遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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早瀬川と白幡神社(其の八 結 其の二)「白幡神社は南部氏の呪術」

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前回、白幡神社は早池峯を意識して建立されたのではないか?と書いたが、もっと根源的な思索に足りていなかったと感じた。そもそも早瀬川という川名は、どうして付けられたのか。その川のイメージと、やはり源流の沓掛窟に祀られた観音をもう少し意識しなければならなかった。

画像は、砥森滝と呼ばれた川。この急流が滝に見て取れた為に砥森滝と名付けられたとされているが、そもそも滝の概念とはどういうものか。滝は瀑とも呼ばれるが、正確には瀑布という布がヒラヒラとひらめく状態を意味していた。しかし滝の本来の意味は"滾る"からきている。これは水が荒ぶり激しく流れる様が、滝として認識されていた。その激しい水しぶきが白く見え、それがいつしか白い布のひらめく様に見えた事から瀑布とされた。そういう意味で、白幡はまさしく滝の意でもあった。その滝の概念から"早瀬"もまた滝の意を持っていた。ただいつしか、高所から落下するものだけが、滝として広まったようである。
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以前にも書いたが、上郷町の日出神社と沓掛観音窟は連動する関係であるようだ。一説には、坂上田村麻呂伝説が入り込み、また一説には閉伊氏が関連しているとされるが、どちらも歴史上は有り得ないものと思う。ただ上郷町の日出神社には坂上田村麻呂伝説の他に、源義経伝説が付随している。義経が現地妻との間に生まれた日出姫を祀ったというものである。遠野に伝わる源義経伝説には、上郷町に辿り着いた伝承がある為、更にその奥、釜石へと抜ける仙人峠の手前にある日出神社に源義経伝説があるのには違和感がない。ただし源義経北方伝説は史実とはかけ離れるのは、坂上田村麻呂が遠野に来たというものと同列となる。それでは、誰が沓掛観音窟に十一面観音を祀ったのかとなれば、唯一可能性が考えられるのは、安倍一族ではなかろうか。ある記事にも書いたが、日出神社の側にはトンノミ(鳥海)と呼ばれる霊池があり、その背後には安倍一族の館であったとされる鳥海館跡がある事からも、安倍一族の息吹を感じる。そして閉伊氏の伝説が沓掛観音窟に伝わるが、この閉伊氏そのものが実は安倍氏であった…正確には安倍宗任の血筋であろうという可能性。これに関しては、まだ完結していない記事「閉伊氏の正体」の続に書こうと思っている。
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ともかく「早瀬」が滝の意であり、「白幡」もまた滝の意であった事を踏まえれば、それは滝神への信仰から来ているのだろう。考えてみれば、早池峯に祀られる瀬織津比咩もまた滝神であり、それは宗像大神と重なると云われる。その宗像大神は宗像三女神とされ、その三女神のうちの二柱の女神は「たぎり」「たぎつ」という、どちらも滝の概念を有する女神となっている。また宗像大社の祭に"みあれ祭"というものがあるが、船に乗って白幡をひらめかせる祭の形態は、まさに瀑布を意識させるもの。つまり宗像大社の祭もまた、滝神に対する祭であろうか。

滝の概念である"滾る"はまた別の意があり、激しい感情・闘志が沸き上がる意味を有する。これはつまり、武に通じるものでもある。宗像三女神が、十拳剣から誕生した滾る女神という意味は、武神としての意味合いがあるのだろう。早池峯の瀬織津比咩は、天照大神荒魂ともされるが、これは武神としての意味合いを兼ねている。事実、養老年間に岩手の室根山に運ばれて来たのは、荒ぶる蝦夷を平定する為、当時の最強の神としてであった。
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ところで、日出神社、及びに沓掛観音窟に関しては安倍氏の息吹を感じるが、白幡神社を建立したのは南部氏ではなかろうか。日出神社には、中居明神とよばれる遥拝所らしき場所がある。そこに伝わる伝説は、下記の通りとなる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
遠野南部の殿様が、日出神社の参拝へと行く途中中居という処まで来た。ここには綺麗な清水がこんこんと湧き、傍らには台石があり駕籠をを休める場所があり、家来と共に休息していると、一人の女が現れて曰く。

「私は日出明神ですが、殿様が御出でになるというので、お迎えに参りました。」

「然らば真の験を見せよ。」


と、殿様が言うと傍らの泉が忽ち大沼に変じて、沼の中から忽然と大蛇が現れて「真の明神のお迎え。」と答えたといい、以来この地に日出明神を勧請して中居明神と呼んだという。

