遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
カテゴリ
全体
民宿御伽屋HP
御伽屋・幻想ガイド
遠野体験記
民宿御伽屋情報
遠野三山関連神社
遠野不思議(山)
遠野不思議(伝説)
遠野不思議(伝説の地)
遠野不思議(遺跡)
遠野不思議(神仏像)
遠野不思議(石)
遠野不思議(石碑)
遠野不思議(追分の碑)
遠野不思議(史跡)
遠野不思議(樹木)
遠野不思議(桜)
遠野各地の滝
遠野の鍾乳洞
遠野不思議(自然)
遠野八景&十景
遠野不思議(オブジェ)
遠野不思議(その他)
遠野各地の河童淵
遠野各地の狐の関所
遠野各地のデンデラ野
遠野各地の水車小屋
遠野各地の不地震地帯&要石
遠野各地の賽の河原
遠野各地の乳神様
遠野不思議(淵)
遠野各地の沼の御前
遠野各地のハヤリ神
遠野の義経&弁慶伝説
遠野の坂上田村麻呂伝説
遠野の安部貞任伝説
遠野不思議(寺院)
遠野七観音
遠野各地の八幡神社
遠野各地の熊野神社
遠野各地の愛宕神社
遠野各地の稲荷神社
遠野各地の駒形神社
遠野各地の山神神社
遠野各地の不動尊
遠野各地の白龍神社
遠野各地の神社(その他)
遠野の妖怪関係
遠野怪奇場所
遠野で遭遇する生物
遠野の野鳥
遠野のわらべ唄
民俗学雑記
遠野情報(雑記帳)
観光案内(綾織偏)
観光案内(小友編)
金子氏幻想作品
「遠野物語考」1話~
「遠野物語考」10話~
「遠野物語考」20話~
「遠野物語考」30話~
「遠野物語考」40話~
「遠野物語考」50話~
「遠野物語考」60話~
「遠野物語考」70話~
「遠野物語考」80話~
「遠野物語考」90話~
「遠野物語考」100話~
「遠野物語考」110話~
「遠野物語拾遺考」1話~
「遠野物語拾遺考」10話~
「遠野物語拾遺考」20話~
「遠野物語拾遺考」30話~
「遠野物語拾遺考」40話~
「遠野物語拾遺考」50話~
「遠野物語拾遺考」60話~
「遠野物語拾遺考」70話~
「遠野物語拾遺考」80話~
「遠野物語拾遺考」90話~
「遠野物語拾遺考」100話~
「遠野物語拾遺考」110話~
「遠野物語拾遺考」120話~
「遠野物語拾遺考」130話~
「遠野物語拾遺考」140話~
「遠野物語拾遺考」150話~
「遠野物語拾遺考」160話~
「遠野物語拾遺考」170話~
「遠野物語拾遺考」180話~
「遠野物語拾遺考」190話~
「遠野物語拾遺考」200話~
「遠野物語拾遺考」210話~
「遠野物語拾遺考」220話~
「遠野物語拾遺考」230話~
「遠野物語拾遺考」240話~
「遠野物語拾遺考」250話~
「遠野物語拾遺考」260話~
「遠野物語拾遺考」270話~
「遠野物語拾遺考」280話~
「遠野物語拾遺考」290話~
「現代遠野物語」1話~
「現代遠野物語」10話~
「現代遠野物語」20話~
「現代遠野物語」30話~
「現代遠野物語」40話~
「現代遠野物語」50話~
「現代遠野物語」60話~
「現代遠野物語」70話~
「現代遠野物語」80話~
「現代遠野物語」90話~
「現代遠野物語」100話~
「現代遠野物語」110話~
「遠野妖怪談」
「闇・遠野物語」
遠野小学校トイレの花子さん
遠野小学校松川姫の怪
遠野小学校の座敷ワラシ
遠野高校の河童の手
菊池氏考
佐々木氏考
クワガタと遠野の自然
安倍氏考
阿曽沼の野望
遠野・語源考
河童狛犬考
飛鳥田考
遠野色彩考
遠野地名考
ゴンゲンサマ考
五百羅漢考
続石考
早池峯考
七つ森考
六角牛考
羽黒への道
動物考
月の考
「トイウモノ」考
小松長者の埋蔵金
遠野七観音考
鯰と地震
三女神伝説考
早池峯遥拝所
河童と瀬織津比咩
狐と瀬織津比咩
勾玉の女神
橋姫と瀬織津比咩
平将門と瀬織津比咩
狼と瀬織津比咩
鈴鹿権現と瀬織津比咩
冥界との縁結び
母子信仰と速佐須良比賣
七夕と白鳥
来内の違和感
瀬織津比咩(イタリア便り)
水神と日の御子
年越しの祓の女神
「七瀬と八瀬」
鉄の蛇
荒御魂
閉伊氏の正体
早瀬川と白幡神社
瀬織津比咩雑記
岩手県の瀬織津比咩
古典の世界
「宮木が塚」
「蛇性の淫」
「白峰」
「吉備津の釜」
「菊花の約」
「青頭巾」
「浅茅が宿」
「徒然草」
「源氏物語」
「枕草子」
わたしの怪奇体験談
よもつ文
遠野の自然(春)
遠野の自然(夏)
遠野の自然(秋)
遠野の自然(冬)
遠野の夜空
以前の記事
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 11月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
お気に入りブログ
パチンコ屋の倒産を応援す...
ゲ ジ デ ジ 通 信
絵本 宮古物語
民宿御伽屋
不思議空間「遠野」別館
ひもろぎ逍遥
jun-roadster
リティママ の日々徒然
世に倦む日日
なんでもブログ
外部リンク
最新のコメント
語源は朝鮮人由来で間違い..
by ほげぇ at 22:07
横山不動尊のある大徳寺は..
by 鬼喜來のさっと at 21:26
大阪交野市の星田妙見さん..
by mars at 18:41
今日は突然の電話申し訳あ..
by 鬼喜來のさっと at 20:22
記事が大変興味深く拝読さ..
by 陽啓 at 01:17
古い記事なのですが、写真..
by 鬼喜來のさっと at 18:26
気仙川河口の鮭漁争いで、..
by 鬼喜來のさっと at 09:12
私は学校の校庭などでやり..
by 鬼喜來のさっと at 17:32
この釘刺しについては私も..
by 鬼喜來のさっと at 17:24
このカマコヤキと同じ行事..
by 鬼喜來のさっと at 17:03
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


「冥界との縁結び(其の八)」

f0075075_18110993.jpg
上郷村に河だちのうちと云う家あり。早瀬川の岸に在り。 此家の若き娘、ある日河原に出てゝ石を拾ひてありしに、 見馴れぬ男来り、木の葉とか何とかを娘にくれたり。又高く面朱のやうなる人なり。娘は此日より占いの術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりと云へり。

