佐々木君の知人岩城某という人の祖母は、若い頃遠野の侍勘下氏
に乳母奉公に上っていた。
ある晩夜更けてから御子に乳を上げようと思ってエチコの傍へ行くと、
年ごろ三十前後に見える美しい女が、エチコの中の子供をつげつげと
見守っていた。
驚いて隣室に寝ていた主人夫婦を呼び起したが、その時には女の姿
は消えて見えなかったという。
この家では二、三代前の主人が下婢に通じて子供を産ませたことが
あったが、本妻の嫉妬がはげしくて、その女はとうとう毒殺されてしま
った。
女にはその前から夫があったが、この男までも奥方から憎まれて、
女房の代わりだからと言って無慈悲にこき使われたという。
岩城君の祖母が見たのは、多分殺されたこの下婢が怨んで出て来
た幽霊であろうと噂せられた。またある時などは、この人が雨戸を締
めに行くと、戸袋の側に例の女が坐っていたこともあったそうである。
「遠野物語拾遺169」
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この「遠野物語拾遺169」の話は、俗に云われる”産女”の定義とは少し違うようであるが、赤ん坊を産んだ女の…というよりも、母としての思いの深さが、こうした霊の話を伝えるのだと思う。
「奇異雑談」の下巻には「世俗曰く、懐妊不産して死せる者、そのまま野捨てにすれば、胎内の子死せずして野にて生まれるば、母の魂魄、形に化して子を抱き養うて夜歩く。その赤子の泣くを”うぶめ”啼くというなり。その形腰より下は血に浸かって力弱きなり。人もしこれに遭えば負うてたまはれと言うを、厭わずして負えば人を福祐になすと言い伝えたり云々」とある。
この産女の正体と云われるのは青鷺ではないか?という話がある。「梅村載筆」という本には「夜中に小児の泣き声のようなるものを、うぶめと名づくといえども、それをひそかに伺いしかば、青鷺なりと人語りき。」とあるように、夜中に赤ん坊の様に泣いて、女性のしなやかなラインを出す生物には、確かに鷺という鳥がいる。ただこの鷺とは別に、スッポンやサンショウウオもまた、赤ん坊の泣
き声に似ていると云われているようだが…自分は、聞いた事が無い。
とにかく、夜に赤ん坊の泣き声らしきが聞こえて、産女という妖怪が想像されたのかもしれない。
死んでから子供を産んだ話は、ギリシア神話にもある。オリュンポス山の麓にある、ラリッサの王の娘である美しいコロニスは、アポロンの寵愛を受けていた。だが、たまたまアポロンの使いのカラス
が偽りの報告をし、それに怒ったアポロンはコロニスを殺してしまうが、実はお腹の中にアポロンの子を宿していた。アポロンは、コロニスの死体から赤ん坊を取り出し、ケイロンという半人半馬族のケイロンに預けた。その後、その赤ん坊が医薬の神として知られるアスクレピオスとなった…という話。
また仏教世界にも墓の中で死んだ母親から生まれた赤ん坊が、死んだ母の乳を吸いながら7年間生き延び、その後立派な僧になった話がある。
ただ、このギリシア神話や仏教世界の話は、母親よりも生まれた赤ん坊に焦点を当てて伝えられているのに対し、あくまで産女の物語は陰鬱な妖怪の話となっており、死んだ母親の情念にスポットが当てられているのは、日本的?となれば、まだ産女に一番近い話は、吉祥天に関する話になるのだろう。吉祥天は生まれた時に、金の珠を貫いた環をしていた。この飾りは、吉祥天の魂と繋がっているもので、この飾りが外れると吉祥天は死んでしまうものであった。
吉祥天が、ある国の王子と結婚した時、その国の第一妃が吉祥天を妬み、密かに吉祥天の飾りを盗んでしまい、吉祥天は死んでしまう。しかし盗んだ本人が、その飾りを身に付けている間は吉祥天は死んでいるのだが、寝る時に、その飾りを外すと吉祥天は生き返ってしまう。その為、第一妃が寝ている間の夜に吉祥天は生き返るのだが、既に王子の子供を身篭っていた吉祥天は、死んでいる間に赤ん坊を出産してしまう。そして生き返る夜の間は、その赤ん坊を抱いて、夜の巷を歩き回っていたという話がインドに伝わっている。まあ最終的にこの話は、第一妃の策略は暴かれ、吉祥天の元に飾りは戻ってくるハッピーエンドとなるので、産女の陰鬱さとは違う話であるが、関連話として紹介しておこう。
話を「遠野物語拾遺169」に戻すが、出産しながら本妻の嫉妬により毒殺されてしまうというのは、かなりの怨みを持って死んだという事がわかる。また、子供に対する母親としての愛情も当然あったのだろう。まともに取れば、子供を残したまま死んでしまった心残りから、その情念がこの家に残って出てきた幽霊話となるのだろう…。
ただ、現実的に考えれば、江戸時代の殺人事件であっても、それが発覚すれば大抵の場合、その毒殺してしまった本妻は死罪となってしまう。しかし力を持っている侍であったのならば、その辺はもみ消す事も可能ではあったろうが…。
ところで「遠野物語拾遺169」の、侍である筈の勘下氏という人物を発見できない。勘下が名字なのか、名前なのかも、この記述ではハッキリしないので、勘下氏を特定できないのが現状だ。
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