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上記の伝説は、南部氏が日出神社に祀られる蛇神を支配したものと考えて良いだろう。現在の日出神社には、蛇神らしき面影は感じないが、これが沓掛観音窟と繋がるのであれば、その日出神社の根源神とは早瀬川の蛇神であるという事になる。滝が武神と繋がるのであれば、沓掛観音窟を源流として流れる早瀬川は、現在の遠野の町を囲む形になる。
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以前紹介した、遠野の町が造られる前の早瀬川の流れは、最終的に猿ヶ石川と合流して、城が築かれた鍋倉山を囲む、自然の荒ぶる流れの堀となる。猿ヶ石川は早池峯を源流とし、そして早瀬川もまた早池峯の滾る滝の女神を祀るのであれば、それは武に通じる城下町となる。16世紀後半に、図の様に二又に分かれていた早瀬川の稲荷下側の川を塞き止め乾燥させてから、現在の遠野の城下町が造られた。時代を考えても、敵の襲撃を意識しての町作りであったろう。そして、先に書き記したように、滝には武に通じるものがあり、その滝神である早池峯の女神は、天照大神荒魂でもあった。その天照大神荒魂を歴史上で操った人物とは、神功皇后となる。その神功皇后を祀っているのが、遠野の白幡神社であった。先にも紹介したように南部氏の故郷でもある八戸に於ける白幡とは、天照大神荒魂である瀬織津比咩であった。その荒魂を操った神功皇后を白幡神社に祀る事により、武による防御を極めようとしたのが南部氏であったのだと思う。つまり、早瀬川沿いに建立された白幡神社とは、遠野城下を護る為の南部氏の呪術であったのだと考える。


# by dostoev | 2019-03-15 22:14 | 早瀬川と白幡神社

三女神伝説再考(其の三)「織姫の娘」

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坂上田村麻呂、東夷征伐の時、奥州の国津神の後胤なる玉山立烏帽子姫という者あり。田村麻呂は東奥を守護せり後、立烏帽子姫と夫婦になりて、一男一女を産めり。其の名を「田村義道」「松林姫」と言へり。其の後「松林姫」は三女を産む。「お石」「お六」「お初」と言った。三人は各所にありしが牛や鳥に乗りて集まりし所を附馬牛という附き馬牛にて、到着の儀なり。天長年間、「お石」は我が守護神として崇敬せし速佐須良姫の御霊代を奉じて石上山に登り、「お六」は、守護神の速秋津姫の御霊代を奉じて六角牛山に登り、「お初」は瀬織津姫の御霊代を奉じて早池峰へと登った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この三女神伝説は、遠野市の綾織に伝わるもので坂上田村麻呂と立烏帽子姫が登場する。坂上田村麻呂は鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」にも登場する事から、蝦夷平定には無くてはならない人物であったのは今でも広く認識されている。さて立烏帽子姫だが、「鈴鹿の草紙」「田村の草紙」「田村三代記」の謡曲・浄瑠璃などにも登場し、坂上田村麻呂の"正義"と共に、その妻となった存在として蝦夷国である東北に語り継がれて来た。これらは完全な創作物ではなく、古くから伝承されたものをベースに話が創られたものと思う。その坂上田村麻呂は、北方鎮護の毘沙門天の化身とも伝えられる。そして、その毘沙門天の妻として吉祥天が宗教界では認知されている。