                      「遠野物語107話」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この「遠野物語107」に登場する娘は、上郷町では、地域を救った朝日巫女として称えられている。上郷町岩崎の岩船に、花崗岩で出来た朝日巫女の古碑が、上に掲載した画像である。現在は、刻まれた文字もすっかり摩耗し、知らぬ人にとっては単なる自然石の塊にしか見えない。ところで、「上郷聞書」に記されている朝日巫女の霊力の凄さを示す内容の一部は、下記の通りとなる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宝冶元年(1247)6月「白鬚の大水」と後年言われた大洪水が数日続き、早瀬川は氾濫して平の原部落、平倉部落の家も耕地も今にも呑み込まれそうな危険な状態となっていた。その時、朝日巫女は岩舟の岩上に立ち、呪文を唱えて扇子を以って岩舟の岩石の方に濁流を導き寄せ、現在の川筋に変えたと云われる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
稲荷様の縁日に大雨と強い風の日に行方不明となったが、7年後にやはり大雨で強い風の日に朝日巫女は帰って来たとある。気になるのは、朝日巫女が大雨と結び付く事を強調して紹介している事だ。「冥界との縁結び(其の一)」に、小松和彦「異人論」の話を書いた。全国に広がる伝説には、事実を隠し美談に変換されているものが多いと紹介した。そこに隠されるものは、聖人殺し。人柱は、最終的には神に捧げる贄としてのものである。それは、一つの呪術でもあるのだ。永仁元年(1293年)天武天皇陵が暴かれ、天武天皇の髑髏が盗まれた。犯人は、行広という坊さんで、呪術に使う為だった。呪術に使われる人とは、第一に聖としての徳の高貴さであり、次に血の高貴さが尊ばれるそうだ。そういう意味では、天武天皇の髑髏は、血の高貴さから盗まれたものだろう。ところが、遠野の様な片田舎には、そういう血の高貴さを持っている者は、まずいない。となれば、注目されるのは、聖としての徳の高貴さだろう。そして人柱は、女性であれば尚更良しとされるように、巫女という存在は、人柱にうってつけの存在であると思う。
f0075075_22031996.jpg
朝日巫女は、岩船の岩の上に立ち、大雨で氾濫した川の流れを変えたとされるが、その岩船とは小高い山の事である。現在、の岩船に朝日巫女の墓とされるものがある。ただ、深野稔生「天翔ける船紀行」を読むと、全国の船を意味する山の大抵は、死者の霊を鎮める山であろうという見解を示している。その中には、貴船神社のある貴船山も含まれる。貴船大神は、貴船山の岩の上に降り立ったとされる。それはまさに、朝日巫女が岩船の岩の上に立ったものと重なって見えてしまう。恐らくだが、朝日巫女伝説の下敷きには、貴船神があるのではないか。そして、何故に貴船神を下敷きにして朝日巫女が出来たのかと考えても、その根底はやはり人柱であったのではないか。朝日巫女は、早瀬川の氾濫の犠牲になり、人柱となって、後に神として祀られたのが答えではないのか。現在、その岩船に石碑なり墓があるという事は、人柱の犠牲となった朝日巫女の霊を鎮める為ではなかったか。
f0075075_12035709.jpg
陸前高田の横田村に、舞出神社がある。この神社の祭神は、瀬織津比咩と菖蒲姫の二柱の神が祀られている。その由緒は、下記の通りとなる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今から四、五百年前の頃の事であった。陸前高田横田村では、開拓工事の為に堤防を造ったのだが、大水のたびごとに決壊し、せっかくの新田がまたたくまに泥田になっていたという。そんな中村人は、和光院様という神職に伺いを立ててみたところお告げがあった。

「水神の怒りがあるから堤防が切れるのだ。神の怒りを

        解く為には、村の少女を生贄に捧げなければならない。」

その頃の横田村に、遠野の上郷は細越から流浪してきた大層貧しい母と娘が住んでいた。娘の名を”菖蒲姫”という評判の親孝行者だったので村人達は、代わる代わる母と娘の面倒をしていたそうな。その菖蒲姫は生贄の話を聞き、自ら進んで、その人柱になる事を申し出た。残る母親の生活を村人に託して、翌日の早朝に村人総出の中、牛に乗って川まで行った。やがて菖蒲姫は白木の棺に入れられ、静かに水底へと沈められていった。それからは堤防も決壊する事無く、これもひとえに菖蒲姫の生贄の賜物であろうと、佐沼山に小さな祠を建てて、その霊を慰める事にしたのが、現在の舞出神社であった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これと似た様な話は「遠野物語拾遺26」であり、「遠野物語拾遺25」もまた、これらの亜流だろう。共通するのは、人柱を捧げたその川の主であり、川の神であろう。以前にも書いたうに、川の主、川の神とは、その源流神を云う。ただ横田村の舞出神社に伝わる様に、岩手県に於いて水神の大元とされ認識されているのは、早池峯大神である瀬織津比咩であるという事。つまり遠野全体で考えても、川の主の大元とは、早池峯大神である瀬織津比咩の事をいう。

そして人柱だが、巫女という聖人を捧げる場合もあり、また「遠野物語拾遺25&26」の様に、身分の低い者の場合もまたあるが、共通するのは女であるという事。「生贄と人柱の民俗学」を読んでいくと、器量の良い娘は買い手がすぐ付くが、器量の悪い娘は、なかなか買い手が付かない。しかし、人柱などの犠牲になる場合に、買われる場合があったようだ。呪術を完成させる場合、聖人としての徳の高貴さ、もしくは血の高貴さを求められるが、確かに「遠野物語拾遺25&26」のように、代理の女が犠牲となっても、川の氾濫は治まっている。ただし、その犠牲となった者の祟りが永続するというリスクが伴っている。「遠野物語拾遺25&26」の場合、犠牲になった女を神として祀らないから祟られたと考えて良いだろう。人柱の基本は、「遠野物語拾遺28」の雄蝶・雌蝶であり、橋姫神社と同じ様に男女二柱を祀る事であろう。一柱で祀った場合、その祟りが起こる可能性がある為に、ある呪術を施す。それが恐らく、卯子酉神社に施されているのかと考えてしまう。

# by dostoev | 2019-10-14 13:06 | 冥界との縁結び

サムトの婆が来た

f0075075_10201175.jpg
10月13日、遠野ふるさと村では「秋物語~庭仕舞~」が行われる。庭仕舞いは、農家の外仕事が終わった事で、その後に行われるのが先祖供養の行事で、遠野ではゴオシュと呼ばれる。そのゴオシュの日は、「遠野物語8」で有名になったサムトの婆が現れる日でもある。ところが偶然か、12日、13日は、日本に未曽有の台風19号が上陸した。遠野流に言わせてもらえば、まさにサムトの婆が現れてしまったのだった。

