他の人々に迷惑をかけたくない豊雄は、真女児に自らを委ねようと決心するが富子の父の庄司は、最期の頼みの綱を道成寺の法海和尚の力に託そうとする。馬で駆けつけた庄司に対し、法海和尚は芥子の香の染みた袈裟を庄司に与える。
芥子は昔、加持祈祷の際に護摩壇で焚かれたといい、息災・降伏などの功徳があったとされる。とにかく魔を降伏させる力が芥子にはあったとされたようだ。庄司は喜び勇んで、豊雄の元へと戻り、その芥子の香が染みた袈裟を真女児に被せて押さえ込む事にした。
「庄司今はいとまたびぬ。いざたまへ、出で立ちなん」
と、豊雄は真女児を騙すが、その豊雄の言葉に真女児は嬉しそうにするが、その後に袈裟を被せられて押さえつけられてしまうのが、とても憐れに感じてしまう…。
「あな苦し。汝何とてかく情なきぞ。しばしここ放せよかし」
純愛を貫き通す真女児に対し、人を一人殺めた真女児を非常なまでに押さえ込む豊雄…。
魔物との純愛で思い出すのは「牡丹灯篭」だ。新三郎は寺子屋の子供達や、長屋の人々を思い生きようと決めたが、部屋の周りに貼ってあるお札に、お露は悲痛な悲しみを見せる。
最終的には、第三者の手によってお札は剥がされるのだが、新三郎は魔物である、お露と結ばれる事を決意する。つまり、心の中にお露を求める新三郎の姿があったからだ。
しかし、この「蛇性の淫」は、真女児に対する心の揺らぎは微塵にも感じない。「日本霊異記」での狐と結ばれた男は、契りを結び狐という正体がばれても尚、狐に対したまに戻ってくれば良いと言ったが、同じく契りを持った仲でありながら豊雄は真女児に対し、完全に非常になり切っている。
この非常さによって、この「蛇性の淫」は、魔物と人間の純愛ものにはならず、安珍・清姫伝説の安珍と同じく、ただ蛇となった真女児を恐れる豊雄の姿だけであった。
ただ焼き殺され非業の最期遂げる安珍はその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼み、住持の唱える法華経の功徳にって二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れたのだが、それすらも無いのが「蛇性の淫」だ。
豊雄を退けて、かの袈裟とりて見給へば、富子は現なく伏し
たる上に、白き虵の三尺あまりなる、蟠りて動だもせずてぞ
ある。老和尚これを捉へて、徒弟が捧げたる鉄鉢に納れ給ふ。
猶、念じ給へば、屏風の背より、尺ばかりの小蛇はひ出るを、
是をも捉りて鉢に納れ給ひ、かの袈裟をもてよく封じ給ひ、
そがままに輿に乗せ給へば、人々掌をあはせ、涙を流して敬
まひ奉る。
真女児の退治の描写であるけど、法師を殺した時は三尺の口だったが、ここで芥子の香が染みこんだ袈裟を被せた後に、その袈裟を取って見ると三尺の白蛇がとぐろを巻いていた。原話となったらしい「白娘子」では「原型ニ複了シテ、三尺ノ長キ一条ノ白蛇ニ変了ス。」とあるようだ。つまりこれが
元々の真女児の正体であるのがわかる。
その真女児である白蛇を、法海和尚は鉄鉢に入れるのだが、鉢で思い出すのは「御伽草子」の「鉢かづき姫」の話だ。鉢かづき姫の母は、姫を時が至るまで穢れから守り、清浄さを保つ意味と同時に、観音の功徳によって身の安全を守るという意味合いを込めて被せた鉢は呪術の証だ。語源は、サン
スクリット語のパートラから来ているらしく、その漢字訳の原型は「鉢多羅」らしい。
元々鉢は、神霊を宿す呪物であり、その霊力によって魔を除けたり、強靭な生命力を与える役割をする道具である。昔話では、割れた鉢から金銀財宝や婚礼衣装が出てくる話もあるので、異界とも繋がっていると思われたふしもある。こういう意味があるからこそ、真女児の体を鉄鉢に納めたのだろう。そういえば、真女児と豊雄じゃないけれど、求愛と拒絶で思い出すのは、ギリシア神話での「ダフネ」の話。
エロスがアポロンに対して黄金の矢を放ち、ダフネという女性には鉛の矢を放ったエロス。黄金の矢を受けた者は、永遠にその対象を愛し続け、鉛の矢を受けた者は永遠にその対象を拒絶し続ける…。
無理やりごじつけるなら、この「蛇性の淫」でのエロスは吉野で登場した、翁なのだろう。真女児の正体を見破り、その様を豊雄に示して、永遠の拒絶を豊雄の心に刻みつけた。また、その障害によりますます豊雄を求める真女児は、黄金の矢を放たれたアポロンのようでもある。結末こそ違うけれど、求愛と拒絶として考えると、どうしても「ダフネ」の話が、脳裏を過ぎってしまう…。
思うに、魔物と人間とに発生する愛とは、求愛と拒絶から成り立っているのかもしれない。バランスが保たれた時にそれは実るのだが、そのバランスが崩れれば、永遠に結ばれる事の無い「求愛」と「拒絶」が繰り返されるのかもしれない。
大和の石榴市で、豊雄と真女児が再会するのだけれど、石榴市は、初瀬の地でもある。「こもくりの初瀬」とも呼ばれる地には、また違った意味もあるのだろうと調べてみた…。
「万葉集」に「こもりくの泊瀬の国…。」などと書かれているのだけど、初瀬の地は川船が停泊する瀬であるようだ。また「隠国(こもりく)」の初瀬とは、初瀬川を遡る時、両岸の山々が次第に狭まって袋小路のように尽きる場所を意味するようです。「隠国」は「篭る」に通じる言葉で、狭い場所を示すよう。「はつせ」という音も「果つる(はつる)」所の狭い渓谷を現すようですだ。つまり「こもりく」は「初瀬」にかかる枕詞?
実は聖徳太子も八角形の夢殿に篭って金人(仏)と会ったとされる逸話などから「篭る」というものは「暗い」「狭い」を現す場所で「胎内」「洞穴」を示し、そこに現れる観音などと出会う場所という意味もあるよう。「長谷寺霊験記」というのがあって、長谷観音そのものが女性へと変化したと記されているようだ。
また聖徳太子と同じように、親鸞が六角堂に篭っての夢のお告げでは、救世観音が女性となって現れ交わろうというもの。篭る狭い空間は、元々胎内を現して女性を意味するもので、「こもりく初瀬」で男がそこで出会うのは、やはり女性であり、それは観音様の化身でもあるという…。
更に「隠国泊瀬」を調べると「日本書紀」において倭姫が天照大神を祀る地として伊勢を見出したのだが、実はその前に磯城(しき)という地で祀り、その後に伊勢へと遷したとあるが、この「磯城」が「初瀬の地」なのだと。つまり「初瀬の地」は、古来から聖なる地であり、神々しさが溢れる地でもあるという事。
この地で、豊雄は真女児と再会したというのは、秋成の皮肉の成せる業?それとも、観音になれる可能性の真女児を人間である豊雄が魔物に変えてしまったのだろうか?
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