久々に「ドクトルジバゴ」を観た。初めて観たのは中学の時のテレビ映画で、水曜ロードショウだったか?2度目は二十歳過ぎてからで、今回で3度目の「ドクトルジバゴ」体験だった。10代・20代・40代で観ると、観方、感じ方も変わって来るもので、今回はストーリーを追うというよりも、言葉を意識して観ていたような気がする。今回気になったのは、下記の言葉。
「詩を愛する人は詩人を愛する。ロシア人ほど詩を愛する国民はいない」ロシアの詩人というと真っ先にプーシキンを思い出すが、ドストエフスキーの小説を読んでいても、何度かプーシキン賛辞の言葉が目に付くほど、ロシア人にとって偉大な詩人は、確かに国民に愛されていたのだと感じる。
「ドクトルジバゴ」の監督はデビット・リーンで、イギリス人だ。ロシア人とイギリス人というものは、どこか馬が合わないようなイメージがあるので、イギリス人の監督がロシアを舞台に映画を撮るというのはどうか?とも感じた時があったが「…ロシア人は詩を愛する…」で思ったのは、イギリスといえばシェークスピアのソネットだ。このシェークスピアのソネットは当時、その言葉の斬新さにイギリス人を魅了したという。現代においてもシェークスピアが持ち上げられるのは、そのソネットによるものが大きいのかもしれない。そうイギリス人もまた詩に魅せられた存在だった。ならばイギリス人であるデビット・リーンが「ドクトル・ジバゴ」を撮影するにあたって意識したのは"詩的なもの"では無かったろうか?
映画の冒頭が、ジバゴとラーラの間に生まれたトーニャに話しかけるシーンから始まるのは、過去の想い出を詩的に表す為の序章のようなものかもしれない。ここでプーシキンの詩が、頭を過った…。
日々のいのちの営みがときにあなたを欺いたとて
悲しみを またいきどおりを抱いてはいけない。
悲しい日にはこころをおだやかにたもちなさい。
きっとふたたびよろこびの日がおとずれるから。
こころはいつもゆくすえのなかを生きる。
いまあるものはすずろにさびしい思いを呼ぶ。
ひとの世のなべてのものはつかのまに流れ去る。
流れ去るものはやがてなつかしいものとなる。ラーラの生き様は、少女から突然大人の女性の世界へと羽ばたく。その激動の中、ジバゴと結ばれるのだが、そこにはロシアの女性の激情と安らぎが同居しているかのよう。またラーラ役のジュリー・クリスティーが金髪なのが良い。何故金髪が良いのかと言うと、ロシアの歴史上、金髪の女性とは類稀な存在であり、ロシア人の憧れだもあったからだ。ドストエフスキーの小説においても、メインの女性は大抵金髪であるのも、ロシア人の心を代弁しているのだろう。ジバゴの妻の黒髪に対比するかのようなラーラの金髪は、まさにジバゴが魅かれる要因でもあった筈だ。まさにここにも、一つの詩的な要素が見つけられる。その金髪であるラーラが、激動の時代に少女から大人の女となってジバゴを愛し、そして別れが訪れる。またもう一つの詩的な要因は、バラライカの音色だろう。ラーラから娘のトーニャに受け継がれたバラライカは、激動の中の安息を示すものであり、またそれは心を穏やかに保つ為の一つの重要な音でもあった。流れ去り懐かしいものとなったジバゴとラーラの愛は、娘であるトーニャの中で息づいているという、まさしく詩的な映画として撮影されたのでは無いかと、この年になって感じてしまう。
思わずバイオリンを手にして「ラーラのテーマ曲」を弾いてみた。このメロディラインはまさにロシアの哀愁、切なさを醸し出すもので、この「ドクトル・ジバゴ」には欠かせない曲であるのを、改めて認識した。恋を知って、少女から羽ばたき大人の世界へと踏み込み、そして愛を知って本当の大人の女性となつたラーラという女性は、帝政ロシアの末期から第一次世界大戦、ロシア革命とそれに続く内戦時代を背景に、時代に翻弄されながらも詩人としてのジバゴに結び付いて奏でられる名曲でもある。