>下総の国葛餝郡真間の郷に、勝四郎といふ男ありけり。
出だしのこの文から、既にラストの真間の手児名の伝説に結び付くのだぞと言っているかのようである。ところで、ある者はこの「浅茅が宿」を「遠野物語」に登場する、山中に現れるマヨヒガの如しと言う。しかし、あくまでこの「浅茅が宿」は「マヨヒガ」の後に裕福になる話とは違い、暗く悲しい。
上田秋成の晩年に書かれた「目ひとつの神」は、秋成自らが片目を失って書かれた本でありながら、どこか明るさを醸し出している。しかし「雨月物語」の「浅茅が宿」を含む全般の雰囲気は陰に篭った暗さが滲み出ている。つまり、片目を失って「目ひとつの神」を書くという上田秋成という存在は、作品にその時の感情や事象などが投影されているものと考える。
「菊花の約」では約束を遂げる為に自害し、魂だけを運ぶ姿がそこにあった。しかしあくまでも魂だけの存在であった為、その姿は儚く消えてしまい、残ったのは悲しみだけとなる。
また「浅茅が宿」でも、霊体となった妻の姿と一夜を過ごすが、夜明けに残ったのは、儚さだけだった。この時期、上田秋成は医学を学び、医者としても生きていた。その当時の医療は、現代医療と比較すれば、民間医療に毛の生えた程度だったと想像できる。つまり、より多くの人の死に接してきたのではないだろうか?医者としてできるのは、薬の調合と、せめてもの希望の持てる慰みの言葉だけ。医者としての仕事に付随する、人々の生き死に。目の前に繰り返される人々の儚い生き様が作品に投影されたのが「雨月物語」ではないだろうか?
ところで、この「浅茅が宿」を読んでいると違和感を覚える。勝四郎の身勝手さにより、愛妻である宮木を失っている悲しみに、何故か強引に「手児名」を結び付けている感がしてならない。
【万葉集】
「人みなの言は絶ゆとも埴科の石井が手児が言な絶えそね」
「東路の手児の呼坂越えかねて山にか寝むやどりはなしに」
と、手児とは男に愛嬌よくする女であって、旅人を泊めるように云わば、遊び女が「手児」であったようだ。何故に貞淑である「宮木」と、遊び女である「手児名」を結び付けようとしているのだろうか?以前「宮木が塚」をした時、やはり「浅茅が宿」と「宮木が塚」で、何故に”宮木”という女性が登場するのか?とやった。
時代的には「春雨物語」よりも「雨月物語」の方が古い。しかし、「雨月物語」の「浅茅が宿」に登場する宮木は貞淑の鏡のような女性であるのに、「春雨物語」の「宮木が塚」での宮木は遊女であった。しかし、これを結び付けるのは「手児名」という存在になってしまう。つまり「雨月物語(浅茅が宿)」はある意味「春雨物語(宮木が塚)」の序章とも捉えられる可能性はあると思う。また、それと共に、上田秋成の”宮木”という女性に対する想いがあるような気がしてならない。。。。
ところで遊女の歴史を調べると、白太夫やら、歩き巫女やら、傀儡女と、似たような存在がいる事がわかる。遊女は体を売ったのだが、遊女と同じく、歩き巫女もまた体を売ったと伝えられる。しかし、日常の夫婦間の性行為と違って、不特定の人との性行為は、非日常の「ハレ」だという概念があるようだ。つまり、歩き巫女との性行為とは「神婚」であり「聖婚」であったのだと。
笑い話に、女性の女陰に向って手を合わせ「菩薩様」と拝むのと、同じ感覚である。実際、浄土宗の親鸞は、夢の中で救世観音(救世菩薩)の化身と交わる内容を許す夢を見たとされる。つまりこの「聖婚」「神婚」の具現化は、神に仕える巫女との交わりであったのだと思われる。
歩き巫女は旅の途中、峠などの宿で頼まれて、旅人と交わったという。これは何も、男の欲望のままというわけではなく、先に記した「聖婚」「神婚」という意味があったらしい。遊女や歩き巫女と同じく、傀儡女がいた。この傀儡女を称して、下記のように称したのだと。
「女は愁い顔で泣く真似をし、腰を振って歩き、虫歯が痛い
ような 笑いを装い、歌をうたい、淫らな音楽をもって、妖
媚を求める。 父母や夫や聟は、彼女らがしばしば行きずり
の旅人と、一夜の契 りを結んでも、それを構わない。身を
売って富んでいるので、金 繍の服・錦の衣・金の簪・鈿の
箱を持っているから、これらのも のを贈られても、異にせ
ず収める。」
傀儡子ではあるが、女は傀儡女とも呼ばれ、どちらかというと遊女という扱いを受けているが、遊女と傀儡女の違いは歌にあるようだ。遊女の条件は美声で美女であるのだが、傀儡女の場合は、歌が上手で美声である事のようだ。「更級日記」では傀儡女の歌を称して…。
「声すべる似るものなく、空に澄み昇りて、めでたく歌をうたふ。」
「声さへ似るものなく歌ひて、さばかり怖ろしげなる山中に立ちゆ
くを、 人々あかず思ひて皆泣くを、幼きここちには、まして此の
やどりを立 たむ事さへ飽かずおぼゆ。」
この「更級日記」の記述から読み取ればつまり、本来の傀儡女とは、歌女なのだろう。それも、西洋の船人を惑わすセイレーン、もしくはローレライのような歌の力を持った存在に等しかったのだと思う。つまり傀儡女もまた”聖なる存在”であったのだと考える。