たまたま購入した漫画
「花もて語れ」を読んで、いろいろ感心&納得した事がある。古来…例えば「古事記」など稗田阿礼が朗読し、太安万侶が筆録したものだった。「古事記」が最古の書物であるならば、それ以前は殆どが、声によって伝えられてきたのだろう。つまり「古事記」も本来、朗読によって語り継がれる物語であるのかもしれない。現実として俳優の浅野温子などが「古事記」を朗読しているというのは聞き知る。
この漫画では、物語などの本質をつく言葉が紹介されてあった。
「作者の思いが、語り手の声によって甦る。」
物語というものが本来「声」を出して読み聞かせるものならば、確かにその物語は、声を出して読んでこそ甦るのだろう。朗読の素晴らしさは読み手と聴き手で、感動を共有できるという文化が日本には根付いていたという事らしい。
この漫画では、過去の日本の朗読の歴史を簡単に踏みこんで説明している。
実は意外だったのは、大正時代まで…例えば電車の中でも、本を声を出して読んでいる人がいたという事実。これを現代の電車の中でやったものなら、携帯電話で話す連中同様「マナー違反!」のレッテルを貼られてしまう。
どうも明治以降の教育が「教養主義」に走り、知識を詰め込む事を優先され、「音読」よりも「黙読」の方が知識を詰め込むには速いから、今でも図書館は「静かに!」というものは、あくまでも他人の知識を詰め込む妨げをしない為のよう。だが図書館が、作者の思いを知る場なら…。でも思ってしまう…朗読主体の図書館があったら、どうなのだろう?と(^^;
ただ、こうして思い返してみると、親が子供に対して昔話などの絵本を読み聞かせるのは、この本の作者の思いを伝える文化であったのだろうと。それもいつしか、テレビやビデオの文化に乗っ取られてしまった感がある。ただ一つ、今でも伝わっている作者の思いを知る文化は、カラオケくらいだろうか?考えてみれば、本も歌の歌詞も、声に出して伝えるものなのだろう。
ところで自分も暗記モノは、やはり声に出して読んで覚える派である。黙読だけだと、なんとなく暗記できないから、いつも一人で誰もいない部屋などで、声を出して覚えるようにしている。いやこれ…一人で朗読しているのを誰かに聴かれたら、笑われるんじゃないか?という意識って、誰でも思うんじゃないだろうか?だから誰もいない場所で、密かに声を出して読むというのは、ある意味呪文みたいなものでもあるかも。しかしカラオケなどで歌う歌は、堂々と人前で歌う人が多いのに対して、朗読を人に対して読み聴かせるというものは、本当に無くなった。歌を歌うと、本を読むという本来同じ文化が、まったく別方向に進んでいるのも不思議といえば不思議だ。
とにかくこの漫画「花もて語れ」は、何となく自分の中から消え去ったものを思い出させてくれた漫画でもあった。まだ一巻だけの発売だけれど、今後も長く連載してくれる事を願う漫画でもある。