"サムトの婆"の本名は、"サダ"という。サダは六角牛山の山男にさらわれたのだが、それが何十年かぶりに、実家である茂助の家に帰って来たのだった。年老いて、山男に里帰りを許されたのだろうか?ところが、サダが台風の使者であるかのように、サダが姿を現すと決まって遠野は大暴風雨になり、そのつど村は、大きな被害を受けたものだと云う。その後、山伏に頼んで、道切りの法によってサダを六角牛山に封じてしまった。この道切りの法とは、襲いかかってくる怨敵や悪人の道を塞ぎ、魑魅魍魎を降伏させる為に、紙の人形を怨霊などの依り代として筒の中に封じ、まじないの後に川へと流すか、村境に立てて結界とする。このサダの場合は、六角牛山と青笹村との村境に結界を立てたと云う。しかし、その結界もいつの間にか消えてしまったという…。

サダが台風の使者と表現したが、台風という呼称は昭和31年に定まったもので、それ以前は台風の古称を「野分」といった。「野の草を吹き分ける強い風」から「野分」と云われ、今では台風という呼称に変化してしまった。ただ遠野ではなんと言ったか?普通に大風だったか?

また綾織地域では、「夜口笛を吹くと嵐が来る」と伝わっている。ある爺様は、稲刈り後は田圃が稲の屑なので汚れるので、かならず毎晩口笛を吹いたそうである。それは嵐を呼んで、散らかった稲の屑などを吹き飛ばして欲しいからという理由であった。なんとも、ものぐさな爺様である。それはともかく、台風・大風を連れて来るサムトの婆は、やはり歓迎できない存在である。

# by dostoev | 2019-10-13 11:40 | 民俗学雑記

「冥界との縁結び(其の七)」

f0075075_18303541.jpg
さて、ある程度話をまとめようか。まず初めに、卯子酉神社に現れるという淵の主というものに疑問を抱いてから、いろいろと調べてみた。この卯子酉神社の鎮座する土地は、遠野とと綾織の境界であり、綾織の伝承から、「死者の魂の留まる場所」であるというのがわかった。また、卯子酉神社以前の倉掘神社だが、倉掘そのものは、「地面に穴を掘って神を埋める」意味もある事が理解できた。そして「淵の主」とは、その淵なり沼で、「不遇の死を迎えたもの」を意味していた。これらから導き出される答えは、やはり「人柱」であるだろう。ただ、時代的な問題点が出ている。卯子酉神社以前の、倉掘神社時代に、果たして"それ"が行われていたのか。卯子酉神社になったのは、幕末の文久年間になってからだった。その文久年間の始まりである1861年は、大雨による大洪水となり、それにより大凶作と麻疹が流行り、多くの死者が出た時代であった。そういう意味では、水神への祈願として人柱を立てても、おかしくは無い時代であった。時代的に幕末であり、江戸を中心として西洋文化を垣間見る時代はある意味、迷信が淘汰されている時代でもあった。しかし都から遠く離れた遠野は、同じ日本でありながら、その時代の流れから取り残されていた。

倉掘氏と関係の深い宮家は、鮭に助けられた一族だからと、鮭を食べないを家訓としてきた。しかし、青麻信仰など鮭を神の饌とする信仰があり、宮家も恐らくそれに含まれるだろうと想定されるのは、宮家が住んでいた鶯崎に、その青麻信仰の碑があった事が伺える。山を目指して溯上する鮭は、神の使いと考えられた。例えば、妙見信仰であり、星の宮神社などの氏子は、神の眷属である鰻や鯰を食べないしきたりになっているのと、宮家の鮭は同じものだろう。つまり、神の元へと向かう鮭を、捕って食べてはいけないという禁忌だろう。ともかく、倉掘氏と宮氏に共通するものは、水神に対する信仰であると思う。

倉掘氏が何故、愛宕山に住んでいたのかは、荒ぶる猿ヶ石川を避ける為であったろう。猿ヶ石川が氾濫すれば、愛宕山の麓は水で覆われたであろう事は、簡単に予想できる。遠野の縄文遺跡の殆どが、高台から発見されているのは、川の氾濫を避ける為だろう。古代日本は、天照大神を中心に太陽信仰が盛んであったと思われている節がある。しかし、もっとも重要なのは水であった。例えば、太陽が輝き続け、日照りになった場合、雨乞いという水を欲す。食べ物、飲み物としての水は、人間の生活にとっての必需品であった。生活のリアリティは、水によって生じる。しかし水は、恵みを与えると共に、死をもたらす。川の氾濫は、家を飲み込み、人をも飲み込む。古代から人間は、水と向き合って生活していたものと思われる。
f0075075_11245028.jpg
そして人柱だが、川の氾濫を抑える為もあるが、地面を固め鎮める為の人柱など、基本的には水神に捧げるというものであった。「越中奮事記」には、「水を留めるにには人間を生埋めにするより他は無い。女なら尚更良い。」と記されている。これは人柱の最もたるものであり、女を人柱にするのは、自らの身を投げ水神に捧げた弟橘媛の流れを汲むものだろう。

ところで、九州の福岡に「ヤカンコロバシ」「ヤカンコロガシ」というものが伝わっていた。これは古い時代の遠野で行われたものが、九州へと伝わったものだとされる。それは夜、人を斬りつけ、谷底へと落すもの。そこには神官がいて、祝詞を唱えていたそうだ。遠野に来内ダム(遠野ダム)がある。1957年に来内ダムが着工された時、夥しい人骨が出て来たそうだ。それは、この来内ダムの場所が、ケッコロガシ沢とも呼ばれる処刑場であった為だ。公には、刀で斬りつけ谷底に落とし、這い上がってきた者の罪は赦すとされているが、実際は這い上がった者はいなかったともされている。この処刑に携わっていたのが、来内村の名主と伊豆神社の神官であったよう。ところが、この来内村の名主と伊豆神社の神官は、弘化四年(1847年)の三閉伊一揆の際に、一揆の熱に影響を受けた村民の襲撃によって殺されたという。村を牛耳っていた者が殺される話は、ロシアの農奴解放に近いものを感じる。それはどうも、天保年間の大飢饉から始まり、天保11年に発生した未曽有の大洪水が起きた事に由来するようだ。

