
早池峰例大祭の中でのメインはやはり、神輿を川原に運び、川の水によって穢れを祓うという神事だろうと思う。神輿を担のは1年に1度。そうつまり、1年間に溜まった穢れや負のエネルギーを祓い、もしくは発散するのを目的と考えて良いだろう。
"溜まる穢れ"で思い出すのがオシラサマだ。

オシラサマに対する行為の中に
"オセンダク"というものがある。それはオシラサマに対して神饌を供え、新しい衣を重ね着させる行為だ。服が汚れれば、着替えるのが人間世界の日常となるが、ここでのオシラサマは着替えるのでは無く、古い着物の上に新しい着物を重ねる事であり、これは着替えとは意味が違うのが理解できる。
また、オシラサマに向かって神寄せの経文を唱え、オシラサマを手に持ちシラアの祭文を唱えながら踊らせる行為を
"オシラ遊ばせ"とも云う。これはお祭りでの神霊が乗った神輿を担いで「ワッショイ!ワッショイ!」と揺らす行為と同じであろう。これによって1年間に溜まった負のエネルギーを発散する事が出来る。神という存在は人間の様なもので、人間が家の中でじっとしていると不満が鬱積すると同じように、神も不満が鬱積するので、ガス抜きをしなくてはならないのが、神輿を担ぎ揺らす行為であり、オシラ遊ばせであると考える。

画像は早池峰神社に伝わる古神輿であるが、いつからはこの古神輿が常に神事に使用されているようだ。神事の古い事例は
「恐ろしい女神」で紹介したが、いつしか神輿を壊すまでの激しい争いは無くなり、本来の神事に徹底したのだろう。その本来の神事とはつまり、オシラサマと同じく、穢れを重ね祓うのであると思う。同じ神輿に穢れを溜め年に一度だけ祓う行為は、オシラサマの"オセンダク"と"オシラ遊ばせ"を合わせたものだろう。早池峰神社の神事と、オシラサマ神事の違いは神社の神事が民間に落ちるのに加えて、樹木信仰との結び付きも考えられると思う。
菅江真澄「月の出羽路」に、下記のような文章が記されている…。
【白神】
世にオシラ神又はオシラサマと申す。養蚕の神なり。谷を隔てゝ生ひ立て
る桑の木の枝を採り、東の枝を雄神、西の方を雌神とし、八寸あまりの木
の末に人の頭を作り、陰陽二柱の御神になぞらふ。絹綿を以て包み秘め
隠し、巫女それを左右の手に執りて、祭文祝詞、祓を唱へ、祈り加持して
祭る。此オシラ神をオコナヒ(行神)と謂ふ処あり。
遠野ではオシラサマとは別にオクナイサマという名称もあるが、これは上記の文章から「オコナヒ(行神)」という記述がある事からオコナヒがオクナイに転訛したものだと、当然思う。なので同じものでありながら、オシラサマとオクナイサマという別の呼称が存在するのも納得するのだ。
また陰陽二神という考えは、万物の創世を現し、当然それが養蚕の神になるのも、なんら不思議は無い。桑の木の東が雄であるというのも、東は太陽が昇り誕生を現し、西は太陽が沈み死を現すが、これは母体回帰の思想でもあるので、再び復活し生誕する意味にもなるので当然といえば当然だろう。ただ今現在の早池峰神社の祭神は瀬織津比咩という姫神一柱となっている。しかしだ
「早池峰山妙泉寺文書」俗に云う
「宮本文書」の世代年表には、こう記されている。
「延長年中(923~931)、本宮后宮修理、並びに新山宮を修復す。」
ここでの「后宮」とは妃であれば、当然「本宮」とは男神が祀られていたと理解できる。つまり本来の早池峰には、男神と女神の二柱が祀られていた事になる。いつしか消え去った男神について、ここでは言及しないが、ハヤチネもオシラサマも男女二柱の神を祀るうえにおいては同じであるのだ。

そして、オシラサマ像の一つである馬の像であるが、これは神が乗る神馬であると考えて良いだろう。

早池峰神社例大祭での神輿は、本殿前を出発して真っ直ぐ祓川へは向かわずに、山門手前の小高い丘に鎮座している駒形神社へと向かう。つまり神輿に乗った早池峰大神の神霊に馬を加えるのは、オシラサマに普及する男神像と女神像と馬像に対応するものだ。オシラ像には、それ以外のものも含まれるが、恐らくこれが原型だろう。早池峰周辺の神社や路傍の石碑を見て回っても、早池峰の石碑に並んで駒形神の石碑があるのも、本来セットであると考えて良いだろう。早池峰大神の縁日が9月28日であり、それに並んで9月29日が御蒼前様の縁日になっているのは、それを裏付ける一つの事例であると考える。

また白太夫が、このオシラ神を伝えたという伝承もあるのだが、白太夫は傀儡使いでもあったので「オシラ遊ばせ」などと云われる傀儡のようにオシラ神を遊ばせるというのも納得する。また白太夫の神は、元々天満宮であるから、当然祟り神としての菅原道真が登場する。桑の木は雷除けとしても有名で
「くわばら、くわばら…。」誰でも知っている雷除けの呪文である。遠野の俗信にも、桑の枝を軒先に立てておくと、雷が避けるというのは広く伝わっているのも、遠野の土壌に樹木信仰が深く根付いていたせいではないだろうか。
以前、何度も書いてきたが樹木の名称である
目(芽)歯(葉)鼻(花)指(細枝)耳(実)腕(枝)頭(梢)胴(幹)足(根)は、必ず人間の体と対比させて付けられたという。樹木と同じ意味を持つ
”木”という言葉もまた、人間の
”気”と同じものとして付けられた名称だ。

日本人に広く愛される桜の木の代表はソメイヨシノだが、昔はこのソメイヨシノの樹齢は50年であると云われてきた。つまり桜の木の樹齢は人間の当時の寿命と云われた50年に対応する。その為に昔は、子供が生まれると庭先に桜の苗木を植え子供の成長と対比させて見守って来たようである。そこには桜の木が人間の依代であるという概念があったからだ。子供が病気になったり怪我をすると、それが早く治る様にと、桜の木にそれを吸いこませようとしたという。そういう呪術が広まった為か、桜の木の下には死体が埋まっているという俗信も登場した。ところで早池峰大神である瀬織津比咩は天智天皇の時代に近江国の琵琶湖畔に鎮座する佐久那太理神社に祓戸の神として祀られたのは、元々桜谷明神として瀬織津比咩が鎮座していたからであった。そう早池峰大神である瀬織津比咩は桜の女神とも信じられてきたのも、日本人が広く信じてきたの樹木信仰が根底にあったからではなかろうか。更に付け加えれば、桜谷の変換形である佐久奈谷はたぎり落ちる水の瀬であり、滝そのものを意味する。桜が人の病気や怪我を吸い込むと信じられたように今でも全国の神社で唱えられる「大祓祝詞」にも瀬織津比咩は登場し、ありとあらゆる罪や穢れを根の国・底の国まで運び飲み込ませる。これはつまりオシラサマの溜まった穢れを祓うと同じものである。
オシラサマに使用される桑の木も、その内部に秘する呪力に頼り、桑の木で作った像に人の穢れを移して祓うというのも本来は、水神であり穢祓の神として認識されてきた早池峰大神に対応させた為では無かったかと考えるのだ。オシラ像の男神像・女神像・馬像が遠野に広まったのもひとえに、早池峰信仰の広がりが根付いていた為であったのたと思うのだ。そしてこの簡単に要約したこの記事を、Agnès Giard氏に捧げたいと思います。
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