室町時代から江戸時代にかけて成立したとされる「毘沙門の本地」は、天の川を中心とした星巡りの話となっているが、登場する男と女の最後は、毘沙門天と吉祥天となる話となっている。この星々を巡る旅の話の背景には、恐らく天台宗などの密教系が絡んでいるのは間違いないだろう。当然、蝦夷平定を成した坂上田村麻呂が毘沙門天の化身と呼ばれたのもまた"北方鎮護の毘沙門天"と重ねられた為であろう。そして立烏帽子姫は鈴鹿御前でもあるのだが、その鈴鹿御前は京都の祇園祭に瀬織津比咩として登場している。その鈴鹿御前であり立烏帽子姫は「田村の草紙」によれば、その正体は琵琶湖に浮かぶ竹生島の弁才天であるとしている。弁財天と吉祥天は、しばしば混同して伝えられ、ある意味同神でもある。蓮華の花と縁深いのは吉祥天であるのだが、その吉祥天とも重ねられる瀬織津比咩は、坂上田村麻呂同様、蝦夷平定の為に来た神でもあった。よって毘沙門天の化身である坂上田村麻呂が、瀬織津比咩の化身である鈴鹿御前や立烏帽子姫と結び付くのは当然の帰結であった。
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そして遠野三山の一つである石上神社には、早池峯の瀬織津比咩が七夕の織女と結び付く伝承が伝わる。画像は、石上山上空の天の川。その天の川の織女だが、古代中国では織女三星と呼ばれている。三星といっても夏の大三角形(ベガ・アルタイル・デネブ・)の三星ではなく、織女星の下に正三角形を成す小さい星を合せたものを織女三星と呼ぶ。これは「大星を母后となし、二小星を女子となす。」と伝わる。
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岩手県には、いくつもの三女神伝説が伝わる。ただし、その頂点となる山は早池峯で変わらない。そう、早池峯を中心に三女神伝説が創られたと言っても良いだろう。そして特筆すべきは、その三女神伝説を伝えたのは全て菊池氏によるものであると。三女神としての古くは、やはり宗像三女神であろう。天安河原で、素戔男尊と対峙した天照大神の間に誕生したのが、宗像三女神。これは天の川での、彦星と織姫に相当する話として認識されている。つまり天安河原が天の川であるのなら、宗像三女神は織女三星に相当するか。

三女神伝説を読んでいると、常に母が居て三人の娘を産んでいる。その三人の娘が各々三山に飛んで行くのだが、どうも不自然である。何故なら、常に早池峯を手にする娘が一人いて、その他二人が他の山に納まっている。これはつまり、早池峯ありきの伝説である事が理解できる。それ以外は、付け足しの山の様に思えるのだ。ここでもう一度、岩手県の神社庁に伝わる「早池峯神社略縁起」を読んでみよう。

そもそも新山大権現之本地を尋ね奉るに、人王五十代桓武天皇延暦十四年乙亥三月十七日當山江、三柱姫神達、天降満します也。新山と申すは古起松杉苔むし老いた流枝に蔦蔓生え登り、山葉に曳月はかすかに見ゆ木魂ひびき鳥の聲あたかも、深山幽谷の如し。南に北上川底清く、水音高く御手洗也。雲井に栄え登る月影浪に光を浮かしめ、北は千尋に余る、廣野と萩薄生え繁。是を名付けて、新山野と申す也。

四方青垣山にして宝殿棟高く、御床津比の動き鳴る事なく豊明に明るい座満たして宣祢禰宜の振鈴、いや高く響、茂あらたなり今茂かわらぬ。三つの石あり、三柱姫神鎮座満します。故是を影向三神石と申す也。

然に氏御神天降給故を尋ね奉るに、東国魔生変化の鬼神充満し、多くの人民をなやまし、国土を魔界に成さんとせしを、天帝聞し召せ給、田村大明神を天降し、悪魔化道退散なさしめ、国土を治め給いしとかや、弘仁二年巌鷲山田村大権現と顕れ給い妃神を王東山大権現と顕し給いしとかや、其の御子三柱の姫神當山鎮座満しまし給、姫神達折々四方を御詠有りし遥か東方に雲を貫く高山あり。旭の光々たり、月の満々たるも、峰の高きを貴み給いて曰く我等山川の清を求め峯の高きに登り末を守らん。爰に我等の三躰を残し置くと宣いて、東方へ行幸ありしとなん。

人民肝留以催し、跡伏し拝み、悉く信心す時に姫神達東山に登給いれるに、童子一人顕れ、かれに山々を問わしめ給へば、童子指さし向に見ゆるは、於呂古志山、何方は大石神山此方は早池峯山と申す三つの山也。中にも峯高く絶頂盤石四方巌々として空にそびい鳥類翼を休めがたし。閼伽井より冷泉湧き出る是を名付けて早池峯と申す也。常に紫雲靄起こし、音楽の音止まず。折々天人舞い下り、不測之霊山也と言うを終わらず、虚空に上り雲中に声有。我は、是一の路権現なりと失せ給ふ御跡拝み伏す。

天に向かい此の三つ山、授け霊験を下し給いと祈り給へば、不測屋奈末の妹神の御胸に八葉の蓮華光曜として、天降蓮華の?に舞光を放ちて飛び、早池峯山大権現と顕れ給い、姉神は大石神山大権現と顕れ、第二姫神於呂古志山大権現と顕れ、国土を守り給いとかや況や御神徳著しき事、當社に先魂坐す故當社を早池峯新山大権現と齋奉流也。又神道には、瀬織津姫也大権現と書て大権現と讀み奉る也。古今の霊場にて弥陀薬師観音の三像相殿に敬い奉る事、其の徳社に満りと云々。