この時代でもまだ災害は、神の怒りとされる時代だった。来内に鎮座する伊豆神社の祭神は、早池峯の神でもある、水神でもある瀬織津比咩。水害を鎮める為、理不尽な贄を捧げたのが、ケッコロガシ沢の処刑であったようだ。例えば来内村は当時、伊達藩との境界に位置していた。例えばキリスト教を信仰する者が見つかれば、キリスト教に寛容な伊達藩に逃げ込めば助かるとされていた為、伊達藩との境界には、意外にキリスト教信者が多くいたとされる。小友町も伊達藩との境界があり、捕まったキリスト教信者は、ただ殺されるのではなく、落盤事故の多かった坑道に入り、採掘の仕事などをさせられた。その中には胴臼洞と呼ばれる場所があるが、それは「デウス洞」が本来で、隠れキリシタンが集まって祈りを捧げていたとされる。瑞応院には、そういう坑道内で祈りを捧げられていたマリア像などが伝わっている。とにかくそういう者達もまた捕まり、水神に対する贄の犠牲になっていたようだ。
f0075075_13490711.jpg
卯子酉神社の淵の主は恐らく、そこで非業の死を遂げた者であったろう。しかし、それに至る過程の原初には、猿ヶ石川の源流神、早池峯大神に対する祈願から始まったと推測する。そしてその水神に対する祈願が補強されたのが、文久年間に起きた大洪水からであろう。その根底には、やはり陰陽五行が潜んでいる。

# by dostoev | 2019-10-12 14:15 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の六)」

f0075075_06190277.jpg
宮の家が鶯崎に住んでいた頃、愛宕山には今の倉掘家の先祖が住んでいた。ある日倉堀の方の者が御器洗場に出ていると、鮭の皮が流れて来た。これは鶯崎に何か変事がるに相違ないと言って、さっそく船を仕立てて出かけてその危難を救った。そんな事からこの宮家では、後々永く鮭の魚は決して食わなかった。

                       「遠野物語拾遺139」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
卯子酉神社の以前は、倉掘神社であった。その倉掘神社の別当は、倉掘氏。この倉掘という姓は稀有であり、全国にもそう多くはない。宮氏は、阿曽沼氏の家系だと訴えていたが、倉掘氏が同様なのかは定かではない。ただ倉掘氏の姓の発生は不明な様だが、もしかして栃木県に二ヶ所ほどある"倉骨"という地名から来ているのではないか?という説もある。阿曽沼氏が栃木県の氏族であった事からも、可能性としては否定できないだろう。また、愛宕山に住んでいた倉掘氏であったが、愛宕山は館跡ではないか?などの話も聞いた事がある。そういう意味では、倉掘氏の"堀"は、館跡の堀を意図していたのだろうか。ただ倉(くら)という言葉には、「神が籠る場所」という意味がある。また「暗い」という意味にも通じる場所でもある。また堀は、"掘る"という動詞から始まり、城などの「堀」に繋がる言葉だが、「掘る」とは「地面に穴をあける。」「掘って埋める。」「掘って取り出す。」という意味である。簡単に言葉を組み合わせれば「穴を掘って神を埋める」という意にもなる。
f0075075_09113683.jpg
昭和時代、メガネ橋の補修工事の時に、橋の袂からお歯黒をした女性の古い骨が見つかったそうだ。もしかして人柱にあった女性の骨か?とも云われた様だが、深くは検証しなかったようだ。ただ人柱は、未婚の女性がなるものというイメージがあった為に、何故お歯黒の女性が?という疑問はあったらしい。ところで「平家物語」には、嫉妬に狂った女が貴船神社に祈願し、丑の刻参りをした。その牛の刻参りとは、三七日間(二十一日間)に渡り川に浸るというもの。その時の描写に「歯は鉄で黒く染まっていた」と記されている。調べてみると、お歯黒の初期は、草木や果実で染めていた様だが、後に鉄片を酢に浸したものを使用するようになったと云う。

この「平家物語」の女性が、橋姫と云われるのはさて置いて、夫の浮気に嫉妬した女性の狂気を描いている。つまり既婚である事から、これをメガネ橋のお歯黒の女性に当て嵌めると、橋という"あの世とこの世を渡す境界"の下を流れる川に浸かったまま死んだ女性とも見る事が出来る。ただ通常であれば、川の流れに体が流されてしまうので、やはり人柱として橋の袂に埋められたか、もくは自ら望んだ入定の様なものであった可能性もある。平安末期、末法思想が広がった世の中で、坊さんたちは挙って火中入定、水中入定、土中入定を行った。中には、やるやると言ってやらなかった坊さんも多数いたようだが、入定する事によって浄土を目指す精神であり意識は、一つの呪術に近いものがある。またそれが悪意を持つ場合は、それは自分の怨念をそこに籠らせるという事。先に倉の意味には、影であり、神が籠る場所というものと同じである。昔観た映画に「ヘルハウス」というものがあった。ある屋敷に、その屋敷の主が特別な一室に怨念をもったまま籠って死に、その怨念が後の世にも、ずっと屋敷内に発動し怪奇現象を行うというもの。これは日本映画の「呪怨」も、また似た様な考えから制作されたものだろう。つまり、俗に云う地縛霊、自縛思念だ。橋姫神社が、橋の袂に男女二神を祀った事から始まったのは人柱からだったが、自ら入る場合は、「平家物語」の橋姫の行動と同じで、怨念を伴うもの。事実はどうかはわからぬが、この様な可能性も否定できないだろう。

# by dostoev | 2019-10-10 13:32 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の五)」

f0075075_06311445.jpg
松崎の猿ヶ石川沿いの、めったに人が寄り付かない場所に、ひっそりと人柱で死んだ巫女の墓がある。そしてまた、この松崎の猿ヶ石川沿いに、巫女の化物が出るという伝承が残っている。これは恐らく結び付くもので、不遇の死を迎えた巫女の祟りを恐れて、誰かが語ったものが伝わったのだろう。「今昔物語」に、厠へ行った女性が、化け物となって現れた話がある。厠=トイレは、あの世の入り口でもある。古代から、地面に穴が空いている場所は、霊界と繋がっていると信じられていた。これは「古事記」において、伊弉諾が死んだ伊邪那美を探しに、黄泉国のある洞窟へ入っていたが、伊邪那美の最後は恐ろしい黄泉津大神となり、伊弉諾と袂を分かつ話が元となる。それ故、地面に穴が空いている洞窟もそうだが、日常の井戸やトイレもまた、霊界=黄泉国の入り口であると信じられていた。普通の人は、死んだら成仏してあの世へと旅立つ。しかし、現世に想いや怨みを残した者は、霊界を通して戻ってきて、幽霊や化け物となると信じられた。巫女の化物とは、そういう系譜を受け継いだ話であろう。
f0075075_20061719.jpg
琵琶湖畔の桜谷は、鎌倉時代の歌論書「八雲御抄」で、「さくらだに(是は祓の詞に冥土をいふと伝り)」と記され、冥土の入口と思われていたようだ。「蜻蛉日記」にも、佐久奈谷へ行こうと言うと「口引きすごすと聞く(引き込まれる。)…。」とあるのは、桜谷=冥土(黄泉国)の入口と古くから伝わっている為であろう。琵琶湖畔に、伊弉諾と伊邪那美を祀る多賀大社が鎮座しているが、どこか琵琶湖そのものが黄泉国と通じるという意識があったのではないか。その桜谷には、桜谷明神と呼ばれる神がいた。その神名は、早池峯大神でもある瀬織津比咩であった。

