遠野の某村の村長は青笹村の生れで、若い頃はその村の役場に書記を勤めていた人である。その頃春の清潔法執行の為に、巡査と共に各部落を廻っている時のことである。ある夜夢で村の誰かれが葦毛の馬の斃れたのを担いで来るのに出逢った。そうしてその翌日現実にも、葦毛の死馬を担いだ人々に行逢ったが、その場所やその時の模様までが、夢で見たのとそっくりであった。あまりの不思議さに今でも時々この夢を思い出すと、その人の直話である。
「遠野物語拾遺149」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
真っ先に思い浮かべるのは、恐らくデジャヴかなとも思う。だが、曖昧である筈の夢をしっかり覚えている事から、ある意味予知夢として捉える事ができる話だ。
しかし、人間の脳とは情報の積み重ねでもある。作曲家の
ロベルト・アレクサンダー・シューマン(1810年6月8日 - 1856年7月29日)は、多くの幻覚を見たと云われている。彼は作曲中に絶えず葬式の行列が浮かんできた時があったと。作曲中に疲労困憊し、時には涙が流れてどうしようもなかった最中に一通の手紙が届いて、兄であるエードゥアルトの死を知った時、シューマンはそれを予知と捉えた。しかし、実は立て続けに別の兄であるユーリウスや、また違う兄であるカールの妻の死を目の当たりにしていた。つまり予知というよりも、予感であったのだと思う。
予感というものも、ある程度の情報が蓄積されて、未来を予感してしまうものだ。例えば、老婆の年齢と病状を知っているからこそ、長くは生きまいという判断を下してしまう。判断を下す事によって、脳に深く刻まれて突然の老婆の死に対面した場合でも、自身の中に『やはり…。』という、予知に近い意識を組み込む事が出来るものだ。
また占いも、事前に個人の情報を聞き出す事ができるから、ある程度無難で、どちらとも取れる漠然とした答えを用意できるもの。全ての理には情報の蓄積が、必ずあるものだ。
馬が死ぬ場合は、老衰の場合もあるのだが、事故に巻き込まれるか、もしくは極度の疲労が重なった場合、または病気によるもの。馬の場合は疝痛で死ぬ場合は、かなり多い。
「遠野物語拾遺149」では、葦毛の死馬を担いだ人々にあったと書かれているが、これは恐らく馬の卵場…つまり馬の墓地に運ぶ途中に遭遇したのだろう。大勢の…と記されている事から、隣近所の人間が集まって馬を運んでいるのは、ある程度、死を予感していたからに違いない。何故ならば、一つの共同体での作業には人手が必要となる。その場合は事前に示し合せる必要があるからだ。隣近所の人間が、野良仕事に行った後では、なかなか、馬を運べるような力のある若者達が揃わないであろうから。
つまりだ「遠野物語拾遺149」での村長まで務めた人物の若い頃に巡査と各部落を廻っていたという事から、自然にいろいろな情報が蓄積されていったに違いない。夢とは、その人物に刻み込まれた情報の具現化でもある。
画像は、
ハインリッヒ・ヒュースリー「夢魔」。絵の中に馬が登場しているが、馬とは古今東西、性的なシンボルとされてきた。以前、アメリカで馬にまたがり海岸線を走る女性のCMがワイセツだと非難され、放送禁止になった事件?があった。性的シンボルの馬と女性の結び付きは、ワイセツであるという事だ。遠野にも、娘と馬の結び付きを示す「オシラサマ」の話があるが、あの話もまた性的なものである。ハインリッヒ・ヒュースリーの「夢魔」もまた淫靡な夢を見せているイメージとして馬が描かれているのだろう。
遠野に住む、この話の主人公もまた葦毛の馬と娘の物語である「オシラサマ」の話を知っていた事であろう。若い頃と記されている事から、性的なものに興味津々の時代であったのだとも思う。その時に、死にそうな葦毛の馬の情報を知り、それらを意識すればこその夢だったのではないかと思えて仕方無いのだ…。
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