
七観音巡りを調べてみると、元々は平安末期に成立した西国三十三所巡礼が鎌倉時代には修験山伏が中心となって過酷な修行を基盤とするものであったらしい。それが15世紀から民衆化し始めて、その中から七観音が選定されて、七観音巡りが定着したようだ。それが江戸時代という太平の世となってピークを迎え、全国のあちこちで七観音巡りが流行ったよう。
岩手県においては、奥州三十三所、江刺三十三所、または明治時代に気仙三十三所が作られた中から七観音が更に選定されて、七観音巡りが一時の間、定着したようだ。つまり、岩手県内における七観音と、遠野の七観音の発生は、意義からしてどうも違うようだ。
遠野の七観音は慈覚大師が開祖と伝えられ、早池峰山麗で桂の木から七体の観音を彫ったとも、物見山の桂の木から七体の観音を彫ったとも伝えられる。そのどちらにも共通するのは、桂の木という事だ。桂の木とは水に深い関わりのある樹木であり、山幸彦が綿津見神の宮殿に降り立ったのはまず桂の木の上であり、桂の木とは水神との関係が深いものである事がわかる。つまり水の霊力に溢れた樹木が桂の木である為に、その桂の木から七体の観音を彫ったという事は、伝承であるにせよ、何等かの意思が伝わっているという事だろう。
また彫り上げた七体の観音像を附馬牛町の沢の口という場所で、七井戸を掘って、七体の観音像の産湯として使ったと云う。附馬牛町に流れる川は全て早池峰の麓の山々から発生する水源からのものである。つまり早池峰の水の霊力によって観音像を洗い清めようという意思が働いたと考えて良いだろう。ただ何故に七つの井戸を掘ったのかという事。普通であれば、一つの井戸を掘って、その井戸水によって七体の観音を洗えば良いだけなのだが、何故か1対に1つの井戸を掘ったというのも意味があるのだろう。
七という数字を調べて浮かび上がったのは、七瀬と呼ばれる穢祓所だ。七瀬の祓とは、神話にも登場する穢祓の系譜を受け継ぐものであり、水場における重要な呪術でもあった。
また「七」という数字というものを調べると、八百万の神という沢山を意味すると同じに、七という実数では無くて不定の多数の意味を有していた。つまり七瀬とは水場での穢祓を意味するもので、それが実際に七か所制定されたのが滋賀県の琵琶湖湖畔であり、天智天皇が大津京という都を定めた周辺であった。
金子裕之「律令期祭祀遺物集成」によれば、七瀬祓の芽生えは藤原京に求めうるが、本格的な展開は平城京に始まり、長岡京を経て平安京に受け継がれ、儀式化したと述べているが、自然の穢祓所としての発生の根源は、琵琶湖のある近江からであったようだ。
青木生子「萬葉挽歌論」を読むと、挽歌の確率は天智天皇の崩御の際に確立されたよでもある。歴代の天皇の挽歌を読み取っても、水の霊力に対する意識をもった挽歌があるのだが、その初めを考えてみても琵琶湖周辺に点在する七瀬祓の一つである唐崎がある事から、七瀬祓の原型は近江の国からではないかと推察する。
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