
遠野には安倍貞任伝説が、かなり存在する。故鈴木久介氏は、北東北の蝦夷の為、中央権力と戦って滅ぼされた安倍一族への讃仰と哀憐の現われから、遠野の人々は滅亡後も安倍一族を遠野に住まわせ、起き伏しを共にし、運命を共有したかったのである…と語ってはいたが、実際はどうなのであろう?
安倍貞任は、日高見の国の勇者というイメージだ。日ノ元将軍という呼び方もある。多賀城以北を日高見と言い、遠野はキタガメとも呼ばれたが実は、日高見(ヒダカミ)の転訛でキタガメとなったという。少々苦しい転訛であるが…となれば、この遠野の地にも当然安倍貞任の伝説が根付くのは当然で、もしかして事実として、遠野に安倍貞任が行き来していたのである可能性はある。
河童淵の東に、安倍貞任の末裔であるという、安部家歴代の墓石が連立する区画がある。墓碑銘は磨耗して読み取る事はできないが、家格は感じる。安部家は、江戸時代には安倍姓の肝煎り役を代々務めていたのだという。某氏は、阿部家は館屋敷であり、安倍頼時の六男、北浦六郎重任の屋敷であったという説を唱えた。

また綾織町の胡四王屋号の阿部家も、遠祖を安倍頼時の四男正任としている。写真は胡四王の地に埋められていて発見された、阿部家に伝わる秘仏である阿弥陀如来の仏像。胡四王といえば、綾織の阿部家は元々、小友は土室の胡四王という土地から移り住んだという。そう、小友にも安倍貞任の伝説は多い。それと共に胡四王そのものが物部氏との深いかかわりを示すものだ。
阿部家が住む綾織には石神神社があるが、この石上神社には物部氏の匂いが色濃くでている。また物部氏との結び付きを感じる奥州藤原氏には、切実なる安倍の血を望む行動があった。二代目藤原基衡の正室は安倍貞任の弟、宗任の娘である。この婚姻には、清衡の意思が大きく働いている。宗任は敗戦の為大宰府まで娘ともども流されたのだが、清衡は、その宗任の娘をわざわざ太宰府まで迎えに行って、息子である基衡の嫁としている。そこまでさせる安倍の血とは…。

安倍の血を調べるにおいて、必ず出てくるのが胡四王神社だ。胡四王神社は、北に向けられて建立しているのが特徴だ。一般的には、朝廷側の北方鎮護の意味合いであろうという事だ。ただ「北天の魁」の著者菊池敬一氏は胡四王神社について、こう語っている。
「胡四王神社は征服者と征服された者の関係を現した神社だと。花巻市の胡四王神社を見ればわかる。蝦夷を征伐した田村麻呂が建てたというが、北向きに建てられている。殺されて、追われて北へ逃げた蝦夷達が拝む為に建てられているんだ。そうでなかったら、国を守る四天王を祀る神社だから、南から来た征服者達が拝む為には、南向きに建てるべきだと思うがな。」と…。
例えば、早池峰神社は、その御神体そのものが早池峰山である為、本殿は南を向き、参拝する場合は本殿と共、その後ろに聳える早池峰山をも拝むという形になる。つまり北向きに建てられているという事は、背後の南を拝むという事にならないだろうか?
秋田市の胡四王神社は「日本書紀」の斉明天皇4年4月に安倍比羅不の蝦夷征伐の時に、齶田の蝦夷の恩荷が官軍に降服し、その際恩荷の誓った「齶田浦神」は蝦夷の信仰対象として秋田城遷置以前から存在したという。この在地の神が胡四王神社ではないかという事である。さらに現在の北陸、新潟地方の「越」の在来神が日本海沿岸地域で広く信仰され、北進して出羽の国に及んだものとして、胡四王は「高志王」「越王」に通ずるとも云う。その後、秋田城が遷置され、場内に四天王寺が置かれると、それが結びついたのではという事らしい。
天長7年に秋田城の付近で大地震が発生し、四天王寺と四王堂舎などが倒壊したとある。ただ四天王寺よりも古くに四王堂舎があったとされ、この四王堂舎には、蝦夷の信棒する神、もしくは越の国の在地神が祀られており、この地震の後に結びつき、性格を複雑怪奇にしたのだろう。つまり四王堂舎は元々齶田浦神の後身で、安倍氏との関係で越の国の神である越王と結合し胡四王となったようだ。
齶田浦神は秋田城内で祀られる以前は、男鹿の赤神神社に祀られていたようで、この赤神神社は安倍貞任をはじめとする、その子孫と称する安藤水軍で有名な安藤氏が崇拝保護を加えてきた歴史が16世紀半ばまで続いていたそうである。
また、この齶田浦神を祀っていた赤神神社には、奥州藤原氏が三代に渡って寄進してきたという歴史もある。これから齶田浦神というのは、安倍氏の先祖を祀ってきた神社であり、それけが後に胡四王神社へと移行したものであるようだ。
では、胡四王神社の北向きの造りをどう捉えるかだが、齶田浦神と四天王が結びついた事を考えると、南に位置する朝廷との結合を蝦夷に訴える為では無かったのか?北の鎮護と考えれば、南向きで後ろにいる筈の蝦夷を睨むという形の方が無難だ。また菊池敬一氏の考えの通りなら、北へ逃げた蝦夷達が拝むというのなら、一緒に朝廷側も拝んでしまうというパラドックスに陥る。ここは懐柔策としての、朝廷と蝦夷の統合を現しての北向きの造りではと考える。
(注) この文章は、以前に書き綴っているもので、現在の考え方とは違っている事をご了承ください。