「東日流三郡誌5(文化・地誌 編)」の【十三湊町史】には、こう書き記している。
「興国二年に大津波起りて一挙に海の底に埋まり、その昔影を遺すに至らず、今は住む人ぞ二十一軒なり。湖底に眠る幾千人の霊魂は唐崎の地蔵尊に崇まるとも、その縁ずる者もなく、今は無縁なり。」
興国二年とは南朝暦であり、西暦1341年。要は、南北朝時代真っただ中だ。
和田喜八郎著「知られざる東日流日下王国」では「東日流三郡誌」で書かれている日本海での津波などあり得なく、でたらめも甚だしいと講演した某大学教授への批判が書かれているが、実際にその後、1983年(昭和58年)5月26日11時59分57秒に秋田沖日本海中部地震が起き、津波が押し寄せた。新聞やテレビで知ったところによると、砂浜を歩いていた小学生が津波に呑み込まれたなどと、津波の恐ろしさを伝えていたのを記憶している。
ところで文献上、東北を襲った地震と津波で一番古いのは、
「貞観の大地震」貞観11年(869年)であるが、ここでフト三陸のリアス式海岸を思い出した。小学の地理の授業で習うには、ノコギリ状のギザギザな地形という事だが、これは海水面の上昇によってこの地形が現れた…という考えが一般的のようだ。しかしこのリアス式海岸の地形を作ったのは、やはり水の力だろうと思う。もしかして人類が東北に住む以前から、何度も津波が押し寄せてリアス式海岸を作り上げた可能性も否定できないのかもしれない。
気になるのは安倍一族であり、奥州藤原氏だ。安倍一族を調べると、どうも本来は海の民では無かったのか?と思う節がある。しかし安倍一族は、海の面していない奥六郡を本拠地としていた。また安倍一族の血を引く奥州藤原氏は十三湊で大陸との交易をしていたようだが、十三湊から平泉まで交易の品々を運ぶには、かなりの距離がある。いくらでも十三湊寄りに近づいた方が、輸送の不安は拭えた気もするのだが、北東北の丁度中央に位置する平泉という地に金色堂などを築いたのは、黄龍の思想もあったのでは無いかと考える。要は東は青竜、西は白虎、南は朱雀、北は玄武で、その中央に位置するのが黄龍であり、支配の位置であるからではなかろうか?
そしてもう一つ、津波に対する警戒心から沿岸域には都の建設をしなかったのではなかろうか?本当の事実はどうかはわからんが、1341年の地震による大津波が起きたにしろ、史書には記録されていないのは十三湊が辺境の地であった可能性からであろう。
史書でわかっている古い津波の歴史は、日本最古の書物である「古事記」の編纂を命じた
天武天皇13年(684年)10月14日に
土佐に津波が来襲し、船多数沈没とあるのが最も古い。天武年間には伊豆の地震に対する不安を書き記してはいるが、それより更なる北…東北に関する記述はない。しかし今回の3月11日の三陸大津波の余波はニュースで注目を浴びなかったがやはり土佐をも呑み込み、三陸ほどの被害は無かったものの、かなり深刻なダメージを与えたようだ。つまり天武年間の津波の記述も、もしかして土佐という局地的なものではなく、広く太平洋沿岸域に起きた地震と津波であった可能性もあるのではなかろうか?
こうして古代史を調べていて気付くのは、海人族が海を捨てて、内陸に移住して文化を築いている事。安曇族しかり、何故に海の民が山へと進出して、海の文化をもたらしたのかと不思議だった。何故なら山の中でありながら、竜宮に繋がる伝承は数々ある。「遠野物語」を一つ一つ紐解いていっても、海の民の文化に繋がるのである。何故海の民は、海を捨てたのか?それはやはり、歴史の知らない津波が、今まで住んでいた海の民の町を壊滅させた可能性に心惹かれてしまう。
何故に海幸彦が海で溺れなくてはならなかったのか?もしかしてだが、海を捨てた民が山幸彦となり、海を捨てない海幸彦を溺れさせた隠された背景があったのではなかろうか?などと、今回の三陸大津波がいろいろ心に語りかける。
そして最初に戻るが、本来は海の民であったらしい安倍一族が何故海に面していない奥六郡に拠を構えたのかも、沿岸域の津波の恐ろしさを知っていたからではなかろうか?と考える。そして何故に奥州藤原氏が内陸の中央に極楽浄土の思想によって平泉を築いたのも、津波によって流離う海の民を意識してのものではなかったのか?と。つまり津波という恐ろしさを知っていたからこそ、居住も含め精神的信仰の拠点としての平泉では無かったのか?一般的に知られる極楽浄土とは、補陀落渡海。つまり海の彼方にあると信じられた。しかし奥州藤原氏は、その極楽浄土を東北の内陸の中心に築いたのは、津波の不安が無い地であった可能性。そして奥州藤原氏の築いた文化には、安倍一族から受け継がれたものが多大に含まれている可能性はあるだろう。つまり妄想を広げれば、安倍一族は津波によって故郷を捨て、東北に流れ着いた海の民では無かったのかと…。