
前回、多賀とは「互」「違」ではないのかと書いたが、もう一つ考えられるのは
「箍が緩む」の
「箍(たが)」だ。箍が緩む、絞めるの「箍」は元々、竹を裂いで編んだ輪であって、その箍があるから「その形」を保つことが出来るもの。
「日本書紀」において、千人所引の磐石で黄泉の穴を防いでイザナギはイザナミと対峙し、イザナミは一日に人間を千人殺すと言い、イザナギは、それならば一日に千五百人産むと答えた後、杖を投げた。それからその杖を、岐神と謂うようになったという。
杖は根の付いた樹木の依代でもあり、その生命力が豊穣の霊力を示すものとされた。それが陽物の勢いと結びつけられ、部落などの入り口や岐路に立てられ邪悪なモノの侵入を防ぐ役割をするのが、岐の神であり、塞の神であり、妻の神と呼ばれるものとなる。
つっかえ棒とは、物と物との間に差し挟んで、倒れたり不要に近づいたりしないように支えるための棒であるが、黄泉の国を千引き石で塞ぎ、その後から杖を投げ立てた岐は「つっかえ棒」であったのだと思う。つまり二重構造で、黄泉の穴を塞いだのだろう。

琵琶湖の畔に、多賀大社は鎮座している。それが何故、近江国の琵琶湖の畔に多賀大社が鎮座し、イザナギとイザナミが祀られている。何故皇祖神の祖神が近江国に祀られているのか、未だに理解されていないようだ。
ところで沖縄では死者の黄色い世界を
「青(おう)」と言うのだそうだ。青海、淡海、近江…そして黄泉も「おうみ」と読む可能性は、確かにある。
「古事記」において
「その伊邪那美の神の命を号けて、黄泉津大神といふ。」とある。これを「よもつおおかみ」とは読むのだが、もしも黄泉が「おうみ」と読むのなら伊邪那美は「黄泉津大神(おうみつおおかみ)」となる。
「津」は港などの船が集まる場所などを言い、「集まる・集中する」などでもあり、神々の霊力などが集まる意も含まれる。
つまりだ近江国の琵琶湖は地面に穴が開いた場所に、水が湛えられている状態。地面の穴は黄泉の国に通じるという俗信が全国に拡がりを見せる事から恐らく、琵琶湖そのものが黄泉の国の入り口であると信じられていた可能性はあったろう。それ故に、琵琶湖の畔に多賀大社…つまり箍を絞める意を含む多賀大社を鎮座させ、伊弉諾を祀っているのかもしれない。

遠野の多賀神社の西方、愛宕山の麓に水神の碑が天保年間に建てられている。これは傍にある卯子酉神社に水波能売命が祀られているからなそうだが、実はこの水波能売命は、多賀神社に影響され祀られたとも云うのだ。
実は不思議な事に、
多賀大社発行「多賀の信仰」によれば、全国に分霊された多賀神社の祭神は伊弉諾と伊弉弥であるのだが、何故か
遠野の多賀神社だけは
「伊弉諾と水波能売命」が分霊されたとある。それは何故だろうか?
琵琶湖周辺の水神信仰を調べても、例えば琵琶湖に浮かぶ竹生島には弁財天が祀られている。ただし弁財天信仰が広まったのは中世である事から、それ以前はわからないのが現状だ。そして琵琶湖に拡がるもう一つの水神信仰は、瀬織津比咩となるのだ。水波能売命の姿は、どこを探しても見つからない…。


遠野の多賀神社の信仰は、古老に聞くところによると水の信仰から始まったようだ…と云う。多賀神社の境内には、水が湛えられている場所が一か所ある。それがこの多賀神社の根源ではないかという事だが、何故か現在の祭神は通常通りの伊弉諾、伊弉弥となっている。そもそも水の信仰から多賀大社から分霊された水波能売命とは何であったのか?
多賀の意味が、その地を護るという意であり、そこに水神が絡み合うのであるのなら、やはり近江国の琵琶湖周辺の信仰の影響を受けているものと考えてしまう。近江国は本来淡海国であり、水の国でもあった。琵琶湖に、なみなみと湛える水の豊かさから、本来は水神に対する信仰が根強いのであったのだと考える。
そして、遠野の多賀神社は、阿曽沼孫四郎広郷が天正2年(1574)横田城を鍋倉山に移転した時、城中鎮守として勧請したと云われている。しかし昔の遠野を流れる川は、川幅が広く豊かであった。それを治水して現在の遠野の町に人が集中して住んだのは、18世紀になってからである。
「遠野物語拾遺138」に
「その頃はこの鶯崎に二戸愛宕山に一戸、その他若干の穴居の人がいたばかりである…。」と書かれている。この「遠野物語拾遺138」に登場する宮氏は阿曽沼の血縁だというが、「遠野物語拾遺138」の文中にある「その頃」とは、奥州藤原氏が鎌倉幕府に滅ぼされ阿曽沼氏が遠野に赴いて統治し始めた後の頃であろう。

