倉堀神社の本来の別当は倉堀さんであるが、今では地域の人達に管理を任せている状況である。倉堀家では先々代が婿を取った為、そこから過去の歴史が空白になっている。ただ家紋は松紋である為、讃岐の流れを汲むのかとも思えるが、親戚筋にあたる宮家との結び付きが不明な為、正直わからないのが現状だ。ただし讃岐の綾氏との結び付きがあるのならば、秦氏との関係も見出せる。
「古事記」の編纂に携わった太安万侶は多氏であり、秦氏と密接な繋がりがあった。2世紀末から出雲神信仰が広まり、それぞれの地に合わせて神を創り広めたよう。そのため8世紀に記紀神話を創る段になり、整合性が取れなくなった。それで神話に登場しない素性の判らぬ神々がたくさん残ったのは、単に創り過ぎただけと云われる。
この倉堀神社に於いて祀られる水神は水波能売命。「古事記」の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神と共に生まれたとされる。「日本書紀」の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智の間に稚産霊が生まれたとしている。
他にも闇龗神や高龗神等々の水神が生まれ、水神のオンパレードだ。これ程水神が生まれて良いのだろうか?やはり記紀編纂時に、素性のわからぬ神を沢山創ったのは真実であると思う。
秦氏の祀る神社に祭神秦河勝の大避神社があるが、本来はしんにょうが無い避であって意味は「極刑」であると云われる。先に書いたように秦河勝は、「河に勝つ」だ。つまり治水工事のプロであり、当然水神をも抑えていた。その秦河勝の祀る神社に「極刑」は無いだろうと思うが、これは何も「秦河勝」を極刑にするのではなく、水を極刑…水神を極刑にした意味であろうと考える。実は、秋田の鳥海山に関する文書があり、そこには大物忌と八十禍津日神が同一視されている。また、広瀬大忌神と大物忌も同一視している文書がある。
「日本災害史」を読むと作者は
「かっては桂川の河神に対する祭祀が存在し、それが広隆寺や大酒神社によって解体・変容され、現在の牛祭りとして定着したのではないか。」と述べている。奇祭と呼ばれる牛祭りにおいての麻多羅神が牛に逆に乗っているのは、一つの呪術であると思う。牛の角は三日月にも見立てられ牛そのものも水神の使いとして見立てられる。つまり、水神の使いである牛に反対に乗るという事は、単純に水神を変容したとも解釈できるのだ。
秦氏は治水の高い技術から川を制圧したと共に、水神をも制圧したのではないかと考える。その制圧した水神を卑下し貶めた可能性は、大避神社に見出されるように…いや古代中国が邪馬台国の巫女を"卑弥呼"と別称で呼んだように、渡来人である秦氏は征服した水神を貶め卑下した可能性があったのではと考えている。それが穢れによって生まれた水神である八十禍津日神であり、別名瀬織津比咩であろうと考える。
神社に手を合わせるのは、左手の「火(ひ)」と、右手の「水(み)」を合わせるという意味になる。つまり古来から火と水を合わせてきた信仰があり、それは今でも続いている。また古来からの神社では、彦神と姫神を祀るのが普通であったのは、そこに万物の生成があるからだ。当然の事ながら神としての男は、陰陽五行においては「陽」を司り、それは「火」で表される。そして女は「陰」を司り、「水」で表される。つまり火の神である彦神と水の神である姫神の結び付きによって万物は巡回していた。
ところが先に記したように「古事記」や「日本書紀」において、多くの意味を成さない神々が作り出されて混沌とした。それは「火」であり「日」でもある太陽神が天照大神が姫神とされてからの混沌であったのだろう。本来は火の神である天照大神と、水の神であった瀬織津比咩の陰陽の結び付きが中心であった神々であったのだと思う。それが姫神である水神が多発した事により、姫神は怒り、荒ぶる神に変貌した。この事については各風土記によって説明したいのだが、ここでは省く事とする。
ところで阿蘇神社の神事に「御前迎え」というものがあり、そこでは松明を掲げて水神である姫神を迎える。阿蘇神社の今では「火振り神事」と呼ばれるものが有名だが、これは途中から作られたもので、本来は松明の火で静かに御前を迎えるというものだったようだ。また熊野の那智での神事には、那智大社七月十四日の扇会式例祭…つまり「扇祭」と呼ばれ親しまれる儀式において、那智の滝に対して火を掲げ那智の滝を火で囲む神事が行われている。つまり、これらも水神である姫神を迎えるにあたり、男神の証である「火」を掲げるのだと感じる。そしてそれは神婚でもあった。火と水の結び付によって万物が生成する。それを具現化する為に、阿蘇神社でも熊野那智においても火を掲げて結びつかせる。
当初に書いたように、卯子酉神社に足りないものは「火」であった、「火」は「日」であり「陽」とも表し、その色は「赤」であり「血」をも意味する。恐らく卯子酉神社においての赤い布切れを掲げるのは、阿蘇神社や熊野那智と同じように火を掲げると同じ意味…つまり「神婚」「聖婚」を意味しており、結ばれる事により万物が生成する…「願いが叶う」という事だろう。