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この「早池峯神社略縁起」で不自然なのは、最終的に遠野三山の縁起書となっている事だ。これは、大迫の早池峯縁起に似通っているのがわかる。大迫の早池峯縁起は、田中某が早池峯へ登った時、遠野側からも始閣藤蔵が登って来て、同じ霊験に遭遇したとする。遠野側の早池峯縁起には、始閣藤蔵だけの話となっているのにだ。これはつまり、遠野側の縁起に気を使ってのものと思わざる負えない。そして「早池峯神社略縁起」もまた、三人の女神が遠野三山を選んだという事になっているが、その前に三女神が影向したのは盛岡側の三石になっているのだという、僅かながらの起源主張となっている可愛らしさである。これらから、「早池峯神社略縁起」も、大迫の早池峯神社縁起もまた、先にあった遠野早池峯縁起を意識しつつ創られた縁起書であると思われる。遠野側の縁起書は、あくまで早池峯の神に対する祈願であり、そこには三女神伝説は生じていない。恐らく星の宗教と呼ばれる天台宗と、その後の真言宗の教義の元に創られたのが三女神伝説であると思うのだ。

岩手山は、坂上田村麻呂を主体とし毘沙門天を重ね合せて祀っている。それと対になる坂上田村麻呂の妻となった、立烏帽子姫が姫神山へと祀られた。この二柱からの娘が三女神となる、もしくは間に別の父神と母神を置いて三娘を誕生させている。これは「早池峯神社略縁起」と遠野の伊豆神社に伝わる伝説が、その地域性を帯びた為だと思われる。

岩手三山伝説が、本妻と妾が姫神山と早池峯で混同されるのは、姫神山と早池峯が、どちらも同じ女神であるからだ。岩手山は、毘沙門天であり坂上田村麻呂でもある男神の山となる。その対と為る姫神山には立烏帽子姫であるが、これは先に記したように早池峯の女神でもある瀬織津比咩である。ここで思い出すのは「早池峯山妙泉寺文書」での「延長年中、本宮后宮修理、並びに新山宮を修復す。」である。当初「后」とは妃の事であるから女神の事であろう。つまりそれは現在、早池峯神社に祀られる女神である瀬織津比咩の事を言うのであろうが、それではその女神に相対する男神とはいったい?と疑問に思っていた。早池峯の祭祀の歴史には女神の姿しか感じられず、男神の所在がまったくわからなかったのだが、早池峯の女神を三女神の母后とすれば、全てが成り立つ。つまり三女神伝説、もしくは三山伝説の三角形の頂点に立つのは全て早池峯であると考えれば、すんなりと理解できる。恐らく三女神伝説の背景は、天台宗などの密教系による星の伝承を重ねて創られたものだと思えるのだ。次はその辺のところを詳しく書こうと思う。

