遠野の観光地としての山口部落とは、柳田國男に遠野の話を伝えた佐々木喜善の住んでいた地である。そしてデンデラ野と水車小屋には、年間多くの観光客が訪れる。この山口部落を、深く掘り下げて紹介してみたい。
山口という地名の大抵は、山の入り口を表わす。それは山が御神体であり、その山の信仰を里に降ろした里宮信仰から発生した地名の場合が多い。その山の信仰も水分神という水の神様の信仰から始まっている。水を司る神というものは山の分水嶺にいるものだという、自然信仰になる。
この山口部落から、東に聳える貞任山を越えると沿岸地区になる。古来から峠として人の往来が多い場所であった。山の入り口であり、峠の入り口が、この山口部落であった。広瀬大忌祭の祝詞には「如此奉らば、皇神等の敷き坐す山山の口より、狭久那多利に下し賜ふ水を、甘き水と受けて、天下の公民の取作れる奥都御歳を、悪しき風・荒き水に相はせ賜はず、汝命の成し幸へ賜はば…。」とあり、山口には水に関係する信仰が根付いている。
実際に、山口部落の入り口には大洞という地があり、ここには大洞明神と呼ばれる一本桜が鎮座している。これは山の頂に鎮座する水の神を里に降ろして、里宮とし
ての証として植えた山桜であった。
また山口部落から西を望むとデンデラ野といわれる地の小高い山が見える。この山の頂にも金毘羅の石碑が置かれている。古来は沢が流れていたので、金毘羅の石碑が置かれたのだと言う。ただしこの金毘羅の石碑のある地は、縄文の遺跡も発掘されている事から、縄文人が住んでいたのだろう。こうして考えてみると、現在の山口の集落は大きな河が流れていたか、湿地帯であつたのだと理解できる。また縄文の遺跡といえば、水車小屋から南の方へ行くと、やはり縄文の遺跡が発掘された地があり、今ではそこにホウリョウ神(飛龍神)が鎮座しているのも、水に対する信仰からだろう。
山口部落の大洞に鎮座する山桜の木を”大洞大明神”と書き記しましたが、実際の大洞大明神は山に登ったところに池があり、その池の水を穢すと祟りがあると云われていた地だった。実際に某人物が、その池のの傍にある木を切り倒し、その後に弁当を食べた残りの魚の骨を池に捨ててから池の水を飲んだところ、死んだそうな。
また切られた木も、山桜の木であったと云われています。つまり大洞大明神とは水神系であると思われ、たぶん遠野の各地に広まる”沼の御前”では無かったか?と
思ってしまう。その大洞大明神の分霊としての山桜を、現在の地に持ち寄ったのだろう。桜には死の匂いがするが、この山桜の木の下には死して尚、魂は再び巡り合うなどという伝承も語られるのは、桜の木の本質からくるものだと思う。