戦争場とは昔この村にあった臼館と飯豊館との主人達が互いに戦った処であると伝えられており、真夜中になると、戦う軍馬や人の叫びなどが時々聞こえたといわれている。
「遠野物語拾遺267」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
遠野に、飯豊という地名がある。以前は簡単に「豊かな飯」と思っていて、田舎らしい地名だと勝手に思っていた。しかしだ、飯豊という地名を調べると、避けて通れない人物として飯豊皇女がいる。ここで飯豊皇女の細かなプロフィールを書くつもりは無いが、
渡辺豊和「扶桑国王蘇我一族の真実」では元々近江に住んでいたのが、追われて越国に逃げ延びた推論を述べている。ただし「扶桑国王蘇我一族の真実」は、著者の自分勝手な推論が多く、胡散臭さも目に付く。ただし興味深い視点からの推論もままある為に、興味は持てる本でもあった。
ところで「飯豊」は「イイトヨ」「イイドヨ」が東北では訛って「イイデ」となっているようだ。また古語で「イイトヨ」は「フクロウ」を意味する。
飯豊皇女は青海皇女とも言われ、福島県から越国にまたがる飯豊山連邦があり、飯豊皇女はそこに
物部臣を使わして幣帛を奉納させたので、飯豊山となったという。この地名としての飯豊という名は、何故か東北と北陸地方にしかなく、やはり飯豊には意味があるのだと考える。ただ地名として"飯豊"と名付けられるのは伝説だけが伝わったのでは無く、伝説を伝える人間が移り住み、定着してこそのものだ。つまり東北・北陸にある飯豊という地名は、それを伝え移り住んだ者が名付けたのだと考える。それは当然、遠野の「飯豊」もそうであろう。
「遠野物語拾遺267」を読むと、臼館と飯豊館の主人が争ったとされている。この物語に登場する飯豊館とは「花館」もしくは「鼻館」と呼ばれるものだろう。近接した花館と臼館が戦をするとは、境界争いでもあったのだろうか?と考えてしまうが、ここでもう一度振り返って考えたいのは、物部臣が飯豊皇女の手足となって東北に赴いたという事だ。物部氏が蘇我氏の戦いに敗れて秋田に落去した後も、戦の度ごとに朝廷側に付いたのは、未だに中央である朝廷の中に立つ夢を抱いていたのは「
秋田物部文書」に書かれている。これを遠野に当て嵌めれば、例えば前九年の役において安倍一族が朝廷側である源義家との戦いにおいて、もしも飯豊館に物部氏が居付いていたのならば、安倍一族に逆らってまでも朝廷側に付き、近接した臼館との戦を起すのも納得してしまうのだ。
またその陰には、北陸から陸奥にかけて物部氏と強く結び付いていた秦氏の存在もあるのだと思う。飯豊皇女の時代は、雄略天皇没後(479年~)であり、物部氏が蘇我氏に敗れた後(587年~)。そして新羅仏教から任那仏教に転換して用無しとなり追われた秦氏の、桓武天皇時代(737年~)。これらの時代のいずれかの時に、遠野に飯豊という地名をもたらしたのではと考える。飯豊皇女は、巫女としての性質が強かったようであるり、ある意味卑弥呼に近く、ある意味神功皇后に近い存在であった為に崇敬者もいた為に、雄略天皇没後に摂政となり事実上の女帝となったのだろう。その崇敬者の筆頭が、物部氏の関係であったのだろう。つまり飯豊皇女という存在は、物部氏の御神輿みたいなものと考えれば良いのかもしれない。そういう時代に、北陸から陸奥にかけて飯豊という地名が伝えられ定着した。
可能性が高いのは、やはり物部氏が蘇我氏に敗れた後なのかもしれない。それは、飯豊に隣接する地に飛鳥田という地名がある。この飛鳥という地名に関しても、東北にいくつも散らばるのは、やはり物部氏が関係するようだ。つまり遠野の飯豊は隣接する飛鳥田をセットで考える事によって、物部氏の関係がより強く感じるのだ。実際に高瀬遺跡から物部に関する墨書土器が発掘されている為に、物部氏は遠野に住んでいたのがわかっている。その物部氏の痕跡を、墨書土器意外に何を見いだせるのか?と考え浮かび上がるのはやはり飯豊と飛鳥田なのであろう。
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