# by dostoev | 2019-03-07 20:40 | 三女神伝説考

三女神伝説再考(其の二)「霊魂の道、そして織物の道」

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伊豆神社がもし太白信仰から建立されたものだとしても、北に聳える早池峯の方角は、金星の見える方角とは違う。ただ伊豆神社には養蚕をもたらした拓殖夫人の信仰も重なっているのを踏まえれば、菊池展明「エミシの国の女神」から金星である太白神が、三河の地で早池峯の女神と結び付いている事から、あくまで早池峯の女神の方角を重視したのが伊豆神社なのかもしれない。ある説で、伊豆神社から早池峯神社・早池峯山は一直線になっているという。これは最近図面上から発見されたものだが、伊豆神社から見えない早池峯を結ぶ線は、北という方角を重視した事から、北に聳える早池峯山へ向けて建立されたのが伊豆神社だと思っていた。
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ところで遠野には昔から、「遠野の民が死んだら魂は早池峯へと昇って行く。」と伝えられている。これは、山岳信仰によるものであるのは理解していたつもりだった。山の山頂は天であると考えられ、魂はより高いところへと昇って行くと信じられていた事から、遠野で一番高い山である早池峯に魂が集まるのは必然であった。ところで早池峯山頂から見ると、天の川は南方から立ち昇り、北方の早池峯へと向っているのが理解できる。古代中国では、この天の川を「霊魂の集まり帰るところ。」「霊魂昇天の道」とされ、それは日本にも伝わっている。これは「万葉集(巻三 四二〇番歌)」においても、天の川は死者があの世へ行く為の道であり、そして川であり、禊する場所と信じられていたようだ。そう、遠野の南方に位置する伊豆神社から、見えない北方に鎮座する早池峯へ、一筋の道があった。それが、天の川であると思う。考えてみれば、古代において方角を確認する方法とは、星見であった。伊豆神社の地から、見えない早池峯の方角を昼間に模索するよりも、夜になって星の方向を確認するのが、その当時は正しいやり方であった筈だ。その夜に、早池峯の方向を確認する為に夜空を見たであろう人々は、北に聳える早池峯へ向う天の川の流れも、また見た事であろう。
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勝俣隆「星座で読み解く日本神話」を読むと、伊弉諾が黄泉国から帰還して誕生した神々を星と照らし合わせて解説している。その誕生した神々の中で、伊弉諾の御帯から成った「道之長乳歯神」に注目したい。勝俣氏は、この道之長乳歯神を天の川と考えている。琉球王国で1531年~1623年にかけて編纂された歌謡集「おもろそうし」には、星々を歌う流れに、次の歌に着目していた。「上がる貫ち雲は、神が愛きゝ帯」この"貫ち雲"を天の川と考えたようだ。星が輝く夜空に登場する雲とは、普通に考えれば、その星々を隠す存在となる。「貫ち雲」の「貫ち(ぬち)」とは横糸を意味し、横糸の様に美しくたなびく雲が"貫ち雲"と信じられていた様だが、天の川そのものには雲の意があった。古代中国で天の川の別名が「雲漢」であり、銀河の英語名が「ネビュラ(星雲)」であるのは、ギリシア語の「雲」に由来しているという。シルクロードによって地中海世界の文化が古代中国に流れていた事からも、天の川が雲の意を含んでいるのは伝わっていたのだろう。また別に、もしもこの道之長乳歯神が天の川を意味するのであるのなら、「ギリシア神話」でゼウスの妻であるヘラの乳が流れ出したものが天の川になった事からミルキーウェイと呼ばれるようになった事が伝わっての漢字表記なのか?とも思ってしまう。その道之長乳歯神を学者は、「黄泉国から現つ国への脱出の道程の長さを暗示するもの。」と解釈しているようだ。黄泉国の穢れを祓う為、解いた長い帯が天の川という考えは、先に紹介した「おもろさうし」での「上がる貫ち雲は、神が愛きゝ帯」に掛かって来る。早池峯の女神が穢祓の女神である事を思えば、黄泉国という死者の集まる地と現世との境界に立ち、天の川という道を歩いてくる死者の穢れを祓うという観念に合致する。天の川を"光の帯"とも表現するのは、まさに"織姫の坐す天の川"ではなかろうか。次は、何故に三人娘なのかを書く事としよう。

# by dostoev | 2019-03-03 21:57 | 三女神伝説考

三女神伝説再考(其の一)