この桜谷のある琵琶湖の下流は、宇治川に通じる。その宇治川の橋の袂に、橋姫神社が鎮座しているのだが、その橋姫神社の祭神は、瀬織津比咩となる。縁結びであり、縁切りが古代から有名になっているのは、橋姫の存在が大きい。この橋姫神社は、橋の袂に男女二神を祀ってから始まったとされるが、その男女二神が、雄蝶・雌蝶揃った人柱であったようだ。

橋姫神社と、遠野に分霊された鵜鳥神社の縁結びは関係なさそうに思えるが、鵜鳥神社の縁起には、源義経が絡んでいる事から、貴船神社の影響も考えられる。源義経と鵜鳥神社の関係は、源義経北方伝説によるものだが、それを修験が運んだとすると、あながち関係無いわけでも無いだろう。まず橋姫神社の縁結び・縁切りの本来は、貴船神社に由来する。そして源義経に縁の深い鞍馬寺は、貴船神が建立する様に命じたものとされている。貴船神社の神域内に、鞍馬寺が建立された事からも、歴史には記録されていないが、源義経が立ち寄った可能性があるだろう。そしてまた、卯子酉神社のある遠野の愛宕山にも、源義経伝説が付随している。
f0075075_08293661.jpg
遠野の愛宕神社に伝わる源義経伝承は、下記の通りとなる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
源頼朝が平泉を攻めた時の事である。藤原泰衡は義経を殺さず、偽首を送った。義経は逃れて、東磐井郡より江刺を経て遠野に来たが、隅々この地方の人々が火災に苦しんでいる様を見られて、愛宕の神は鎮火の守護神である事を教え、この愛宕の神を祀って火災防除を祈ったのが、この神社であると伝える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
また源義経伝説は、これだけではない。この愛宕神社の麓に流れる猿ヶ石川にかかる愛宕橋の下に、義経が乗っていた馬の蹄跡のある石が或るとされている。いや別に、弁慶の下駄の跡だという話もあるが、どちらにしろ確認はしていない。前に紹介したように、猿ヶ石川の様相は、かなり変ってしまったのもある。ともかく、貴船・橋姫・鵜鳥・卯子酉神社・愛宕には、奇妙な関係性を見出せる。
f0075075_19355453.jpg
「平家物語」の橋姫は、雪の様に白い肌の女として戻橋を歩いていた。そして寄って来た源綱の前で鬼に変り「愛宕山へ行きましょう。」と、源綱の髪を掴んで飛び上がった。何故、橋姫は愛宕山へ行こうとしたのか。京都愛宕山の「愛宕山縁起」では、空也上人が愛宕山に参詣したおり、女人に変化して現れた大蛇が成仏を願ったので、念仏を受け、その代わりに清泉を湧き出させたという因縁がある。「愛宕山縁起」が残る愛宕山の月輪寺で祀られる神は、清水龍女。水神であり、龍神である。また、京都の愛宕は「あたご」ではなく、「おたき」と訓む。遠野の卯子酉神社は、正確には綾織町の愛宕山の麓にあるのだが、その綾織には、もう一つの愛宕神社がある。現在の祭神は加具土命となっているが、本来の祭神は瀬織津比咩。早池峯大神であるが、その正体は水神であり龍神となる。これまでの流れを陰陽五行に照らし合わせ考えると、火と水の密なる流れを感じてしまう。それに加え、黄泉国との繋がり。そして、縁結び・愛宕山・橋姫の流れから、その根底に来るだろう貴船神社の本来の姿である呪詛神としての重要性が浮かび上がる。それが、愛宕山にも関係するのだ。「平家物語」において橋姫が、源綱を愛宕山へと誘ったのは何故か?

山田雄司「崇徳院怨霊の研究」を読むと、京都の愛宕山で呪詛が行われていたようだ。近衛天皇の霊が巫女に口寄せして、愛宕山の天公像の目に釘を打った呪詛が行われたが、貴船神社であり、愛宕山であり、呪詛を行う背景には、水神であり龍神の存在がある共通性を見出せるのだ。

# by dostoev | 2019-10-08 20:22 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の四)」

f0075075_16133950.jpg
気になっている事がある。それは、淵の主とは誰を云うのか、という事。川の主とは、その水の発生する源流神を意図する。川と云うのは、清い流れがあって、その浄化作用を信じられていた。極端な話だが、川の上流でオシッコをしても、「なぁに、水は一尺流れれば、綺麗になるから大丈夫だ。」と信じられていた。しかし淵とは、その同じ川の流れでありながら、別に独立した存在。淵とは、淀みである。淀みとは、流れの停滞するところであり、河童などの妖怪の棲家としても伝わる。
f0075075_16170619.jpg
遠野の町の愛宕山の下に、卯子酉様の祠がある。その傍の小池には片葉の蘆を生ずる。昔はここが大きな淵であって、その淵の主に願を掛けると、不思議に男女の縁が結ばれた。また信心の者には、時々淵の主が姿を見せたともいっている。

                        「遠野物語拾遺35」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
時々淵の主が姿を見せたとあるが、遠野内において"淵の主"というものを調べると、例えば赤羽根の堤工事の時、贄として生き埋めにした鶏を"淵の主"としている。また、中山太郎「人身御供の資料としての「おなり女」伝説」には、発狂して池に飛び込んで死んだ女が、その淵の主となり、その池の側を通る人の影が池に映ると池の主が引き込んでしまう話など、どうも淵の主、池の主の殆どは、その淵なり池で、不遇の死、不幸の死を迎えた者のよう。
f0075075_17042857.jpg
ここで、もう一度縁結びを振り返ってみよう。元々の縁結びは、倉掘神社内の淵に対して祈願する事だった。ところが文久年間(1861年~1864年)に、宮古市の北、普代村の卯子酉山の中腹に鎮座する鵜鳥神社から分霊されて来た頃から、倉掘神社は卯子酉神社と社名を変えたのだろう。その縁結びだが、鵜鳥神社にも、縁結びが伝わる。それは「男は左手で、女は右手で松の小枝を結べば、縁が結ばれる。」というもの。陰陽五行によれば、火は陽であり左手で、男を指す。水は陰であり右手で、女を指す。ところが遠野の卯子酉神社には、「左手だけで赤い布切れを結ぶ事とが出来れば、縁が結ばれる。」伝わり、そこに男女の区別は伝わっていない。普代村の鵜鳥神は、海上安全などの水難事故防止の御利益もあるようだが、遠野における水難事故で祀る神は、殆どが金毘羅だ。

