前から違和感があった伝説は
「清滝姫伝説」だ。容貌麗しい14,15歳の少女を官女の教育を施す為に3年の間、和歌などを習わせていたという。その時に、現在でいう岩手県"山田町"から来た左内という男と、官女候補の清滝姫が恋に落ちて、最後は早池峯の麓、猿ヶ石川の源流の滝へ行ってそこで死んでしまうという伝説だ。それは猿ヶ石川の語源説にも繋がるのだが、その猿ヶ石川の源流には、美しい一つの滝が存在する。それが画像の滝である。
しかしだ、和歌などを含め官女の教育を遠野でやっていたのには疑問が残る。そういう機関があるのならば、歴史上の書物に、何等かの記載がある筈が、まったくないのだ。また山田町から来た役夫である左内という男も疑問だ。役夫とは公役に使役される力仕事を人夫などを言うが、伊能嘉矩は恐らく和泉式部の時代であったろうとサラッと書いているが、和泉式部は10世紀の人間で、その頃に遠野に官女の教育機関がある事も、山田町で役夫が居た事すら歴史書には記録されていない。恐らく、まったくの創作かとも考えられる。
平成初期に学者の大川氏が南部藩が他藩からの古文書を利用して、南部藩の歴史に組み込んだとの指摘をしていた。また織田信長に白鷹を献上したのは、岩手県の遠野では無く、福島県の遠野であろうとも指摘していた。とすると「清滝姫伝説」も、確かに初めから創作するのではなく、どこかの伝説を持ち込み、遠野流に変換したと考える方が自然なのかもしれない。では、それが何処から持ち込まれたのか?という事になるだろう。
そこで探して見つけたのは、現在の静岡県の伊豆周辺である。ところで早池峯の開山伝説に登場する始閣藤蔵とは、伊豆生れであるという。伊豆権現を守り本尊とし、蕨峠を越えて来内の地に入り、その来内で狩りをして暮らしたという。始閣藤蔵が生れた伊豆には伊豆山神社というのがある。その伊豆山神社の
「伊豆山略縁起」には、こう記されている。
神功皇后三韓を征したまふ時、神威を船中に示し、将卒の形を現し給ひしかば、異国の兵これを見て、悉く恐怖すといふ。或は託宣したまふには"伊は夷なり、豆は頭なり"、故に、東方の人、わが神威を仰がば、一天下の頭首たるべし。
この「伊豆山略縁起」によれば
、「伊豆(いず)」とは
「夷頭(いず)」であり、調べれば蝦夷の国の始まりを意味するようでもある。始閣藤蔵は伊豆権現を守り本尊として持ってきたというが、その伊豆の神は神功皇后の神威が組み込まれ恐るべき存在でもあるようだ。これと似た様なものに、やはり岩手県の室根村に持ち込まれた蝦夷征伐に神威を発揮する神がいた。その名を瀬織津比咩といい、現在早池峯に祀られる神である。そして始閣藤蔵もまた、遠野の来内村に伊豆権現を運び込み、早池峯に願を掛けて伊豆神社を建立し、やはり早池峯に祀られる瀬織津比咩を祀っている。この偶然は、たまたまであろうか?
その現在の静岡県の伊豆地方に瀬織津比咩を祀る神社がある。瀧の宮と称される瀧川神社は、古くから式内社(名神大社)であり、伊豆国一宮の三嶋大社の社人が瀧川神社の瀑布で身を清める風習が古くから続いているという。三嶋大社自体は、何度か移転して現在の地に鎮座しているのだが、移転しても尚、瀧川神社で身を清める風習は続いて来たというほど、三嶋大社にとっても重要であるのが、瀬織津比咩を祀る瀧川神社であるようだ。その瀧川神社の鎮座する地名を古くは
"山田"と言った。正確には
錦田村大字山田であるが、これが岩手県の山田町であるなら、古くは
"山田村"と称する筈である。しかし「清滝姫伝説」では、山田から来た左内という男…とあり、山田を村とは記していない。つまり山田という地名は村では無く、単に山田という地であるのだろう。
また伊豆山神社の西北には古古井の杜があるが、
清少納言の「枕草子」において
「杜はこゝゐの杜。」と記されているように、古来から時鳥の棲む地域として有名であり、歌枕の地としても名高い。その為に沢山の歌が詠まれている。また気になるのは、この伊豆地方で古くから唄われる投節という小唄がある。投節とは本来
"梛節"から来ているという。
こんどござらばもてきてたもれ、いづのお山のなぎの葉を。
この歌は伊豆地方で流行り、いつの間にか都会にも歌われるようになったようである。この小唄を知って思い出したのは
「遠野物語拾遺98」において天狗が冬の六角牛山から梛の枝を万吉爺様に持っ来たくだりだ。六角牛山には梛の木は自生していない。本来、梛の木は温暖な地域に生えるもので、どう考えても遠野に梛の木がある筈も無いからだ。それでは「遠野物語拾遺98」の記載が間違っていたのか?と考えるのだが、この伊豆に伝わる梛節が遠野に伝わり、それを物語として語られたのであるのなら納得するのだ。つまり、伊豆地方の伝承やら習俗が遠野地方に古くから伝わって広まったと考えるのが、一番無難であろう。それを伝えた人間は、始閣藤蔵から始まったものであろう。
そしてまた、伊豆地方には
"左内神社"というものがある。断定は出来ないが、この様に静岡県の伊豆地方には「清滝姫伝説」に関する細かなパーツが沢山点在している。官女の養成機関があり、歌などを覚えるとしても、遠野と伊豆では歌の歴史が違うのである。よって「清滝姫の伝説」は、伊豆地方から伝わったものが遠野流にアレンジされて定着したものだと考えるのだ。ただ何故に「清滝姫伝説」が作られ語られたのかを、もう一度考える必要があるが、それは次回にする事とする。