
文献上、日本の最古の語り部ではないかと言われるのが、稗田阿礼が語り、それを太安万侶が書き留めた日本最古の書物である「古事記」での話を語った稗田阿礼、その人となる。
以前、古代日本においての本来、物語とは文字では無く、語る事によってそのリアリティが伝えられると書いたが、この「古事記」もまた人々によって語り伝えられていたものが初めて書物としてまとめられたという事だろう。つまり「古事記」そのものの内容は、古くから"語り部"によって語り継がれていた内容であり、その「古事記」…つまり「ふるごとのふみ」は、その語りのスペシャリストとして稗田阿礼が採用されたのかもしれない。ただ厳密に言えば「古事記」の編纂に当たっては、各地域の伝承を書き記す書物があったという事で、それを稗田阿礼が読んだという事らしい。つまり"語る"とは"読み"のスペシャリストでもあったわけだ。
遠野での以前、遠野の語り部の代表格に故・鈴木サツさんという方がいた。やはり語りというものは、その人によって語り口が違う。しかし、その語りの良さというものは、人々の評判によって決まるものであるから、「古事記」の稗田阿礼も、遠野の語り部である鈴木サツもまた、人々の評判によって代表格となったのだと理解していいのだろう。ただ稗田阿礼の阿礼(アレ)は、神が現れる古代語とされており、稗田阿礼そのものが巫女的な存在であったようだ。
稗田阿礼が語り部とは書いたが、元来「語り部」とは「延喜式」などの大嘗祭の際、各地の語り部と呼ばれる人々が参列して、古詞を奏した事が原点のようだ。その語り部の唱える声に類似しているのに「祝詞」がある。祝詞は、神と人との媒介者が神を讃えると共に、人々の言葉を神に伝えるものであるよう。つまり魂の篭った言葉…所謂
"言霊"を伝えるという意味で、語り部の語りと祝詞は同じものとして良いのだろう。それ故に、語り部の語る話は単なる昔話では無いという事だろう。そこには、先祖の魂が引き継がれているからだ。

ところで
「万葉集(新潮日本古典集成)」巻の三を読むと「天皇、志斐媼に賜へる御歌一首」というのがある。
* 【天皇、志斐媼に賜へる御歌一首】
いなといへど 強ふる志斐のが 強語り
このころ聞かずて 我れ恋ひにけり
【「もうたくさん」というのに聞かそうとする、志斐婆さんの無理強い語りも、ここしばらく聞かないでいると、私には恋しく思われる。】
*【志斐媼が和へ奉る歌一首】
いなといへど 語れ語れと 宣らせこそ
志斐いは申せ 強ひ語りと言ふ
【「もういやです」と申しても、「語れ、語れ」とおっしゃるからこそ、志斐はお話申し上げるのですが、それを無理強い語りだなどとおっしゃいます】
これを読んでいて感じるのは、語り部らしき志斐婆さんが天皇(持統)と、とても良い関係にある事。まるで乳母のように親しみを感じる関係である事が伺える。つまり天皇が幼少の頃から古事(ふるごと)を、この志斐婆さんから聞いてきたかのようだ。これはつまり、遠野の語り部にも通じる事でもあるだろう。
遠野の語り部と呼ばれる文化は"子供騙し"からであった。夜でも家の中で騒ぐ子供たちを、早く寝かしつける為に「坊や、面白い話を聞かせてあげるよ。」と、子供の動きを止める。動きが止まった子供というものは大抵、コックリ、コックリと居眠りしてしまうもの。この役を担ったのは、家によって違うようだ。先に紹介した故・鈴木サツさんは、父親から様々な話を聞いたという。ただ、持統天皇が志斐媼から聞いた話と、遠野で語られた話は違うだろう。
本来皇族とは無駄に昔話を聞くのではなく、帝王学の一環としての話が多いだろう。つまり志斐媼が語ったのは、天皇一族の歴史や伝承であったろうと想像できる。「古事記」の編纂を命じたのは天武天皇だった。その天武天皇の皇妃であった持統天皇に対し志斐媼は恐らく、天武天皇に語ったであろう話を引き続いて、持統天皇にも話したのだと推測する。持統天皇と志斐媼が親しげな関係であるのは、間に天武天皇がいたからであろう。
遠野の語り部が語る話は、子供騙しの話であり創作の話だ。しかし志斐媼が語ったのは、天皇家の歴史や伝承、もしくは各氏族に伝わる歴史や伝承だろう。つまり本来、歴史を語るのが語り部であったのだが、まあ広い意味では遠野の語り部も、また語り部と呼んで良いのかもしれない。
そしてだ、その語り部の源流を辿ると、丸邇氏の影がちらつく…。