ところで卯子酉神が分霊された文久年間は、幕末の動乱期でもある。その頃の遠野はどうだったかというと、1861年に大雨による大洪水が起き、それから大凶作と麻疹が流行り、多くの死者が出た大変な時代であった。そんな時代に何故、普代村から縁結びの神を分霊してもらったのか?恐らく、1861年の大雨による洪水被害から、分霊されたと考える。またこの大雨による大洪水で、天保6年(1835年)に卯子酉氏神社前に広がる猿ヶ石川沿いに造られた堤防は、決壊したものと思われる。
f0075075_17201701.jpg
卯子酉神社の御本尊は、それぞれ文殊菩薩(卯)千手観音(子)不動明王(酉)となる。画像の本尊の配置は、向かって左から千手観音、不動明王、文殊菩薩で、卯子酉の順番通りには、なっていない。そして、この十二支を陰陽五行に当て嵌めれば、卯→木、子→水、酉→金、となる。陰陽五行の三行までが卯子酉であるのだがら、残りの火は、恐らく縁結びで結ぶ、赤い布切れだろう。また、卯子酉神社の鳥居の赤い色も含むだろう。鳥居の赤は、陰陽五行での「火生土」を意図する。つまり、縁結びで行う、赤い布切れを結ぶ行為とは「火生土」を意図してのものではなかったか。つまり、遠野の縁結びは、土との縁を結ぶ意を含んでいるという事になる。前回紹介した愛宕神社に祀られる加具土命は、別名"火産霊(ほむすび)"とも呼ばれる。そう、火を結ぶのである。

# by dostoev | 2019-10-06 19:23 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の三)」

f0075075_08404563.jpg
片葉の葦の伝説における、片葉は「かたわ」に通じ、体の一部が欠損している不遇の者と結び付く場合が多い。その中でも、葦の根元には鉄分が吸い寄せられ、それを採集しての産鉄があった事からも、蹈鞴系との関連が多く語られる。方足、片目は鍛冶師が方足で鞴を踏む事とから片足がダメになり、また炎の燃え盛る炉を片目で見続ける為に、片目がダメになっていた事から、片足、片目は、蹈鞴の代名詞のように語られている。「遠野物語32」では、旗屋の縫が追い詰めた鹿の片脚が折れた山を、それから片羽山と呼ぶようになったと記している。当初、山名に「はやま」が付く事から、片羽山は葉山信仰に関係するかと思っていたが、周辺の山々には鉱山が多く、また片羽山は片葉山、そして「かたわやま」とも呼ぶ事からも、「かたば」「かたわ」なのだろう。片葉山で鹿の片脚が折れた話も、「片葉の葦」→「片脚」を意図しているのかもしれない。
f0075075_19294169.jpg
倉掘家が愛宕山に住んていたという事は、その麓である卯子酉神社の場所は、雄大な猿ヶ石川の影響で、まだ人が住めなかったという事だろう。現在の卯子酉神社の脇には、小さな小川が流れている。それが水神の碑の建つ池跡の側を流れている事からも、この小川と池は繋がっており、猿ヶ石川に注いでいたか、猿ヶ石川そのものに含まれていたと思える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
遠野の町に宮という家がある。土地で最も古い家だと伝えられている。この家の元祖は今の気仙口を越えて、鮭に乗って入って来たそうだが、その当時はまだ遠野郷は一円に広い湖水であったという。その鮭に乗って来た人は、今の物見山の岡続き、鶯崎という山端に住んでいたと聴いている。その頃はこの鶯崎に二戸愛宕山に一戸、その他若干の穴居の人がいだかりあったともいっている。

この宮氏の元祖という人はある日山に猟に行ったところが、鹿の毛皮を著ているのを見て、大鷲がその襟首をつかんで、攫って空高く飛び揚がり、るか南の国のとある川岸の大木の枝に羽を休めた。そのすきに短刀をもって鷲を刺し殺し、鷲もろ共に岩の上に落ちたが、そこは絶壁であってどうすることも出来ないので、下著の級布を脱いで細く引裂き、これに鷲の羽を綯い合せて一筋の綱を作り、それに伝わって水際まで下りて行った。ところが流れが激しくて何としても渡ることが出来ずにいると、折りよく一群の鮭が上って来たので、その鮭の背に乗って川を渡り、ようやく家に帰ることが出来たと伝えられる。

                       「遠野物語拾遺138」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「遠野物語拾遺138」にも記されている様に、遠野は湖水であったとされている。ただ考古学者の調査によれば、尾瀬みたいな湿地帯であっただろうという事だった。実際、遠野盆地の石碑と、伝承を照らし合わせると、その裏付けが成される。恐らくだが、の湖水という表現は、卯子酉神社から見た、猿ヶ石川の情景では無かったか。それに加え、今は無くなってしまった松崎沼、別に蓴菜沼とも称すが、古くは船を浮かべて遊んでいた程広い湖水のようなものだったらししい。猿ヶ石川全体の中の、部分部分を切り取って見た場合、人によっては湖水と感じる人もいたのではなかろうか。


