この画像の釜は、「遠野物語拾遺22」に登場し、常楽院に保存されている雄釜である。釜淵の伝説は以前
「遠野物語拾遺22(釜淵)」で紹介した。ところが
「鹽竈神社史料」を読んでいると、気になる記述に出くわした。
鹽竈神社六社大明神、仙臺より四里半ばかりあり、此國にて最も大社なり。其宮の下に、鹽焼竈といふあり。大きなる圓盆のごとし。此物の中に、つねに潮九分目ばかりありて、いかなる旱にも減ることがなく、又洪水のをりも增すことなく、おなじことなり。いとあやしきものなり。海ぎはより三四町ばかりはなれて、市中石段の上、いがきの内に五つならびてあり。もとは六ツ有しに、一ツは海へ沈みしとぞ、其處を今釜が淵といふなりと云へり。
上記の文は
本居宣長の漫筆ともいうべき著書
「玉勝間」にも紹介されているのだが、この記述を読んでいると、まさに早池峰山頂にある開慶水の伝承と同じであり、無尽和尚の東禅寺に伝わる早池峰山頂から分けられた開慶水に加え、寺に伝わる夫婦釜に似ている。そこで何故に似ているかだが、一つのキーワードは"
失せる"という事だろう。
この「鹽竈神社史料」に掲載されている伝承はどうも、中世に建立された東禅寺よりも古いようだ。朝廷支配の流れは、常陸の国の香取神宮・鹿島神宮に経津主神と武甕槌神が祀られているのは、朝廷支配になってからのよう。常陸の国は以前、蝦夷国でもあったが、いつしか蝦夷国に対する前線基地として香取神宮と鹿島神宮がなったと思われる。アテルイが死んだ802年の42年後、嘉祥元年(844年)に菊多の関で鹿島神宮の使者が追い返された理由は想像でしか無いが、恐らくアテルイの氏がまだ生々しい時に、その怒りから朝廷側の使者を追い返したのが本当の事では無かったのだろうか。更に朝廷はその前線基地を宮城までに推し進め、多賀城を築いたが、それに伴って鹽竈神社の祭神も乗っ取られたというのが真実なのだろうと想像する。
民俗学を学んでいると、真実をそのまま伝えるのではなく歪曲させ、わらべ歌や伝説・伝承に伝える庶民の知恵に、しばしば触れる。この方程式に当て嵌めれば、恐らくこの釜淵の伝承もまた、真実が歪曲された伝承の可能性も否定できないだろうと考える。
東禅寺で淵に落ちた釜は、雌釜と伝えられる。また遠野・鱒沢の釜淵の伝承には、やはり落ちたのは雌釜であり、その雌釜の落ちた淵で魚を捕ると祟りがあると伝えられている。この伝説がもし鹽竈神社に伝わる伝承に結びつくものなら、それはそのまま早池峰の姫神に結びつくものではないかと想像してしまうのは、あまりにも似通っているからだ。詳細については、もう少し調べてから書こうと思う。