先年土淵村の村内に葬式があった夜のことである。権蔵という男が村の者と
四、五人連れで念仏に行く途中、急にあっと言って道から小川を飛び越えた。
どうしたのかと皆が尋ねると、俺は今黒いものに突きのめされた。一体あれ
は誰だと言ったが、他の者の眼には何も見えなかったということである。
「遠野物語拾遺163」
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写真は大槌街道の夜に、車内で実験的に撮影した画像です。実は撮影している最中に、フト何かが横切ったような気がしてプレビューを見ると、何となくモヤがかった画像となっていた。またスローシャッターになったせいもあるのだが…。
そしてその後、やはり車内から立て続けに3枚ほど撮影した画像の1枚には何も…普通に撮影されていた。俗に「見える人」と「見えない人」というものが世の中に存在するという。つまり「見えない人」には、何かが目の前にいたとしても見えないわけだが、人間には五感というものがある。犬などはその五感の中の嗅覚と聴覚が発達しており、人間にとっては匂わないものや、遠く過ぎて聞こえないもの音をキャッチできる。
しかし人間には五感の他に、第六感…いわゆるシックスセンスといわれるものも身についている。何となくヤバイかも…とか、何となく嫌な気配を察知する能力は、漠然としながら感じる人も多いのだろう。その第六感が成せる業か、もしくは五感の中のどれかの感覚が見えないものを察知する事ができるのかもしれない。
この「遠野物語拾遺163」の話は、見えないながらも触れる事ができるもの。つまり感覚としては、透明人間だ。しかし透明人間というものが生きた人間であるのならば当然、気配というものを発しているだろうし、見えなくとも何となく感じる事ができるのだろう。この話に登場するものは当初、別の話に登場するノリコシみたいな影のようなものかとも考えていたが、あくまでもノリコシは視認できるが触れる事の出来ない影のようなもので、見えなくても触れる事が出来、写真にもその気配が写り込む事も可能なのだろう存在はあるかもしれないと、考えてしまった…。