新月から始まり、今日で九日月となった。古代は太陰暦であり、こうして毎日、月を確認して時の移り変わりを感じていたのかもしれない。変わらぬ太陽より毎日、少しづつ変化していく月の形が、古代の人達にとって現実的であったのだろう。
北山にたなびく雲の青雲の 星離れ行き月を離れて(持統天皇)
この持統天皇の歌は、天武天皇を雲に例えて、月を持統天皇、皇子らを星に例え、離れていく様を詠んだ歌と考えられている。ここで疑問が起るが、本来男神であった天照大神を持統天皇擁立の為に女神としたという説があるが、持統天皇は自らを月に例えて歌っている。それでは、太陽かと思われる天武天皇を、雲に例えているのだ。とにかく持統天皇には太陽神の自覚が無いのか、その意思が無いのか、自分は太陽の対となる月であると、心情を歌に込めているのだ。
月は東から昇り、西へと沈んでいく。太陽神である天照大神の荒御霊は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と云われる。以前、書き記したように
「天疎(あまさかる)」とは
「月が西に去って行く事」である。また
「倭姫命世記」では、荒祭一座を
「一名瀬織津比咩是也。」 とある。しかし最近、多賀を調べているが、伊勢神宮にも多賀宮があり、そこには月神が祀られているという。
また「倭姫命世記」垂仁26年の条に
「伊弉諾尊捧げ持ちし所の白銅鏡二面是れ也。是れ則ち日神月神所化の鏡也。水火二神の霊物たり。」これを読むと、元々は伊弉諾と伊弉弥が日神と月神を司っていたのが、伊邪那美が闇である黄泉の国へと堕ちた為、代わりの日神と月神を新たに化成させようとしたのではなかろうか?
ところで…
内宮所伝本「倭姫命世記」の
「天照皇太神和魂」の項には
「亦右目を洗ひて、月天子を生みます。亦天下生ますみ名は、天照皇太神の和魂也。祓戸神、伊吹戸主神は、是天照皇太神の第一の攝神荒祭宮の多賀宮是也。」つまり、天照大神の和魂も荒魂も月神であったという事になる。ならば天照大神として擁立された持統天皇もまた、月の神であったというのが正しいのだろうか…。