昔、下関の下の丘に巨大な杉の木があって八幡様の祠があったのだと云う。
大きな杉の木の根元には、口のように割れた穴があり、大蛇が棲んでいたのだと。その大蛇は、家畜を襲ったり、油断をすると子供達をも襲っていたのだと云う。
或る時、親子の旅人が山根の荷渡から四日市、八田野、左野長根と街道を通る中、その旅人の子供が大蛇に飲み込まれてしまったそうである。それから土地の人々が、その子供を供養した場所を地蔵というようになったという事である。
そんな事から、土地の人々はその大蛇を倒す事になったのだと云う。まず六本角の石造りの牛を皮で包み着せ、青い笹竹を杉の根元の穴から石の牛に向かってトンネルを掘り、大蛇がそこを通るようにしたのだと。
土地の人々の先頭に立っていたのは、岩坊さんという人物で、毎日大蛇の様子を見ていたが、半月もした頃、杉の幹から呻く声が聞こえてきたという。可愛そうに思った岩坊さんは、お告げで掘り当てた石牛の山に向かって祈った。いつもなら月の見え始める筈なのに、風雨がたち、ついに大嵐となって、立てた青い笹も、一面に飛び散り残されていたのは、角の無い牛と大蛇の角一本であったという。
岩坊さんは、残された牛は東の山に返そうということにし、もう一つの牛を造り対にして、六角牛大権現の祠に祀った。流された大蛇は愛宕の下で石にのように硬くなって今も蒼前様にあるという。
大蛇の角は南部の殿様の宝物として小さな祠に祀られ、今でも少しづつ伸びているんだと噂されていたのだという。それがあって土地の人々は、山を六角牛山、その下の里を青笹、八幡様には、大蛇の大を付けて大八幡様と呼ぶようになったのだと。大蛇の大杉の根は、今でもその痕跡を大八幡様の裏に残しているのだと云う。