人の名を呼ぶ場合には、必ず上に父親の名を加えて呼ぶ。たとえば春助
という人の子が勘太である時は、息子の方を春助勘太と呼び、小次郎の
息子の万蔵の世ならば、小次郎万蔵と呼ぶ。同じようにして、善右衛門
久米、吉右衛門鶴松、作右衛門角、犬松牛、孫之丞権三などがあり、女
の方も長九郎きく、九兵衛はるの、千九郎かつなどといった。また女の
子の名に昨今面倒な漢字が用いられるようになったのは、他の地方にも
通ずる同様な傾向であろう。
「遠野物語拾遺250」
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現在、この習俗は遠野には無いだろう。現在調べている最中ではあるが、本当にあったのかどうかは不明だ。80代の人物に聞いても、聞いた事が無いという。ただし、その時代にはあった可能性があるのだが、それが遠野界隈に広まっていた習俗なのか、一部の集落に伝わっていた習俗なのかは、今後の調査次第となる。
実は、父親の名前を連ねる名前で、すぐに思い出したのはモンゴルだった。最近モンゴルでは、苗字を使用しても良いとなったものの、未だに古くからの名前の用法を使用しているという。ただし、父親と自分の名前を連ねる場合は、例えば書籍を出した場合に掲載する名という、公式の場で晒すものらしい。
以前観た映画「第五惑星」に登場したアンドロギュヌス型のトカゲ星人は、先祖代々の名前を覚え語る事の出来るのが名誉とされていた。当然、その映画の原作を書く場合、参考になった種族があったのだと思うが実際に代々続く家系は、確かに日本でも名誉の事とされる。日本では天皇家が、その代表となり、その永続性は世界的に稀に見る家系であり、名誉な事だと称されている。そういう意味から考えれば、父親の名前を頭にする名前とは、男系社会として名誉な事なのかもしれない。
ただし日本の場合での農民の場合は苗字を持たなかった為、同じ名前を区別する為、屋号や綽名で呼ぶ事が多かった。実際に、現代の遠野において、未だに屋号や綽名で呼ぶ習俗が伝わっているのだが、父親の名前を連ねるものは皆無である。親の名前を重ねるのも、屋号や綽名と同じ発想から来ているものだろうと考える。しかしだ、もしもモンゴルの風習が伝えられたとしたらどうなのだろうか?確かに蝦夷は騎馬民族的なところもあり、モンゴル民族に近似している。モンゴル民族においてオトゴンフー(末の息子)と言葉があり、この子が最後だという意味で、最後の子に「末吉」「末子」などとつける日本の風習と似ているのではある。もしかして…と考えれば夢は広がるのだが、果たして真意はどうであろうか?…。
>また女の子の名に昨今面倒な漢字が用いられるようになったのは、
>他の地方にも通ずる同様な傾向であろう。
ところで「遠野物語拾遺250」の文中にある上記の文は、ちょっと興味深い。
吉田兼好「徒然草(116段)」には、下記の様に記されている。
「…人の名も、目なれぬ文字をつかんとする、益なき事なり。何事も、
めずらしき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。」
上記をを簡単に訳せば
「最近は、子供に難しい名前を付けて普通と違う名前にするのは浅学の人がよくする事だ…。」と。これは現在ではDQNネームとか呼ばれるものと同じだろう。つまり吉田兼好の時代にも、「遠野物語拾遺」の時代にも、そして現代でも似たよう事をする人達と、似た様に思う人とが常にいるという事だろう(^^;