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今回の安倍宗任に関連して、もう一度遠野に伝わる三女神伝承を見直してみたい。画像は、早池峯神社の祭壇。早池峯神社は現在、早池峯大神を祀っているのだが、この後ろに三山の社が並んでいるのは以前、三山の三女神を祀っていたという事になろうか。まずは、この前紹介した安倍宗任絡みの伝承を精査したい。
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安倍宗任の妻「おない」の方は「おいし」「おろく」「おはつ」の三人の娘を引き連れて、上閉伊郡の山中に隠れる。其の後「おない」は、人民の難産・難病を治療する事を知り、大いに人命を助け、その功により死後は、来内の伊豆権現に合祀される。三人の娘達も大いに人民の助かる事を教え、人民を救いて、人民より神の如く仰がれ其の後附馬牛村「神遺」に於いて別れ三所のお山に登りて、其の後は一切見えずになりたり。それから「おいしかみ」「おろくこし」「おはやつね」の山名起これり。此の三山は神代の昔より姫神等の鎮座せるお山なれば、里人これを合祀せしものなり。
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この安倍宗任絡みの伝説を読んで、下記の「遠野物語(二話 抜粋)」と重なるものと感じる。
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大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、今の来内村の伊豆権現の社にある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止まりしを、末の姫目覚めて窃かに之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神各三の山に住し今も之を領したまふ故に、遠野の女どもは其妬を畏れて今も此山には遊ばずと云へり。
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しかし、「遠野物語 二話」に記されている霊華の話は、安倍宗任の伝説には記載されていない。この霊華の話は、下記の蛇神の伝説に登場している。
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来内に六陸田という地があり、ここは太古は池であった。この池に、お早、お六、お石という三匹の蛇がいた。この蛇たちは水神でもあったから、遠野三山の水源で神になろうと、この六陸田の地から一直線に天ヶ森へ経て、長峰七日路に水無しという水の無い峰を越え、現在の神遺峠の神分の社に来て泊まった。蛇たちは、天から蓮華の花が降ってきた者が、早池峰の主になる事にしようと話し合って、眠りに就いた。明け方近く、それは姉の胸に降ってきた。ところが、末の妹の蛇は、寝ずに待ちうけていてすぐに起き上がり、それをそっと自分の胸に置いて、寝たふりをした。みんなが目を覚ました時、末の娘の蛇は、約束通り、天の神が私を早池峰の女神に選びましたと言って、早池峰に飛び去った。姉は怒って早池峰と背中合わせの、一番低い石上山の、中の姉は六角牛の女神になった。この為、遠野三山は、女が登れば妬み、男の登るのを喜んだので、女人禁制の山になったという。
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安倍宗任絡みの伝説と蛇神の伝説を足したのが、どうも「遠野物語(二話)」になるのではなかろうか。ただ気になるのは、伊豆神社のある来内という地域である。この来内という地には、蕨峠から入る事が出来る。蕨峠を下って来ると、画像の様に前方に聳える六角牛山が目に付く。ところが、この来内の地からは早池峯山と石上山は、まったく見えない。ただし伊豆神社は、早池峯の神を祀った事から、遠野三山ではなく、あくまで早池峯を祀る神社であったのだろう。しかし何故か視界には、六角牛山だけが入る不可解さである。ただ天台宗の影響下にある信仰であるならば、北を重視した信仰であったろう。つまり、目に見える山では無く、あくまで北方を信仰し、そこに聳える早池峯を重視していた為に建立されたのが伊豆神社であろうか。ある意味伊豆神社は、早池峯遥拝所としての立ち位置なのかもしれない。

上記の蛇神を除いた二つの伝説には、既に伊豆権現があったという前提からの伝説である。つまり三女神は、早池峯の姫神一柱の信仰が後で三女神に分離されたものと考えられる。ところで、気になるのは伊豆という語源だ。伊豆神社の伊豆の語源は、遠野の先人で有名な学者である伊能嘉距のアイヌ語の転訛説を一般的としている。アイヌ語の「山の鼻」という意味の「Etu(エツ)」より、山の鼻に鎮座する神「エツ、カムイ」と呼ばれたものに、後から「伊豆」という漢字があてられて「伊豆の神」と呼ばれて、後に伊豆から飛んできたという神話が発生したものだというもの。これには伏線があり、伊豆神社の鎮座する地名を「来内」と云い、やはりアイヌ語の「ライ・ナイ(死の谷)」という意味がある為なのか、この来内一帯をアイヌ語の普及している地と考えたのかもしれない。また「伊豆(いず)」は「出雲(いずも)」と類似している事から、信仰的な要素から付けられた名の様にも思える。その出雲の語源は、「出る」もしくは「斎つ」から来ているとも云われるが、気になるのは音で重複する「飯綱(いずな)」だ。飯綱は飯綱権現でもあり、元々は長野県の飯綱山の山岳信仰が発祥とも云われる。飯綱権現に関して一番古いとされる室町時代の頃の文書に「戸隠山顕光寺流記并序」には、こう記されている。

「吾は是、日本第三の天狗なり。願わくは此の山の傍らに侍し、九頭竜権現の慈風に当りて三熱の苦を脱するを得ん。須らく仁祠の玉台に列すべし。当山の鎮守と為るらん。」

仏教色の強い文章だが、これによれば、飯綱は天狗であるとしている。天狗の古くは「日本書紀」に記されている「天狗(あまつきつね)」であり、その正体は彗星とされていた。そして飯綱権現は、九頭竜権現に影響を受けたとなっているが、その九頭竜権現もまた星に関係する。天台宗の三井寺による"尊星王法"は、龍に乗った女神の姿で表されている。その竜は、北辰であり、北斗七星の姿であると。それがしばしば"九頭竜となって地上に降臨し"、三井の尊星水を守護したという。この龍に乗った女神は、三井法流では吉祥天女とされている。

