現在、某家で祀られている熊野堂だが、以前は北川家で祀られていたようだ。「遠野物語拾遺232」にも登場する熊野堂でもあり、地元からは
「くまんどう」と呼ばれている。
建立時期は定かでは無いのだが、ここを祀っていた羽黒修験の山伏であった北川家が、土淵の五日町から和野へ別家として来たのが寛永十六年(1639)であるから、それ以降の事になるのだろう。
現在のお堂は、平成17年に新たに建立されたものだが、堂内に並ぶ、いくつかの木彫りの像に関する由来は定かではない。中央には不動明王を祀ってはいるが、本来は中央に鎮座する仏像は違うものだったのだろう。平成20年の地震で、仏像が倒れ、それ以前とは違う配置になっているが、更に遡れば、地震毎に仏像が倒れ、また由来も北川家から某家に移った事から、本来中央に鎮座する仏像がわからなくなったのかもしれない。
また熊野本来の姿に、このように雑多に仏像を並べる事が無い為、この仏像はあちこちから集められて並んだに過ぎないものと思われる。
またこの熊野堂が祀ってある山自体も「くまんどう」と呼ばれ、その入り口には北川家の墓所(写真左側の唐松林に囲まれた中)があり、この墓所脇を通って熊野堂へ行くというのは、北川家の一つの聖地である意味合いもあったのだろう。
熊野修験と羽黒修験の関係は密接で、仁徳天皇、もしくは応神天皇の皇子が羽黒に流されたという伝説もあり、古くから羽黒は開けていたのだろう。
羽黒修験の開祖は蜂子皇子と云われており、崇峻天皇の息子でもあり、聖徳太子の従兄弟でもあった。この蜂子皇子が政権争いの難を逃れ羽黒へ来、三本足の烏に導かれ羽黒山へ入ったのだという。つまり、蜂子皇子を羽黒に逃したのは熊野修験の誰かであり、元から熊野との繋がりは深かったのだろう。そして同系列である為、西日本が熊野を中心に信仰が広まり、東日本は羽黒を中心に信仰の広がりをみせたのだと思う。なので羽黒修験の山伏が建立しても、羽黒堂ではなく熊野堂となっているのは、熊野と羽黒の繋がりを示すものだろう。