十二月は一日から三十日までに、ほとんど毎日の様に種々なものの
年取りがあると言われている。しかしこれを全部祭るのはイタコだ
けで、普通には次のような日だけを祝うに止める。すなわち五日の
御田の神、八日の薬師様、九日の稲荷様、十日の大黒様、十二日の
山の神、十四日の阿弥陀様、十五日の若恵比寿、十七日の観音様、
二十日の陸の神(鼬鼠)の年取り、二十三日の聖徳太子(大工の神)
の年取り、二十四日の気仙の地蔵様の年取り、二十五日の文殊様、
二十八日の不動様、二十九日の蒼前様等がそれで、人間の年取りは
三十日である。
「遠野物語拾遺275」
神事や仏事は、生活の近代化と共に薄れ始めている。例えば遠野で有名なオシラサマであっても、明治時代にネフスキーが遠野を訪れた際に、ある家のオシラサマが寄贈されたというが、オシラサマとは神様でもある。その神様を人に寄贈する事自体、信仰が薄れた証明でもあるのだろう。
今現在、遠野では盆踊りさえ無くなりつつあって、生活が生きる為の仕事中心と言えば聞こえが良いが、元々農家であってその農作業を中心とした生活であっても神事と仏事はこなしてきたのだった。その為に廃れてしまうのは、その当時の習俗がどうであったかであろう。
例えば、遠野市小友町鷹取屋には胎内潜りの大岩があり、その大岩を年に一度村人総出で山に登って潜り、家に帰ってから風呂に入るという風習があった。しかしいつしかその風習も廃れ、今ではその胎内潜りの大岩がどこにあるかさえ分からない人も増えてきた。その大岩の前には祠もあったのだが、今ではその残骸が散らばっているだけであるのが現状だ。
「遠野物語拾遺275」の各神々の年取り日だが、これは本来の縁日に基づいている。例えば薬師如来の縁日は4月8日なので、年取りは、その8日を取って12月8日にしている。
ところで画像は、荒川不動の滝だが、その不動に関して山形県には面白い習俗がある。山形県では不動明王を祀っている家では、ニワトリを飼ってはいけない。また、卵を食べてはいけないという。遠野でも卵を奉納する神社や小さな社はあるが、これら全てに竜神であったり蛇神を祀っている。これから察すれば、不動明王とは竜神と繋がるという事なのだろう。
不動明王は、滝や水場に祀られているのが殆どだ。ところが不動明王を調べても、ニワトリや卵には、どうしても結びつかない。つまり元々は竜神を祀っていた場所に、後から不動明王を祀るようになったというのが事実であろう。つまり羽黒周辺の不動明王は、元々祀ってあった龍神の上に、不動明王を被せたという事だろう。
実は、遠野でも不動明王に卵を供えるところがいくつかある。やはり不動明王の以前には竜神系が祀られているのだろう。この「遠野物語拾遺275」において、不動明王の年取りは28日とあるのだが実は、早池峰大神である瀬織津比咩の縁日は9月28日となる。恐らく瀬織津比咩の縁日に合わせて、その上から不動明王の縁日を被せて行ったものと思う。となればだ、全国的に不動明王の命日が28日に設定されていると考えてみても、その後ろには瀬織津比咩の姿があるのだろうと思ってしまう。
そして瀬織津比咩続きにはなるが、遠野の伝承の中にいつくか貴人が白馬に乗ってと伝えられる話がある。その貴人とは瀬織津比咩であるのだが、その瀬織津比咩を乗せる白馬とは蒼前であろう。
「遠野物語拾遺275」で28日の不動明王の年取りに続いて、29日が蒼前様の年取りであるのは、不動と蒼前がセットになさっているからだとも伝えられる。それは遠野地方で、瀬織津比咩の乗るものが白馬であるという伝承に他ならない。蒼前神も、田村麻呂の蝦夷征伐の後に駒形神が上から被せられ、後に馬頭観音と結びつけられ、いつの間にか蒼前という名が消えつつあった。しかしこの蒼前神こそ、東北地方に古代から伝えられる神であって、蝦夷に古くから伝えられる神馬であった。それ故に、この「遠野物語拾遺275」において、未だに駒形でも馬頭でも無く、蒼前と伝えられているのは貴重であると思う。
馬の最高位は龍に行きつくのは、タテガミもあるのだが、水辺で龍と結びついて竜馬が生まれたという伝説があるように、馬もまた竜の属性を持った生き物である。故に水神としても祀られる河童が馬を淵に引き込もうとして、逆に陸に引き出された「河童駒引き」の話も、水神としても河童よりも馬の方が位が高いという理由もあるのだと理解できる。
水神としての馬…ここでは蒼前に乗る瀬織津比咩の姿はまさに、馬であって竜でもある水神に、やはり水神でもある瀬織津比咩が乗るというのは水神の極みでもあるのだろう。とにかく9月28日は瀬織津比咩の縁日であって、9月29日は蒼前の縁日であり、それが「遠野物語拾遺275」において遠野では、瀬織津比咩が不動様と名を変えられていても、蒼前様の年取りと続けて伝えられているのは、瀬織津比咩に対する信仰が水面下で続いていたという証明になるのかもしれない。