綾織村の17歳になる少年、先頃二子山に遊びに行って、不思議なものが木登りするところを見たといい、このことを家に帰って人に語ったが、間もなく死亡したということであった。
「遠野物語拾遺165」「見たら死ぬ」といえば、有名なのは
「リング」に登場する
呪いのビデオか
、「奇々怪々あきた伝承」の中に紹介されている
「千年の秘薬・猿酒」くらいになる。この「猿酒」は、菅江真澄の記録にも紹介されており、清原武則時代に、金沢城が落城の際に「猿酒」の瓶を持ち出して中を見た坊さんが死んだとか、現代でもその「猿酒」を調査した人が死んでいるとの事だ。そうして「遠野物語拾遺165」を、もう一度読んでみると、その文中に「不思議なものが木登り…。」とあるように、もしかして猿なのか?とも思ってしまう。
ただ、今書き込んでいる最中に思い出したのが、
上田秋成「雨月物語(蛇性の淫)」において、法師が真女児の正体である大蛇がカッと口を開いて邪気を浴びた時、その法師は、暫くしてすぐに死んだのを思い出した。考えてみればこの二郷山は、蛇を祀る山だという。その二郷山の中腹には神社があり、入り口には白い蛇のオブジェが置かれており、神社の本殿内部にも、蛇や竜に関するものが飾られている。それでは蛇なのか?と思っても、昔から蛇の姿形というのは認識されており、不思議なものとはならない。当然、猿であっても昔から猿の姿は知られており、やはり不思議なものとはならないのだ。
調べてみると見て死んだ…という妖怪を一つだけ確認
。「ひょうすべ」という妖怪だ。ウィキペディアによれば、ナス畑を荒らすひょうすべの姿を見た女性が後に、全身が紫色になって死んだ話がある。また、ひょうすべが笑って、つられて笑うと死ぬというが、これはどうやら創作らしい。
広島の
「野呂山年表」には奇妙な記述があり
「1819年。野呂山中に怪物が現われ、和七と新平、三吉、兵四郎などが怪物を見て逃げ帰る。和七は遂に発病して死ぬ。仁方の人『山笑う』」 とある。ひょうすべは河童とも云われるが、河童が山に行くと、山童となると云われるのを踏まえると、この広島の野呂山の「山笑う」も、可能性として山童(やまわら)の転訛の可能性もあり、ひょうすべの異形の可能性も考えられる。ただ遠野には、河童の伝承はあるが、ひようすべや、山童の伝承は無い。青森県に行くと、ひょうすべの伝承はあるのだが…。
そして「見ると死ぬ」で、もう一つ浮かんだのがドッペルゲンガーだった。世界の俗信を調べると、古代ギリシアのアルカディアでは、聖域の立ち入りは禁じられており、それを犯すものは死ぬとされているよう。実は、ドッペルゲンガーを調べようと昔の本を読み返していて、この俗信にぶち当たった。影とは魂であると認識している国が、殆ど世界中に広まっており、江戸時代にもドッペルゲンガーは認識されていたようで、影の病い、影のわずらいと言われ、離魂病とされた。ただ影は、その人の魂であるから、人によって、その姿形は違うよう。となれば、心に化け物を飼っている者の影が具現化すれば、目の前に化け物が登場するのだろ。 また影は、肉体を離れると死んでしまうとも云われる。そういや
漫画「ONEPIECE」でゲッコー・モリアが影を切り離し、ある一定の時間内に影を肉体に戻さないと死んでしまうというのがあった。つまり影は幽体に近く、それ故に聖域、または黄泉の国など、人の近付いてはならない区域に人が近付くと、魂である影が、その聖域などに引き込まれ、分離してしまうらしい。
世界の古代において、影は鏡に映った自分の姿も影だと捉えたようだ。日本においても、例えば高野山にある井戸を覗いて見て、水面に自分の顔が映らないと死んでしまうという伝承があるのも、似たような概念が日本に入り込んでいる為なのかもしれない。そして井戸など、地面に穴が開いているのは、冥界や黄泉の国と繋がっているものと信じられているので井戸やトイレには幽霊の話が多いのも日本の特徴。その井戸の水に顔が映らないのも、自分の魂である影を黄泉の国に引き込まれたと考えれば納得ができる。影踏み遊びもまた、影を踏まれた人間が"鬼"になるというのも、影を踏まれた者が"地獄の者"に変化してしまうと捉えて良いのかもしれない。ドッペルゲンガーを不思議なものと捉えた場合、例えば幽体離脱して、自分の姿を見た場合、嘘か本当かわからんが、不思議な光景だという話が現代においても多く伝えられている。「遠野物語拾遺151」では、幽体離脱の話が紹介されているが、影を失うも幽体離脱も魂が抜けるという点では、同じようなものだろう。
ところで「遠野物語拾遺165」での文中では「二子山」と表記されているが、現在は「二郷山」と表記され、どちらも「ふたごやま」と読む。その二郷山は綾織町の聖山となっており、昔から登ると祟りを成すと云われている山だ。
「遠野物語拾遺37」では似たように、二郷山にある沼を見た者があれば、それが元になって病んで死ぬそうである。ところで遠野物語拾遺37」では
「海川に棲む魚」とあるが、綾織の古老から聞いた別バージョンでは
「青、白、赤、黒、黄などの魚」と表現されている。ここで思い出すのは、極楽浄土などの仏教色の強い話では、五色の雲がたなびいて…など、極楽浄土の世界とは、色とりどりの煌びやかな世界のようだ。つまり、これから察するに、やはり二郷山とは山中他界。つまり、この世の場所では無い聖域であると見做した方が良さそうだ。つまり二郷山に訪れるという事は、死出の旅路にほかならない。そういう意味から考えると、少年が出遭った不思議なものとは、聖域に足を踏み入れた為に、聖域に引き込まれた自らの影ではなかったのか?人の形をした黒い影が木に登るとなれば、やはりそれは不思議なものであったのだろう…。