遠野の町の愛宕山の下に、卯子酉様の祠がある。その傍の小池には片葉の蘆を生ずる。昔はここが大きな淵であって、その淵の主に願を掛けると、不思議に男女の縁が結ばれた。また信心の者には、時々淵の主が姿を見せたともいっている。
「遠野物語拾遺35」余りにも縁結びで有名になった卯子酉神社であるが、遠野で縁結びの神として有名だったのは多賀神社であり、卯子酉神社はそれほど有名では無かったらしい。ただ、何故に多賀神社が縁結びの神社なのかは定かで無い。
実は
「遠野物語拾遺138」を読んでもらうとわかるのだが
「…その頃はこの鶯崎に二戸、愛宕山に一戸、その他若干の穴居の人がいたばかりであったともいっている。」という記述があるが、確かに昔は川の水量が豊富で大河が重なり、水が常に氾濫していたようだ。その為に現在遠野市民が住んでいる遠野駅を中心とする周辺はまだ人は住んでいなかった。卯子酉神社のすぐ傍に、愛宕山と呼ばれる小高い山に愛宕神社があるのだが、その神社の脇には縄文の遺跡が発掘されており、古代は猿ヶ石川沿いの小高い山や岡のような場所で、人々は暮らしていたのは、発掘された縄文遺跡から理解ができる。問題は、人がいてこその"縁結び"であるのだと考えても、以前は人が住んでいない場所に、卯子酉神社が建立されたのは何故かという事。
実は、この地に初めて建立されたのは倉堀神社であって、後に卯子酉の御霊が合祀されたという事。卯子酉神社の境内を見ると、大きめの卯子酉様を祀る社の脇に、ひっそりと大元である倉堀神社の社と水神の碑に加え、卯子酉の社の上に「水神」の額が飾ってある。
そして、もう一度
「遠野物語拾遺35」を読むと
「…その淵の主に願を掛けると、不思議に男女の縁が結ばれた。また信心の者には、時々淵の主が姿を見せたともいっている。」と書かれている。つまりだ、後に合祀された卯子酉神では無くて、元々倉堀神社に祀られていた水神が縁を結んでいたというのがわかる。
卯子酉神社は文久年間に、普代村に鎮座する鵜鳥神社の御霊を勧請したものだった。その普代村に祀られている祭神は三柱の神であり、鵜草葺不合命、玉依姫、海神命であるという。しかし卯子酉神社の御神体は、画像の文殊菩薩、千手観音、不動明王となっている。これは十二支の「卯」「子」「酉」が各々「文殊菩薩」「千手観音」「不動明王」に対応している為だ。その後に、住吉大神、大国主命、大鷲大神に変更されたとあるが、何故かそれは確認できていない。ただ大元の普代村の鵜鳥神社での縁結びの発祥はどうも、源義経の想いがかかった杉の木から発生している模様。鵜鳥神社の創建も定かでは無いのだが、坂上田村麻呂であったり源義経するのだが、本来は"縁結び"とは関係無い神社であったようだ。
ところで卯・子・酉は、陰陽五行でも大きな意味がある。卯は木が最も盛んに時で、子は水が最も盛んになる時。そして酉は、金が最も盛んになる時。足りないのは、土と火になるが、五行循環においては常に土は、中心になるので足りないのは「火」となる。その火は、色で示すと「赤」で表される。ただ火は血をも意味するので、卯子酉神社で赤い布切れを結びつけるのは、その足りない「赤」である火であり、血を補う行為だとも考えられる。