f0075075_07210750.jpg
現在、愛宕山前に流れる猿ヶ石川に沿って、舗装された遊歩道がある。これが天保年間に築かれた堤防に対し、更に土を盛って完成した堤防となる。つまり、この堤防が無かったら、卯子酉神社までは、まだ猿ヶ石川の影響を受けていた事になるだろう。
f0075075_20454149.jpg
大正時代の卯子酉神社前を流れる、猿ヶ石川の画像は、現在の猿ヶ石川と比較しても、川幅と水量は、比較にならない程雄大である。これが、卯子酉神社の池に猿ヶ石川が繋がっている時代は、それこそ湖水に思えたのではなかろうか。江戸時代の、愛宕橋が建つ以前は、船で対岸へと渡していた程、猿ヶ石川は広大で、悠々と流れていた。
f0075075_12254206.jpg
ところが現代になると、上の大正時代の猿ヶ石川と比較すると、だいたい同じ位置から撮影しても、ススキなどの雑草で、川が見えないくらいの規模に縮小している。本当は、川近くまで行って撮影したかったが、愛宕山の対岸は雑草が背丈を超え、また複雑に絡み合う雑草の為に、行くのを断念。
f0075075_05594309.jpg
昭和50年頃の愛宕の画像を見ても、大正時代とは、かなりの水量の違いがわかるであろう。恐らく戦後の復興で、山の木が伐採され、ブナやミズナラなど雑木から杉に移行しての変化が、この猿ヶ石川の規模の縮小になったのだろう。
f0075075_20120343.jpg
そして現在は、上の昭和50年頃の写真の、半分程度になっている。この写真も、同じ位置から撮影したかったが、愛宕山からの景色は、木々が生い茂り、視界を遮ってしまう為、同じ位置からの画像は撮影出来なかった。
f0075075_11531247.jpg
卯子酉神社境内に、愛宕神社が祀られている。祭神は、加具土命。倉掘家が当初、愛宕山に住んでいた為だろうか。愛宕山の愛宕神社の祭神は、伊邪那美と加具土命。火神である加具土命を産んだ為に、ホトを焼かれて伊邪那美は死んでしまう。その伊邪那美が死ぬ寸前に、嘔吐から誕生したのが金屋子神。尿から誕生したのが罔象女神。この罔象女神は、先に紹介した通り、やはり縁結びで知られた多賀神社の祭神でもあり、天保年間に築かれた堤防の際に、祀られた神である。金屋子神を紹介したのは、片葉の葦の伝説には、産鉄が関係する場合が多い為に、それに関連する鍛冶師に信仰される神としてのもの。愛宕神社は、火伏せの神として有名だが、本山でもある京都の愛宕山の縁起では、龍女を祀る。また愛宕の「宕」は「人を石詰にして殺す」意味が含まれる。つまり愛宕とは「愛する者を石に詰めて殺す」意か。実際、愛宕氏神社の祭神加具土命は、愛すべき母親を殺してしまった忌子でもある。しかし伊邪那美の嘔吐から生れた金屋子神は、何故か死体を好む。では、伊邪那美の尿から生れた罔象女神は、何を好むのか?いずれにせよ、死の匂いが漂う神々の集まりである。

# by dostoev | 2019-10-06 07:32 | 冥界との縁結び

「声優たちの遠野物語」&舞踏公演「業曝(ごうざらし)」

f0075075_10301622.jpg
どうやら、「遠野物語」発刊110周年記念イベントらしい。いろいろ趣向を凝らし、新しい「遠野物語」を模索しているのだろうね。確かに視点を変えれば、様々な表現方法が可能な「遠野物語」だとは思う。
f0075075_10302529.jpg
f0075075_10372336.jpg
チラシの裏を見ると、別に10日月12日、14日、19日、20日と、「業曝(ごうざらし)」という舞踏公演もあるらしいが、これも「遠野物語」の発刊110周年記念イベントの一つらしい。

# by dostoev | 2019-10-03 10:38 | 遠野情報(雑記帳)

「冥界との縁結び(其の二)」

f0075075_06053020.jpg

神社の昔は、基本的に祟り神を祀る場所でもあった。御利益というものは無く、ただ神に対して祟らないでくださいという懇願の場所。この祟りとは、自然災害に関するものであり大雨、落雷、日照り、地震などの災害は、神の怒りと考えられた時代の事だった。しかし平安時代辺りから、もっと参拝客を増やし利益を得ようと、この神様には、この様な御利益があると宣伝し、人を集めるようになった。しかしそれ以外にも、神社に人を呼び、その地を多くの人で踏み締め固めるという意図も神社側にはあった。例えば、青森の神社の下には、蕨手刀が埋められていたのは、多くの人を神社に呼び込んで踏み固め、蝦夷の蜂起を抑える為の呪術でもあったようだ。これは相撲の四股と同じで、踏み固める事により、大地の邪悪な霊を鎮める効果。あるいは、眠っている大地を目覚めさせ、豊作を期待する効果。または、多くの魂と触れさせるなどがある。とにかく神社に人を呼び込むその背景には、いろいろな意図が含まれる場合がある。
f0075075_18223081.jpg
遠野の町の愛宕山の下に、卯子酉様の祠がある。その傍の小池には片葉の蘆を生ずる。昔はここが大きな淵であって、その淵の主に願を掛けると、不思議に男女の縁が結ばれた。また信心の者には、時々淵の主が姿を見せたともいっている。

                        「遠野物語拾遺35」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
卯子酉神社の御利益は、男女の縁が結ばれるというもの。それが信じられ、この現代でも続いている。ただ以前に書いたのだが、江戸時代以降の遠野の町人は、縁結びを多賀神社に求めた。多賀神社の祭神が、伊弉諾と伊弉弥という、わかりやすい夫婦神というのもあったのだろう。だが多賀神社の本山でもある滋賀県の多賀大社の記録には、遠野の多賀神社に分霊されたのは、伊弉諾と罔象女神となっている。

遠野の多賀神社の信仰は、古老に聞くところによると水の信仰から始まったようだ。多賀神社の境内には、今では涸れつつあり汚れてはいいるが、水が湛えられている場所が一か所ある。その涌き出た神水が、この多賀神社の根源ではないかという事だが、何故か現在の祭神は通常通りの伊弉諾、伊弉弥となっているのは、祭神が変更されたという事だろうか。とにかく、多賀神社と卯子酉神社の共通する縁結びの神とは、水神という事になってしまう。
f0075075_06220716.jpg
天保十四年、遠野の猿ヶ石川の氾濫の防御の為に、水神の碑が祀られ建てられた。またその時に松が沢山植えられた為に、愛宕神社の麓である猿ヶ石川沿いは松原と今でも呼ばれている。その松原の地である愛宕橋の入り口脇に、画像の水神の碑が建てられているのだが、何故に罔象女神を祀ったかというのも、元々この倉堀神社に罔象女神が祀られていたのに呼応した為であったようだ。また、多賀神社にも罔象女神が祀られていたのもあるのだろう。要は、この遠野の町に沿って流れる猿ヶ石川には、罔象女神が祀られたという事。この石碑には「罔象女神無量 祓水災四海波」と刻まれているが、要約すれば「罔象女神は、はかる事の出来ぬ大きな存在であり、水災を祓い天下泰平となるだろう。」という意になる。こまで罔象女神を称える意とは、なんであろうか。安倍氏の末裔の所持していた「遠藤文書」によれば、この罔象女神は「速秋津日売、此御神者水門也。亦罔象女の神とも奉申也。」と記されている。つまり、祓戸神という事。「大祓祝詞」の流れを猿ヶ石川に当て嵌めて見れば、早池峯の神が源流神であり、罔象女神が水門という事は、川と海の境界。卯子酉神社の地であり、愛宕山の麓には石碑群がある。つまり、それは遠野との境界に位置するのが、卯子酉神社である。
f0075075_07521391.jpg
また、卯子酉神社と愛宕山の上に聳えるのは、桧沢山である。この桧沢山は、遠野綾織三山の一つであり、死の境界を彷徨う魂を現世に戻してくれるという俗信が伝わる。つまり綾織に住む人にとっての、魂の行き着く場所であり、魂の復活場所として信じられてきた。思えば、今では観光スポットの一つとなる五百羅漢があるのも、そういう意味を含んでのものであるのだろう。ともかく、この桧沢山の麓をも含むそのものが、あの世との境界と信じられていたようだ。

