橋野の中村という処にも昔大きな沼があった。その沼に蛇がいて、村の人を
取って食ってならなかった。村ではそれをどうともすることが出来ないでいる
と、田村麻呂将軍は里人を憐れに思って、来て退治をしてくれた。
後の祟りを畏れてその屍を里人たちは祠を建てて祀った。それが今の熊野神社
である。
社の前の古杉の木に、その大蛇の頭を木の面に彫って懸けておく習わしがあっ
た。社の前の川を太刀洗川というのは、田村麻呂が大蛇を斬った太刀を、ここ
に来て洗ったからである。
「遠野物語拾遺32」
岩手県内に溢れかえる田村麻呂伝説が、この橋野にも漂流している。御存じの通り、田村麻呂は蝦夷征伐のヒーローとして扱われるが、実は東北地方にとっては征服者であったわけだ。その征服者がヒーローに祭り上げられているのは、勝利者による歴史の編纂が行われた事を意味する。これを逆説的に考えれば、勝利者である朝廷側にとって隠すべきものがあると考えても良いのではないだろうか?それかまた、都市伝説の流布と同じように、流行に乗り挙って伝説に名乗ったかのどちらかであろう。ただ、この熊野神社の宮司は田村氏といい、この熊野神社自体が田村家が、天文三年(1534年)に勧請したものだという。
物語に多く登場する大蛇は、しばしば洪水に見立てられる。頻繁に氾濫する川は、暴れ川、もしくは暴れ竜とも称されるからだ。太刀を洗ったという太刀洗川とは、熊野神社の前を流れる能舟木川の事をいうが、別に洗川とも祓川とも云う。遠野の早池峰神社前の川も祓川と云う事から、この川でも禊の神事が行われたのかもしれない。
ところで熊野神社の鎮座地を御山と呼び、熊野神社と称したのだという。つまり熊野神社勧請年代は1534年であるが、それ以前は、山そのものが熊野神社として祀られていたのだろう。現代においても、熊野神社の例祭を御山祭と呼んでいるのは、その名残であろう。御山とは「おやま、みやま」とも読む。「みやま」は山に対する尊称となるが「みやま」は別に「深山」でもあって、それは「新山」でもある。
社の前の古杉の木に、その大蛇の頭を木の面に彫って懸けておく習わしがあったとあるが、マタギの風習に熊の頭を家の軒先に掲げ、魔除けとした例もある事から、それはやはり魔除けであり、厄除けであろう。大蛇が洪水を意味するのなら、その大蛇を倒したという証を、同族に見せる事によって厄除けとしたのではないか?それともう一つ考えられるのは、古代に似通ったものに
"蘇民将来"がある。この蘇民将来、一説には
「出雲神を祀らぬ家の者は殺された…。」というものがある。奇しくも岩手県には蘇民祭が多く存在する。以前は、この中村という地と橋野などを含めて栗橋村と言ったのだが、その歴史を調べると熊野信仰を持ち込んだ人々が開拓した地でもあったようだ。これはあくまでも妄想だが、熊野神社を勧請し、その証として大蛇の頭を模したものを掲げるとは、もしかして同族に知らしめる為では無かったのだろうか?古代から戦地となった蝦夷の地は、戦ごとに帰還せずに住み着いた人々が多かったそうだ。つまり、戦ごとに、かなりの種族が住み着いたのも、蝦夷の地であった。その同族、同郷の者に対するサインとしての習俗の可能性もあるのかもしれない。