この星に関係しそうな飯綱権現は、伊豆那権現とも書き表す。調べると、九州では"伊豆奈"と書いて「いとな」と訓み、"金星"を意味していた。伊豆奈が「いとな」と訓むとなれば、アイヌ語の「えつ」にも似通ってくる。アイヌ語の「えつ」が山の鼻を意味するというが、別に「えつ、かむい」として神が坐すと考えられるのは、「えつ」が山の中でも特別な意味を持つからだと思えるのだ。以前「朝倉」を調べた時、朝倉は朝座であり、星見の山であったのを思い出す。神は、しばしば天体とも重ねられた事を考えれば、アイヌ語の「えつ、かむい」は、何等かの天体が昇り、山と重なった時の状態を意味しての「えつ、かむい」であるのかもしれない。遠野で嬰児籠は「えじこ」と訓むが、場所が変れば「いじこ」とも訓む。また飯詰は「えづめ」とも「いづめ」とも変化する事からも、「いと」と「えつ」は非常に似通っている。恐らくだが、アイヌ語の「えつ、かむい」は星の昇り立った、もしくは降り立った山の場所を意味したのではなかろうか。そして、伊豆奈が金星を意味するのであれば、それは遠野の伊豆神社が、金星であり太白信仰から建立された神社ではなかっただろうか。

# by dostoev | 2019-02-28 13:09 | 三女神伝説考

瀬織津比咩の祭祀其の四十五「三ツ石神社(早池峯の女神影向石)」

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伝説によると、昔この地方に羅刹という鬼が住んでいて、付近の住民をなやま
し旅人をおどしていました。そこで人々は、三ッ石の神にお祈りをして鬼を捕
らえてもらい、境内にある巨大な三ッ石に縛り付けました。鬼は二度と悪さを
しないし、又二度とこの地方にはやって来ないことを誓ったので、約束のしる
しとして三ッ石に手形を押させて逃がしてやりました。

この岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源といわれ、又、鬼が再び来
ないことを誓ったので、この地方を「不来方(こずかた)」と呼ぶようになったと
伝えられています。鬼の退散を喜んだ住民達は幾日も踊り、神様に感謝のま
ごころを捧げました。この踊りが「さんさ踊り」の起源ともいわれています。

                      「三石神社案内板」

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岩手の県名になったとも云われる三ツ石神社の三つの石。これは三ツ石様とも呼ばれる、鬼を退治した石でもある。何故急に、盛岡の三ツ石神社を取り上げたかというと、ここにきて盛岡の早池峯神社に伝わる「早池峯神社略縁起」が気になったからである。この「早池峯神社略縁起」は、岩手神社庁だけに伝わり、一般的には広まってないものである。
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そもそも新山大権現之本地を尋ね奉るに、人王五十代桓武天皇延暦十四年乙亥三月十七日當山江、三柱姫神達、天降満します也。新山と申すは古起松杉苔むし老いた流枝に蔦蔓生え登り、山葉に曳月はかすかに見ゆ木魂ひびき鳥の聲あたかも、深山幽谷の如し。南に北上川底清く、水音高く御手洗也。雲井に栄え登る月影浪に光を浮かしめ、北は千尋に余る、廣野と萩薄生え繁。是を名付けて、新山野と申す也。

四方青垣山にして宝殿棟高く、御床津比の動き鳴る事なく豊明に明るい座満たして宣祢禰宜の振鈴、いや高く響、茂あらたなり今茂かわらぬ。三つの石あり、三柱姫神鎮座満します。故是を影向三神石と申す也。

然に氏御神天降給故を尋ね奉るに、東国魔生変化の鬼神充満し、多くの人民をなやまし、国土を魔界に成さんとせしを、天帝聞し召せ給、田村大明神を天降し、悪魔化道退散なさしめ、国土を治め給いしとかや、弘仁二年巌鷲山田村大権現と顕れ給い妃神を王東山大権現と顕し給いしとかや、其の御子三柱の姫神當山鎮座満しまし給、姫神達折々四方を御詠有りし遥か東方に雲を貫く高山あり。旭の光々たり、月の満々たるも、峰の高きを貴み給いて曰く我等山川の清を求め峯の高きに登り末を守らん。爰に我等の三躰を残し置くと宣いて、東方へ行幸ありしとなん。