# by dostoev | 2019-10-03 07:58 | 冥界との縁結び

「冥界との縁結び(其の一)」

f0075075_19464118.jpg
過去に、卯子酉神社の縁結びを考えて書いてはきたが、何故片葉の葦の伝説が、この地に伝わったのか理解できないでいた。ともかく縁結びに関しては、普通に陰陽の和合を取り入れたものだろう。そして問題の片葉の葦の伝説は、全国に広がってはいるが、縁結びに関係する片葉の葦の話は、ごくわずかだ。茨城県に、片足で醜い道祖神が、美しい弁天様を追い求め、拒絶される話が、若干の内容を変えて、いくつも伝わっている。ただこの茨城県の話は、「ギリシア神話」での、片足で醜い冥界のヘパイストスが、女神アルテミスを追いかけ拒絶される話に似ている。

「片葉」は「かたわ」にも通じ、片足になった、片目になった話と、片葉の葦の伝説が、いくつか結び付いている。そういう意味では、片思いで成就されない恋もまた、茨城に伝わる道祖神と同じで、連れ合いを見つける事の出来なかった者も"かたわ者"であろう。実際、二日町の駒形神社には、自身のイチモツが余りにも大きい為に、女性から逃げられ続け、一生独り身になった男を神として祀った話が伝わる。これもまた、"かたわ者"の話である。橋野町にも、目の見えない盲神を祀っているが、体の一部が欠損している"かたわ者達"は、神として祀られる割合が高いようである。ただ小松和彦「異人論」では、村を訪れた目の見えない琵琶法師などを、金品を巻き上げ殺して沼などに沈め、その後に祟られぬ様、神として祀った話は、全国に多いという。ただし、殺したという事実は封印し、貧しい村を救ってくれましたという美談として伝説に残すのが殆どの様だ。そういう意味では、綺麗な伝説には裏があると考えても良いだろう。
f0075075_19551981.jpg
遠野の町に宮という家がある。土地で最も古い家だと伝えられている。この家の元祖は今の気仙口を越えて、鮭に乗って入って来たそうだが、その当時はまだ遠野郷は一円に広い湖水であったという。その鮭に乗って来た人は、今の物見山の岡続き、鶯崎という山端に住んでいたと聴いている。その頃はこの鶯崎に二戸愛宕山に一戸、その他若干の穴居の人がいだかりあったともいっている。

この宮氏の元祖という人はある日山に猟に行ったところが、鹿の毛皮を著ているのを見て、大鷲がその襟首をつかんで、攫って空高く飛び揚がり、るか南の国のとある川岸の大木の枝に羽を休めた。そのすきに短刀をもって鷲を刺し殺し、鷲もろ共に岩の上に落ちたが、そこは絶壁であってどうすることも出来ないので、下著の級布を脱いで細く引裂き、これに鷲の羽を綯い合せて一筋の綱を作り、それに伝わって水際まで下りて行った。ところが流れが激しくて何としても渡ることが出来ずにいると、折りよく一群の鮭が上って来たので、その鮭の背に乗って川を渡り、ようやく家に帰ることが出来たと伝えられる。

                       「遠野物語拾遺138」

宮の家が鶯崎に住んでいた頃、愛宕山には今の倉掘家の先祖が住んでいた。ある日倉堀の方の者が御器洗場に出ていると、鮭の皮が流れて来た。これは鶯崎に何か変事がるに相違ないと言って、さっそく船を仕立てて出かけてその危難を救った。そんな事からこの宮家では、後々永く鮭の魚は決して食わなかった。

                       「遠野物語拾遺139」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「遠野物語拾遺138」でもわかるように、卯子酉神社のある愛宕山の麓には、家は無かった。現在の愛宕神社が鎮座する、愛宕山に一戸あったとされる。それが「遠野物語拾遺138」に記されている倉掘家であったか?また現在の愛宕神社本殿に向って、左側に縄文遺跡が発掘されている。それが、若干の穴居の人の住まいであったのか。ただ言えるのは、卯子酉神社の前身である倉掘神社の場所は、低地である為にまだ人が住んでおらず、その倉掘家は、高台である愛宕山に住んでいたという事。

その当時の猿ヶ石川は、今では想像できないくらい広大な川であった為、人が住む場所は愛宕山の様な、小高い丘に住んでいた。猿ヶ石川沿いに発見されている縄文遺跡の殆どが、小高い丘であるのも、その時代の猿ヶ石川の規模が、かなり大きかった事を示すものだろう。以前、宮家の当主に聞くと、自分は阿曽沼の家臣の家系だと述べていた。しかしそれは、「遠野の社寺由緒考」を書き記した大川善男氏によって否定されているが、本当はどうであったのか。ただ、宮家は代々鮭に対する敬意を示して、現代でも鮭を食べない掟としている。その宮家当主の娘が幼少時、寿司屋を営む友達の家へ遊びに行き、イクラの寿司を御馳走になって食べたところ、目が見えなくなったと聞いた。その出来事から、更に強く鮭を食べないよう誓ったそうである。

宮家が鮭を食べなくなった理由に「聴耳草紙(鮭のとおてむ)」の話がある。これは以前「又兵衛の矛(其の一)」で紹介したので、読んで欲しい。ただ、鮭を食べない代りに、その鮭を神への饌という信仰がある。その経緯を紹介するのは長くなるので省くが、それは青麻信仰となる。宮家は鶯崎に住んでいたと「遠野物語拾遺138&139」に記されているが、「遠野町古蹟残映」によれば、鶯崎の崖上に青麻神の石碑があったと記されている事から、もしかしてそれが宮家に関係する石碑では無かっただろうか。自分はそれを探したが、見つける事が出来なかった。ただその青麻神の碑と一緒に、早池峯大権現の碑もあったと記されている事から、鮭は海神の使いであり、その仕える神の元へと行くという観念が、古代から伝わっている事に繋がってくか。大迫の「傀儡坂物語」でも、鮭は早池峯を目指して溯上していた。倉掘神社にある水神の碑は、猿ヶ石川の水神に対する信仰であろうから、その猿ヶ石川の源流の神とは、早池峯の神となろう。鶯崎の崖上の石碑に、青麻神と早池峯の碑があるという事は、鮭と早池峯の神が結び付くという事であろう。つまり、倉掘家も宮家もまた、早池峯の神を信仰していたという事ではなかろうか。

# by dostoev | 2019-10-01 22:35 | 冥界との縁結び