鍋倉山の裏側に
「行灯堀址」の立て看板がある。そこには、こう記されている。
「遠野古事記」には、次のような言い伝えが記されている。慶長五年(1600年)に阿曽沼氏が没落し、遠野が南部領になって盛岡南部利直が領地巡視に来た時、二の丸の西の方は山林になっていて、要害のとしてはおぼつかなく見えたので、利直は遠野を出発する前に、草木を刈り払い新しい空堀を完成させるように現場を指図した。ところが岩があったりして思うように仕事がはかどらず、夜中も提灯や角行灯などを灯して工事をしたので、後の人々はこれを「行灯堀」呼んだ。また物見山に続く丘には段上の帯郭を開き、白兀(しらはげ・しらはぎ)と称した。物見山に向かって左側に鉄砲稽古場の跡といわれる段丘がある。ところが、この行灯掘には別の伝説があった。
その昔、白萩が昼でもなお薄暗い気味の悪い程に鬱蒼とした森があった頃の事である。この森には夜になると、いつも出て来ては行灯を灯し、糸もみをする女がいた。これはおかしいと、ある猟師の男がその女を鉄砲で撃ってみた。ところがどうした事か鉄砲の弾は一向に当たらなかったと云う。猟師は不思議に思って、上郷町細越の師匠に相談しに行った。すると師匠は「それは人間では無いから、女を狙って撃つのではなく、行灯の灯りを狙って撃て」と教わった。
猟師は再び白萩へ行き、暗くなるのを待っていた。辺りが真っ暗になると女が現われてきた。今度は、女では無く行灯の灯りを狙って撃ったところ、手ごたえがあったという。見るとその正体は、この白萩の森に何百年と棲む巨大な蝦蟇であったと云う。それから遠野の人達は、この森を行灯森と呼ぶようになり、その地名は今も白萩に残されている。今年、この行灯掘の下方にカメラを仕掛けてみると、キツネとハクビシンなどが写っていた。然程、多くの動物が写っていたわけでは無かったが、それなりに動物の通り道であるようだった。
ところで、ここでもう一つの似通った話を見つけた事になる。
「遠野不思議 第七百十四話「怪異狐の稲荷」にも書いたように、似た様な話は綾織の笠通山、宮守の寺沢、小友の外山、そして遠野の鍋倉山にあった。探せばまだあるかもしれないが、全て共通するのは昼でも暗いという場所という事だろう。現代とは違い、昔は暗闇に対する恐怖が、かなりあった。照明器具は現代とは違い、ロウソクや行灯の灯り程度で、灯りの周りを仄かに照らす程度で、その奥には闇が広がっていた為、家の中でも魔物は潜んでいると信じられていた時代があったのだ。それがましてや、魔物の巣窟の様な日の明りが差さない深い森では、この様な物語が作られたのかもしれない。南部の行灯掘の話は、城を築くにあたっての逸話となるが、城が築かれてから現在の遠野の町が開かれたのであって、それ以前は、人の住まない、それこそ鬱蒼とした森が広がっていたのが、鍋倉山とその背後の山々であった。しかしそんな中にも、ポツリポツリと人が住んでいたようで、鍋倉山に城を築く以前の物語であったとしても、何等不思議は無い物語ではある。