以前紹介した、遠野の町中を流れる川は、上記の図の様であった。阿曽沼氏が遠野に赴き、まず始めに行った事は開拓であり治水であったよう。とにかく図のように川が国土を覆い、現在の遠野の町の中心は、とても人の住める地では無く、住み始めたのは治水が済んで土地が乾燥した18世紀になってからの事であったよう。つまり多賀神社が建立された当初は、眼前に川に覆われた国土が広がっていたという事。そこには恐らく城の鎮守としての意識よりも治水の意識があっての建立では無かったか?滋賀県の多賀大社発行の書物には、伊弉諾と水波能売命の二柱が分霊されているという記録から、それが読み取れる。
それでは何故に伊弉諾と水神が結びついたのかと言えば、黄泉の国の伊邪那美との別れから真っ先に伊弉諾がした事とは、水の霊力によっての穢祓であった…。
【琵琶湖】
【淡路島】
伊弉諾と伊弉弥が結婚し、初めて産んだのは淡路島であった。その淡路島は昔から琵琶湖の形がそっくりであると昔から云われている。しかも似たような位置
に"多賀"という地があり、琵琶湖には多賀大社が鎮座し、淡路島には伊弉諾神宮が鎮座している。これを偶然と捉えて良いものだろうか。
淡路島の「淡路」とは
「阿波の国への路」ではないかという説がある。確かに目の前は、阿波の国である。その阿波の国の一宮は大麻比古神社で祭神はサルタヒコを祀っている。御存知、サルタヒコは岐の神、塞ノ神としても信仰されている。この大麻比古神社の「大麻」だが、調べると漢代には「麻」では無く「魔」の文字が使用されている事から「大麻」は本来「大魔」ではなかったのか?阿波の語源の一つに「暴れる(あばれる)」意を含むというものがある。仙台に青麻神社があり、そこには"第六天魔王"が祀られている。全国の第六天を祀っていた神社が後に荒神を祀るようになっている事から、恐らく阿波は「暴れる」の意味を含む大魔が祀られていた可能性は否定できないのかもしれない。大麻比古神社に祀られる大麻比古を祀ると共に、猿田彦が祀られたという事から、猿田彦は大麻(大魔)比古を抑える意を込めて祀られたのでは無かったのか?
「新編武蔵風土記稿」によれば、第六天は東京都に121社祀られ、その多くは氷川神社胡録社の末社として祀られているようだ。ただ胡録社の胡録とはヤナグイの事であるので、おかしな事になっているが本来「コロク」とは剣の古名であり、小六とも表する。そして、これもまた荒神であり荒ぶる神の意を持っている。
また胡録社とは別に氷川神社だが、「甲子夜話」によれば、武蔵一宮である氷川神社の本宮の御手洗池の魚は"一つ目"であるという伝承がある。つまり、それから採鉄や鍛冶信仰と関わっているのが理解できるが、実はそれらの業に携わる人々が祀った荒ぶる神が、氷川神社に祀られていたようだ。その氷川神社を調べると、岩手県の氷川神社もそうだが、早池峰大神である瀬織津比咩の姿が見え隠れしている。
(続く…。)
htmx.process($el));"
hx-trigger="click"
hx-target="#hx-like-count-post-17513992"
hx-vals='{"url":"https:\/\/dostoev.exblog.jp\/17513992\/","__csrf_value":"0016e54f19e771e3da5b5a2bd2e62ffd09164e313fe5ac6bd1673d491f9362f65de0c9bb9628bacdfbfe9e07dcef8db1e7517b08a950ab708ff9bde9626392c4"}'
role="button"
class="xbg-like-btn-icon">