遠野の小友町の西の外れに、五輪峠がある。五輪といえばオリンピックを思い出すが、そもそも宮本武蔵の「五輪の書」と結びつけて命名したのがオリンピック=五輪だった。その五輪とは仏教で、この世を形作るとされる地・水・火・風・空の五大要素の事を表すという。
この五輪峠の記念碑の傍に看板があり、宮澤賢治の言葉が、こう書かれている
。
「五輪峠と名づけしは 地輪水輪また火風(巖のむらと雪の松) 峠五つの故ならず ひかりうづまく黒の雲 ほそぼそめぐる風のみち 苔蒸す塔のかなたにて 大野青々みぞれしぬ」
ところで、この遠野の小友町の五輪峠の付近は、姥捨て…つまり遠野で云うところのデンデラ野でもあったという。この五輪の五大要素「地・水・火・風・空」だが、これらは葬法にも当てはまる。地=土葬、水=水葬、火=火葬、風=風葬、空=鳥葬。人の死は、体(地)が朽ちて、体液(水)が枯れ、熱(火)が失せ、呼吸(風)が止まり、天(空)に昇天すものであると。つまり五大要素には死の意味も含まれているのだ。その五大要素を意味する五輪峠にデンデラ野があったというのは、意味深であろう。
ところで、仏教の論書の一つ
「摩訶止観」には、こうある。
「一旦命終われば仮借は本に還る。風去り火冷やかに、地壊れ水流る。虫噉い鳥啄み、頭手は分離して外に盈流し、三五里の間、逆風に臭きを聞ぎ、悪気腥臊、人の鼻息を衝き、悪色黮瘀、人の眼目を汚すこと死狗よりも劇し。これを"究極不浄"と名づく。」
宮澤賢治は自身の
詩「五輪峠」において
「物質全部を電子に帰し」と記している。恐らく宮澤賢治は科学的な考証による解釈を示しているのだろうが、仏教的解釈でもまた似たようなものだろう。つまり
「元に還る」のだ。
この五輪峠は先に紹介したように、デンデラ野…所謂"姥捨て"の地でもあり、また源義経が命からがら平泉から逃げ延び着いた峠でもあるという。つまり生と死の境界でもあったわけだ。義経は一旦死んだ筈の命(細胞)が再び構築されたのだとも思う。姥捨てであったデンデラ野で死んだ者は、やはり五大要素に細かく分離し元に還り、再構築(輪廻転生)される地を切望する意を含んで名付けられた五輪峠であったのかもしれない。