
「河童の詫証文」の伝承の形にはいろいろあるが、川から河童が出て来て人に相撲を挑み、腕を引き抜かれて詫びたというものがある。この話の原型は「
古事記」における
タケミカヅチと
タケミナカタの力比べにより、タケミナカタの腕を引き抜いた話であるとされる。負けたタケミナカタは諏訪まで逃げたが、追ってきたタケミカヅチに対して「二度と国外に出ない」と詫びたのだが、これが河童の詫証文の原型であったよう。ただしこれは、諏訪の大祝(おおはふり)が絶対諏訪の国以外に出ないという家伝のタブーを利用して創作された「古事記」の「国譲り神話」であったようだ。
平林章仁「七夕と相撲の古代史」によれば、相撲の歴史として古いものは垂仁紀7年7月7日の野見宿禰の相撲が最初とされている。つまり「古事記」における「国譲り神話」でのタケミカヅチとタケミナカタの相撲(戦い)は捏造された話である為に、論外となるのだろう。
折口信夫は、野見宿禰の相撲は、遠くの神がやってきて精霊を圧伏し土地の守護を誓わせるという、神事としての演劇であるという。また村々で行われた相撲の場所は水辺で行われたのは、水神の信仰があったからであり、後には河童などの水の精霊が相撲を好むという伝説に発展したと折口信夫は説いている。
松前健「出雲神話」では
「諏訪明神画詞」においての諏訪明神でもあるタケミナカタは、堂々と国に乗り込んで、手長・足長や守矢の神を征服する勝利者であったのを「古事記」においては敗北者と逆転されて記されているのは、勝利者の横暴であろう。
ところで
「枕草子(第二十段)」には
「清涼殿の丑寅の角の、北のへだてなる御障子は、荒海の絵。生きたるものどものおそろしげなる、手長・足長などをぞ描きたる。上の御局の戸をおしあけたれば、つねに目に見ゆるをね憎みなどして、笑ふ。」とあり、"手長・足長"とはその「枕草子」の当時、恐ろしいものとして伝えられていたのだろう。ただ蝦夷の場合もそうだが、相手を憎々しげに恐ろしく表現するというものは、それを征服するにおいて世論を引き込み正当化する意図を含んでいる場合が殆どとなる。となればタケミナカタが征服した手長・足長の本来は、どうであったのだろう?
話は飛んでしまったが、相撲の話題に戻そう。
和歌森太郎「相撲」によれば、七夕は盆の前提となる行事の日で、水浴びや潔斎を行ったが、これとの関連で相撲が行われる意味があったという。それは、目に見えない河童と相撲を取る一人相撲が一種の舞となって
「相舞(すまい)」と称されたのが相撲の語源であり、水神祭の折りにその年の稔りの豊凶を占う年占としての相撲が行われたと説いている。また水神を服従させるとものと考えれば、それはタケミナカタが諏訪においての征服もまた、水神を服従させたものであるし、「古事記」においてのタケミカヅチがタケミナカタの手を引き抜いたというのも、蛇が手足が無いという意図に基づいて、タケミナカタを水神である蛇と見立てての征服および服従させたという「古事記」における為政者の思惑であったのだろう。こうして見ると、歴史や神話、また仏教説話などにおいては、水を…水神を征服・服従させるというものが主流を成しているような気がする。
こうして考えてみると、水というものは形を成さないものだ。また逆に、様々な形を成すのも、また水という事になる。人に恵みをもたらす水は、時として猛威をふるい、災害として人々を飲み込んでしまう。その水であり水神に打ち勝つ為には、まずは水を人間が戦える姿に整える必要がある。それが水神の仮の姿として創られた河童であったのかもしれない。ただ河童に関しては以前もいろいろと書いたが、あらゆるものを内包している多面性を持ち、一つの説では語れないものであると思っている。その中の一つとしての河童が、今回の相撲に関する河童の姿でもある。つまり河童とは人が水に打ち勝つ為の、仮の姿であった可能性もまたあったという事だろう。