明治の初め頃であったかに、土淵字栃内の西内の者が兄弟二人して三頭の飼い
馬を連れ、駒木境の山に萱苅りに行くと、不意に二疋の狼が出て来た。馬の荷蔵
にさしておいた鎌を抜き取る暇もなく、弟はとっさに枯柴を道から拾って、この
二匹の狼を相手に立ち向かった。兄はその隙に三頭の馬を引き纒め、そのうちの
一頭に乗って家まで逃げ帰った。たとえ逃げ帰っても、家族の者や村人に早くこ
のことを知らせたならば、弟の方もあるいは助かったかも知れぬが、どういう訳
であったか、兄は人に告げることをしなかったので、たった十五とかにしかなら
ぬその弟は、深傷を負ってむしの息になり、夕方家に帰って来た。そうして縁側
に手をかけるとそのまま息が絶えたということである。
「遠野物語拾遺213」
この物語の舞台は、観光で有名な山崎のコンセイサマの奥に、駒木に通じる峠がある。今では人が殆ど通る事が無いのか、歩いてみると途中で道が途切れてしまう。峠の脇を見ると、ミズと呼ばれる山菜が無数に生えている。
実はこの峠の途中は、別名「地獄山」と呼ばれ、石が多く積まれた場所があり、いわゆる賽の河原として昔は信仰された場所でもあった。この峠を行き切れば、駒木の妻の神の石碑郡の場所へ行くのだが、その反対へ進むと大沢の滝があり「遠野物語拾遺42」の舞台へと結びつく。
また更に奥へと登って行けば、耳切山経由で、馬や牛が放牧される荒川高原へと辿り着く。
この峠の先は、先に述べた通り駒木地域ではあるが、実は峠を渡りきった処に三峰様を祀っていた跡地に辿り着く。昔は祠もあったらしいが、今では画像の石碑と立て看板だけの三峰様となる。
安政二年(1855)に狼が村里に出て来て、人や家畜に危害を加えるので、村人が三峰様の祟りでは?という事から衣川から分霊して貰い祀ったら、それから狼が村に出る事は無かったという。
この三峰神社があった傍には、狼洞と呼ばれる入り口が木々で覆われているが奥に進むと開けた牧草地がある。まだ狼が多く生息していた当時、この狼洞には無数の狼が屯していたと云う。
つまり「遠野物語拾遺213」の兄弟は、危険を承知で狼の巣窟である方面へ萱苅へ行ったのではなかろうか。それがその家で、その兄弟に課せられた仕事であった為に…。
何年前だか忘れてしまったが、まだ幼い兄弟で小川に遊びに行き、小さな弟が川の深みにはまって溺れたが、兄は怖くなって家に帰ってしまったが、誰にも告げる事無く黙っていたが、後で問い質すと、弟が溺れた話をしたが、もう手遅れであったという事件を覚えている。
この「遠野物語拾遺213」も似たような話ではあるが、年齢が違う為、同じとは言い切れない。ただ現代として考えてみるに、狼が多く生息する山に行かせた親にも問題はあるのだろう。ただ現代と違って日々を生きるのに精いっぱいな日常であるのなら、危険な仕事でも子供に任せざる負えない事情があったのだろうと察してしまう。