鈴鹿権現と瀬織津比咩(其の七)の後半において、各風土記における
"荒ぶる女神"を引き合いに出したが、鈴鹿権現をいくら調べても、鈴鹿峠における鈴鹿権現の姿は曖昧になるばかりである。一番しっくりくるのは、荒ぶる女神として後世に創られた存在であるという事ではなかったか。ただハッキリ言えるのは、荒ぶる女神の属性を兼ね備えた存在が、鈴鹿権現であるという事だろう。荒ぶる女神は山に鎮座し、行き交う旅人の命を奪う存在。鈴鹿権現も、また同じ存在であった。
何故に鈴鹿権現は京都の祇園祭の牛頭天王…つまり素戔嗚と一緒になっているのか?それは荒ぶる神としての属性の正統性に他ならないからだろう。この京都の祇園祭においての鈴鹿権現は、瀬織津比咩であるとされている。
素戔嗚の子供には、宗像三女神がいる。素戔嗚の持つ十拳剣から、宗像三女神が誕生した。荒ぶる素戔嗚の所持する、また荒ぶる武器である剣から生まれた宗像三女神もまた荒ぶる女神であった。鈴鹿権現は、剣では無く薙刀を所持しているが、これは女神であるゆえ剣から薙刀に置き換えられたのだろう。その薙刀の初見は
天慶の乱(938年)の合戦絵巻に登場するのが最古であるという。それから考えれば、やはり、坂上田村麻呂の蝦夷征討
「延暦20年(801年)」の後に、鈴鹿権現が創られたのではないかと思う。
貞観11年(869年)に祇園祭が始まったとされるので、その後に薙刀を持った鈴鹿権現という存在が出来上がった可能性はある。そして、その創った氏族は、恐らく秦氏の一族だろう。
秦氏の建立した神社の中に、名神大社である松尾大社がある。その松尾大社を調べると
「秦氏本系帳」によれば
「松尾大社は、筑紫胸形に坐す中部大神なり」とある。恐らく宗像の中部大神の「中部」とは、宗像三女神の次女あるいは中津宮に祀られている姫神であろうと考える。それでは、その女神とは?「古事記」と「日本書紀」とでは祀られている女神と島が一致しないが、宗像大社の社伝に合わせると、それは
多伎津姫(湍津姫神)となるのだろう。では何故、秦氏の建立した松尾大社に祀られる女神は多伎津姫なのであろう?ただ秦氏の、多伎津姫に対する思い入れを感じるのだ。その多伎津姫は與止日女と結びつく。その與止日女は瀬織津比咩と習合するとなれば、秦氏と鈴鹿権現である瀬織津比咩との結び付きは容易であった。
そしてだ、京都に流れる水系で忘れてはならないのは、その水の源が近江国の琵琶湖からであり、佐久奈谷から始まっている事であろう。何度も紹介しているからわかっている筈だが、佐久奈谷に鎮座する佐久奈度神社に祀られる神とは瀬織津比咩であり、それが宇治川の畔に鎮座する橋姫神社と結びついた。宇治は兎路であり、その兎の経路を辿ると、鈴鹿峠を経由して伊勢神宮にかかる宇治橋まで行き着く。その途中の鈴鹿峠は、山中他界の信仰からまた異世界へと繋がっているのだと考える。
菊地展明「円空と瀬織津姫(下)」では
「蒲生郡志」が紹介されており、そこには
「佐久奈度の神は水別の神にて境界線に祀らるゝ例多し。」とある。ここで瀬織津比咩は境界神でもあるというのがわかる。そう山中他界である鈴鹿峠もまた一つの境界であった。この琵琶湖の佐久奈谷の瀬織津比咩が宇治の路の流れに沿って鈴鹿峠に祀られ、鈴鹿権現になったものと考える。