近所の鶴という男の女房は、まだ年の若い女である。先日山に行って
自分の背よりも丈の高い萱の中を分けて行くと、不意に大熊に行逢っ
た。熊も驚いて棒立ちになったが、たちまち押しかかってきた。
何分人間の体よりもずっと大きな熊ではあり、他に仕方がないので、
その場に倒れたまま身動きもせずにいると、熊は静かに傍へ寄って来
て、手首や足首などを何度も握って見る。
それから乳房や腹まで次々と体のそこら中を探り、さらに呼吸をうか
がっている。女は今にも引裂かれるかと思って生きた心持も無かった
が、そのうちに熊は何と思ったか、女の体を抱いて沢の方へ投げ付け
た。それでもこの女は声を立てずにいると熊は始めて悠々と立ち去っ
たそうである。
これは昭和三年の九月十五日に、つい二、三日前の事だと言って話し
ていたのを聞いた。
「遠野物語拾遺209」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
熊の怪異というより、熊の恐怖は未だ遠野に蔓延している。遠野市民の中でも「山には熊がいるので行きたくない…。」という市民も多く存在するのが現状だ。しかし、個人的に言わせて貰えば、熊ほど臆病な生き物は無いと思っている。大抵の野生動物の場合、遭遇して逃げるそぶりは見せるが、一旦立ち止まり人間を観察しているようである。
人と遭遇して無我夢中に逃げる動物は、実は熊であるという事を大抵の人々は知らないものである。ただ春先の、子連れの熊だけは我が子を守る為に必死なので、本当に気を付けなければならないのは、春先の山に出没する熊だけなのだろう。ただ、ヒグマに関しては。。。
熊と遭遇して、歌を歌って助かった女性がいる。熊を目の前にし、直立不動で、「カラス何故鳴くの」など童謡を歌い終わったら、熊は黙って去っていったのだと。しかし、その歌声は、上手だったのか、そとも下手だったのかは謎である…(^^;
また、熊に対して優しく話しかけて助かったという婆様もまた遠野には存在した。とにかく慌てず騒がず、落ち着いて対処できば、熊というものは、そんなに人を襲うものでは無いと思う。過去に、遠野で熊の被害になり死亡した人がいたが、あれは猟師に追い詰められた熊が、逃げている前方を塞ぐようにいた人間を無我夢中で襲ったものだと云われている。
ところでこの「遠野物語拾遺209」で紹介された、似たような体験をした男性がいる。やはり熊と遭遇した時に、死んだふりをしたそうな。すると熊が寄ってきてクンクンと匂いを嗅いだその後、前足でその人物の体を転がすようにしたという。そして犬が甘噛みするように、その熊もその人物の手足を甘噛みするようにしたのだと。痛かったそうだが、そこで大きい声を出せば危ないと思い、声を出すのを必死で堪えていたら、その熊は飽きてしまったのか、その人物の元から立ち去っていったという。
ちなみに去年は、まだ雪の残る3月の山に、熊の足跡が確認されている。去年より雪も少なく暖かな今年は、さてどうだろう。。。