土淵村字栃内の山奥、琴畑といふ部落の入り口に、地蔵端といふ山があって、昔からそこに地蔵の堂が立って居た。此村の大向といふ家の先祖の狩人が、或る日山に入って一匹の獲物も無くて帰りがけに、斯んな地蔵がおらの村に居るからだと謂って、鉄砲で撃って地蔵の片足を跛にした。其時から地蔵は京都に飛んで行って、今でも京都の何とかいふ寺に居る。
一度村の者が伊勢参宮の序に、此寺へ尋ねて行って、其地蔵様に行逢って戻りたいと言ふと、大きな足音をさせて聴かせたといふ話もある。今の地蔵端の御堂は北向きに建てゝある。それは京都の方を見ないやうにといふ為だそうなが、そのわけはよく解らない。
「遠野物語拾遺49」
地蔵端は、円錐形の小さな丘の様な山である。頂は円形の平坦で、ここにかって社があった。昔は大の大人が4人で手を伸ばし、やっと回る大きな杉の木や松の木もあったという。
ところで飛ぶといえば、小友町に空を飛んだ権現様の話が伝わる。全国を調べていないのでなんとも言えないが、小友の権現は火事に遭遇した為、その危険回避の為に飛んだようだが、ここの地蔵も同じように危険回避であるようだ。
「注釈 遠野物語拾遺(上)」によると、文中に
「大向といふ家の先祖の狩人が…。」とあるが、琴畑に古くからある家に「大向」の屋号がある事から、恐らくここであろうという事らしい。この琴畑という地は、日当たりも良くなく、水も冷たい。米作りには適して無い土地だが、やはり昔は山で働く仕事に従事する人ばかりであったようだ。大向家の狩人とは、ある意味一般的であったのだろう。

頂には社の基礎の残骸があったが、北向きの社がいつの間にか別当が、向きを変えて祀ったという。ただ何故に北向きかというと、この頂から早池峰がどうにか見えるようで、もしかして本来は、早池峰の遥拝所ではなかったかという事らしい。つまり社は、早池峰山へ向けられて建てられていたのかもしれない。
京都に行った地蔵の後も、この地に地蔵を祀る様になり、木の軽い地蔵であった為、よく子供達が、この地蔵端に登って地蔵で遊んでいたところ、それを叱った大人が熱を出して寝込んだなどと、どこかで聞いたような話が伝わっている。
ただ、何故に地蔵端の地蔵に怒りを向けたのかと考えた場合、気になるのは山の仕事に従事していたのが琴畑に住む住民である事から、やはり山の神を信仰し、この地蔵端も含め、早池峰山への遥拝所が2か所もある。つまり本来、山の神を信仰する民が、何等関係無い地蔵が早池峰の遥拝所に祀られたのを気にしての行為であった可能性はあるだろう。
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