
白という感じの意味は広く、これを「皓」と「素」にわけてみる。「皓」は、自然界の雲や雪。さらに霜・水などから発想された、白い色らしい。皓月や皓雪というのは「白く光って明らか」という意味で光沢のある白と思えばいい。
そして「素」は、楮などの木の皮を川の流れや雪の上で晒して白くした素糸とか、素絹とか、本来の地の色の白く美しい表現に使うものとされるようだ。つまり素肌という表現は、本来白くて美しいものとなるのだが…「皓」「素」どちらにしろ、いずれも清潔、潔白、高貴、などのイメージがつきまとうものだと思う。

そして民族学的に白色は、生と死を現す色である。死んだ時の死に装束とか、婚姻の時に纏う白無垢の花嫁衣裳。また産室の壁は、白であったという。「紫式部日記」に中宮彰子の出産に際して「白き御帳にうつらせ給ふ」と、白い産室に入った事が記せられている。また「増鏡」では、中宮佶子の出産の描写に…。
「その御けしきあれば、殿の内たちさはぐ。白き
御装ひにあらためて、母屋に移らせ給ほど。」
この時代の産室とは実際、十二畳の座敷に北が上座であったそうだ。そして畳のへりには白布が使われ、襖、障子、などは全て白い紙で統一されていたという。元々白は浄化作用もあるので、新たなる生命が誕生する場合、白い壁に囲まれた部屋でお産するというのは当然だったらしい。また自然界でも、白い雪が大地を覆って浄化し、そして春が到来し、新たなる生命が宿るという図式がある。生と死の両方に白が登場するというのは、白という色に純粋さと神秘性を感じたのかもしれない。当然、自然の発する白色に影響されてだと思う。

神には、慈愛と憤怒というものと、ご利益と祟りという二面性がある。実は色も、赤と白は神の色であると思う。赤考で、赤は炎や血であり、神が悪しきものを倒す憤怒に近いものだと書き込んだが、白は神のまた違った側面。慈愛とご利益であると思う。
白い獣を何故崇めるのかというと、神のご利益を期待してなのだと考える。だから白い獣は、犯すべからずただ崇めるのみなのだと。白雉元年(650年)の白い雉とは、やはりその年に白い雉が発見され、その年を祝う気持ちで付けられた年号であった。

山に霧がかかるという表現は、黒雲が広がる表現の対比になっていると思う。黒の項で述べたように、黒雲は闇を現すが、白い霧は神がかり的だ。
「遠野物語」に登場するマヨヒガなどは、必ず白い霧が山中にかかるというもの。これは神が近寄ってきたものだと考えてよい。マヨヒガの話では、山中に立派な建物が現れるが、初めに登場するのは黒門だ。とにかく黒は闇を現し、黄泉の国という現世ではありえないものの表現の一つなのだろう。そこに導くのはやはり白い霧。白い霧で思い浮かべるのが、八咫烏の登場シーンだ。神武東征の際、タカミムスビによって神武天皇の元に遣わされ、霧によって視界が悪くなった熊野から大和への道案内をしたとされる三本足の鴉。カラスは、太陽の黒点としての意味もあるという。
また白色は、太陽の光としての意味もある。この日本神話での八咫烏の登場は、太陽そのものを現しているのだと思う。白い光に包まれるのと、白い霧に包まれるのは、太陽の光に包まれると同じもの。太陽が、神そのものであるなら、その光と色もまた太陽そのもの。朝日と夕日の太陽は赤いが、それ以外の太陽の色は白である。ここでも神としての太陽にも、二面性がある事がわかる。

「遠野物語」において印象的なのは、白い馬だ。オシラサマにも登場する白い馬。また無尽和尚が雨乞いの時にも早池峰から白い馬に乗った女神が登場した。そして聖地トンノミにおいても、葦毛馬にまたがった貴婦人が登場している。
馬の最高位は龍であり、馬そのものは龍に繋がるものだ。その馬が葦毛の白ならば、これは神に仕える馬と思って良い。だからこそ、雨乞いの時に白い馬に乗った早池峰の女神が登場したものだと思う。白といえば、遠野にはマヨヒガで有名な白望山というのがある。この語源を、あれこれアイヌ語から見出そうとしている人が多いのだが、単純に白山信仰から命名された山なのではではないか?と、自分は思っている。
元々マヨヒガ伝説には、秦氏の影がチラつく。白山信仰にも、その影はあると云う。白山には菊理姫が祀られているが、実はその背景に瀬織津姫がいるという。瀬織津姫といえば、早池峰大神でもある。無尽和尚の話や、トンノミの話にも白馬に乗った女神に出てくるのも、瀬織津姫である。つまり神がかり的な白色が遠野で現れるのは、白山信仰の影響から、早池峰大神に繋がる白い獣や、マヨヒガに現れる白い霧などは全て、瀬織津姫に結ぶ付くものでは?と遠野的に考えてしまう。