろな狐の話が紹介されているが、その大抵は狐と判断した瞬間に物語の人間は、ためらいなく狐を殺してしまうのだ。読んでいて、痛々しいくらいに狐に対して無慈悲で残酷な人間達の行為は、その物語を子供達に聞かせる時、語り手は何を思い話し、子供達もどう思いながら聞くのであろうか?
狐が人に化ける話は中国から入ってきたようだが、その中国の話は殆ど人間にとって負の要因になるような話ばかりであるが、輸入元の中国よりも日本の方が、いつの間にか狐の話が発達したのは稲荷信仰と結び付いた為であろう。8世紀の
「日本霊異記」には狐女房の話が載っており、正体がバレ、去って行こうとする狐女房に対し男は
「いつでも"来つ"つ、"寝"にくるがよい。」と言い、それが
「来つ寝(きつね)」として狐の語源の様な説話となっている。先の「おこん浄瑠璃」も含め、狐が人に化ける話にはプラス面と、玉藻の前などの九尾の狐のようにマイナス面の話の両方がある。確かに「遠野物語」「遠野物語拾遺」においても、両方の話がある。例えば「遠野物語60」において、狐が猟師の邪魔をする。政吉も鉄砲を持っている事から生業も猟師であるのだろう。しかし狐もまた、自然界の猟師である為に「遠野物語60」のように、人間との縄張り争いが起きる。その事から、猟師にとって狐は憎き存在であるのだろう。だから政吉には"おこん狐"であろうが、撃ち殺すのに躊躇いは無いのだろう。しかし「おこん浄瑠璃」の話においては、主人公のイタコの婆様は、厄介事を運ぶ狐を、我が子の様に可愛がる。しかし直接の被害を被る猟師と、間接的な厄災をイタコに運ぶ狐に対する意識は、やはり違うのであろう。
ただそれでも、狐の悪戯に対し、簡単に鉄砲で撃ち殺したり、棍棒で打ち殺したりする話に気分が悪くなってしまうのは、現代の多くの人が生き物の生と死から離れてしまっているのも、一つの要因であろう。例えば、地鶏を飼っている農家では、食べるその日に地鶏をシメてしまう。生き死にが日常に組み込まれた生活を送る人にとっては、狐を殺すのに躊躇いは無いのであろう。今では猟銃の事件も頻繁に起き、狩猟免許の試験も難しくなったという。また経済的に猟銃を手放し、新しい人材も増えない狩猟の世界は、益々過去の遺物に化してしまう。そうなれば、この「遠野物語拾遺206」を読んで嫌悪感を感じる人が、益々増えるのかもしれない。つまり、この「遠野物語拾遺206」はまだ、直接的に生物の生き死にに関わる生活をしていた時代に語られた話であって、現代のこの時代とでは温度差があるという事だろう。
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