この岩手県北上市口内の多岐宮神社内新山宮には、瀬織津比咩が祀られている。また何故か祠には菊池神社の御札もあり、ここにも菊池一族の影がある事がわかった。
また新山宮を祀り置く多岐神社の由緒を紹介したい。
【多岐神社由来】
抑、多岐大明神と申し奉るは、往昔人王五十代桓武天皇の御宗征夷大将軍坂上
田村麻呂の勅命を奉じ東国の鬼神首領、悪路王高丸其の外これに組する鬼神共
を退治の為、陸奥に下りけり。
稲瀬の奥なる三光岳に潜居する岩盤石と申す鬼神、悪路王に組して余、多の手
下擁して、其の勢力大なるに、将軍三百余騎を差し向けて攻めるも、厳窟峻険
にして容易に攻め難く、止む無く北東に迂回して背後より攻め破らんとせしも、
路に迷いて難渋、加えて六月半ばの炎天、軍兵渇して、疲れ倒れる者出る始末
なり。この時八十余の翁、薪を背負いて通るを、此の辺りに清水の湧き出づる
処無きやと問うに、此の先に清水の湧き出づる泉あり。下流に瀧有りと申した
れば、その瀧に至りて陣をとり、渇を癒しければ、兵勇気百倍となり士気大い
にあがる。而して翁の案内にて三光岳を急襲至しければ、流石の岩盤石も三百
余討取られ北方へと逃げされり。
将軍翁を召して其の功を賞し、砂銀を当分として与えたり。其の後将軍鬼神悪
路王其の他の鬼神共を討伐、帰京のみぎり当所に立ち寄りて、かっての翁を尋
ゆるに、村人申すには其の様な翁の住居も無く、知る者も無しと、かへりみる
に此の地に東光水と申す瀧ありて、この水にて妻の木の枝なるを煎じて用いれ
ば病気直ちに全快するとの霊地あり。翁はその瀧の化身に非ざるかと申し上げ
たれば、将軍不思議に思い瀧に参りて見渡すに…瀧の下なる石に砂銀置かれ在
るを見る。些ては矢張り翁は化神にて征軍の難渋しあるを見兼ね、自づから御
導引きになられたに相違ないと、その有難さに瀧の落つるに向いて三度礼拝し、
命じて一社を御建立、多岐宮と号し崇め玉もう。ときに延暦二十一(802)
発未年八月の事なり。
後代に至り藤原仲光、立花村高舘に住みし頃、干ばつ冷温が屡々有りたれば村
民困窮の処、東光水の流れる処は独り五穀実りしは多岐宮を誓護持し参りと仲
光の至誠通じたるか、神の恵みに村人その有難さに参詣怠らずとか云々、此の
由、都に聞こえければ、関白藤原頼道、帝に奉上成たれば、帝此れを嘉し、三
井兼平を勅使として御遣わしになられたり、依って御堂三間四面を再建され、
境内二寸四方、山林十丁を附属して神社守護の礎とし、稲倉大明神と改号せり。
御堂再建を祝って三井兼平
都にて聞きし満さる多岐の宮
峯の古木に照らす月影
と詠みたる。時に長元八年(1035)四月、後一条天皇の御宇なり。
文政七年(1824)に至りて、此れまでも神社の修復、改築は数度行われて
きたのだが、破損甚だしくなりたれば、南部家の地頭桜庭十郎衛門の助力と近
隣の寄附により建立したのが現存の神社にして、彫刻の精巧さは希少のものと
されている。
この札に書かれている内容は、新山神社の殆どが奥州藤原時代に羽黒山に祀られる玉依姫という瀬織津比咩の別称を勧請してからのもの。玉依姫は神話において、姉である豊玉姫命の産んだ鵜茅不合葺命を育ての親として養育したという言い伝えが結び付いてのものだろう。ただ現在の宮司は、最近になってこの多岐宮神社に携わる様になったようで聞いても、いつから瀬織津比咩が祀られたのかは謎であるという。また菊池神社との関係も定かでは無いという。