(1)話し手または書き手の思考や感情がほぼ表現し尽くされている
一まとまりの統一ある言語表現で、一つもしくは複数の文から
成るもの。一編の小説・評論・詩などの類。講演や複数の話者
による座談など音声言語を含めることがある。それ自体で表現
が完結しているものならば、和歌や俳句も文章といえる。
(3)内面の徳が容貌や言語として外にあらわれるもの。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
文章を辞書で調べると、上記の説明が成されている。自分は、こうしていろいろ書いているけれど、結局文体に表れるのは、自分の思考であり感情だ。つまり自らの言霊を、文字にしたためているのだと考える。だから、自分の文章を読んで、それに対し感応する人達が集まってくるのは、ある意味言霊の繋がりであるとも思ってしまう。
「人に読ませる文章」と云われるものがある。しかし根本的に人に読ませるのではなく、自分の思考や感情に感応した人達が、それを読むのだと考える。例えば新聞記事などは、なるべく個人の感情を抑えて、事実を伝えるものだ。しかし、読んでみると、やはり記者などの言霊というものを感じる。だから、夢中になって読んでしまうものもある。
ところが読めないものに、役所などで発行する観光歴史の案内文などがある。間違った事は書いてないのだが、無難すぎてつまらない。それが間違いというわけでは無いが、そこには言霊というものが存在しないかのようだ。しかしそこには徹底して無感情にするという役人根性?というものもあるのだろうが、結局読んでも『ふ~ん…。』というものしか与えられないのが、役所(役人)などで作る文章なのだろう。やはり人であるならば、個人的な思考や感情が表れるからこそ文章であると思ってしまう。まあそれでも分党に「初冬の候」などと添えるのは、日本人の伝統を踏襲しているのだろう。
雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり言ふべき事ありて、文をやるとて、
雪のこと何ともいはざりし返事に、「この雪いかが見ると一筆のたまは
せぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるる事、聞きいるべきかは。
かへすがへす口をしき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。
今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし。
「徒然草第三十三段」「徒然草第三十三段」には、せっかくの季節を文章に表さないのは、趣の無いひねくれものだとしている。この「徒然草」がきっかけかどうかはわからないが、こうして日本人の書く手紙には、季節の様相を示す言葉で始まっている。
梅原猛という人物がいるが、初期の頃の文章は、やけに熱く危なっかしいが、人を引き付ける魅力に溢れるものだと思う。だから多くの読者を集めて、今尚評価されるのは、梅原猛自身の言霊が文章に表現されたからなのだろうと考える。梅原猛自身の言霊は、その好奇心にある。様々なものに興味を持ち、人に対する興味もまた尽きないのが梅原猛なのだという。役所発行の文章と、梅原猛の文章の違いは風評や人を意識し過ぎて無難に収める文章と、人に訴える事を前提とした文章の違いのような気がする。だから、沢山の物事や沢山の人物に興味や好奇心が尽きた時は、無難なつまらない文章になってしまうのかもしれない。だから、様々なものや人々には常に興味を持ち続けたいものだ。
ところで某著作を書いた人物から「GOちゃんの記事は全部読んでるよ。」と言われた事がある。つまり知合って興味を持てば、その人が何を書いているか全て読んでみたい意識になってしまうのだろう。自分も、好きな作家や漫画家が出来ると、他の作品にもついつい手を伸ばしてしまうのは、そういう感情なのだろう。つまり個人に興味が湧くからこそ、自分の専門外のものでも、ついつい読んでしまう。それは一つの作者と読者の「気持ちのキャッチボール」なのだと思う。いつも投げるのは直球だけでなく、カーブやシュートにフォークボールと、いろいろな変化球を織り交ぜても、それをキャッチしてくれるのは、本当にその作者に興味を持っていてくれているのだと理解できる。流行を追って、取り敢えず1冊だけ読むのは、単なる通り過ぎていく人だ。
こうして自分も数年に渡ってブログを書き続けてきたけど、記事を書いても書かなくても、安定した沢山の人間のアクセスがあるだけで、頑張らねばと思ってしまう。通り過ぎる人と、留まる人。今後も"言霊"を以て、このブログを維持していかねばだ。ただ楽する為に、変化球は多用したいものだ…(^^;