人民肝留以催し、跡伏し拝み、悉く信心す時に姫神達東山に登給いれるに、童子一人顕れ、かれに山々を問わしめ給へば、童子指さし向に見ゆるは、於呂古志山、何方は大石神山此方は早池峯山と申す三つの山也。中にも峯高く絶頂盤石四方巌々として空にそびい鳥類翼を休めがたし。閼伽井より冷泉湧き出る是を名付けて早池峯と申す也。常に紫雲靄起こし、音楽の音止まず。折々天人舞い下り、不測之霊山也と言うを終わらず、虚空に上り雲中に声有。我は、是一の路権現なりと失せ給ふ御跡拝み伏す。

天に向かい此の三つ山、授け霊験を下し給いと祈り給へば、不測屋奈末の妹神の御胸に八葉の蓮華光曜として、天降蓮華の?に舞光を放ちて飛び、早池峯山大権現と顕れ給い、姉神は大石神山大権現と顕れ、第二姫神於呂古志山大権現と顕れ、国土を守り給いとかや況や御神徳著しき事、當社に先魂坐す故當社を早池峯新山大権現と齋奉流也。又神道には、瀬織津姫也大権現と書て大権現と讀み奉る也。古今の霊場にて弥陀薬師観音の三像相殿に敬い奉る事、其の徳社に満りと云々。

                          【早池峰神社略縁起】
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この「早池峰神社略縁起」の冒頭部分から、この縁起は盛岡土橋の早池峯神社に関するものだと簡単に思っていたが、よくよく読むと違う事が理解できる。総じて言えば、遠野三山の由来でもあるこの縁起書の最初に三柱の女神が影向した石が紹介されている。その場所は、土橋というわけではなく「四方青垣山」という記述から、どうも盛岡全体を示しているものと理解できる。その四方青垣山に囲まれた地(盛岡)に、三つの石があると。

三つの石あり、三柱姫神鎮座満します。故是を影向三神石と申す也。

時代は、坂上田村麻呂時代となる。その時代に鬼退治をしたというものであるが、早池峯の女神である瀬織津比咩の岩手県における古い歴史は、鬼の平定の為に養老二年、熊野から室根山へ運ばれて来た事であった。鬼を平定した三ツ石神社の三ツ石様が何故に三つの石なのかは、どこにも伝わっていない。土橋の早池峯神社にも、その三つの石は無い。鬼を平定した三つの石として伝わるのは、三ツ石神社の三ツ石様以外にないではないか。恐らく三ツ石神社の三つの石に、早池峯の女神を中心とする三女神が影向したものと思われる。岩手県には、早池峯を中心とする三女神伝承がいくつかあるが、本来は早池峯の女神である瀬織津比咩から始まったものが、この「早池峯神社略縁起」を基点として、三女神伝承が広まった可能性もあるかもしれない。ただ、この「早池峯神社略縁起」のスタンスが、あくまで盛岡地区を中心としている事に加えて、かって東峯と呼ばれた早池峯山を「東方の雲を貫く高山」と紹介している事から、早池峯山が当初、東峯と呼ばれた原型であるのかもしれない。ともかく、今まで気にしていなかったが、この三ツ石神社の三石に、早池峯の瀬織津比咩は降り立ったものと思って良いのではないか。

# by dostoev | 2019-02-04 06:12 | 岩手県の瀬織津比咩

安倍宗任の妻

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安部貞隆氏「逆説前九年の合戦史」で述べている"安倍宗任奥州帰還説"を読み、頭に浮かび上がったのは、伊豆神社に伝わる下記の伝承だった。

安倍宗任の妻「おない」の方は「おいし」「おろく」「おはつ」の三人の娘
を引き連れて、上閉伊郡の山中に隠れる。

其の後「おない」は、人民の難産・難病を治療する事を知り、大いに人命を
助け、その功により死後は、来内の伊豆権現に合祀される。

三人の娘達も大いに人民の助かる事を教え、人民を救いて、人民より神の如く
仰がれ其の後附馬牛村「神遺」に於いて別れ三所のお山に登りて、其の後は
一切見えずになりたり。

それから「おいしかみ」「おろくこし」「おはやつね」の山名起これり。

此の三山は神代の昔より姫神等の鎮座せるお山なれば、里人これを合祀せし
ものなり。

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今まで疑問に思わなかったのだが、何故に安倍宗任の妻が三人の娘を引き連れて遠野に来なければならないのか?そして、そもそも安倍宗任の妻とは、どこで結び付いた妻であったのだろうか?当初、「上閉伊郡の山中に隠れる」という記述から、前九年の役という戦の最中であったのだと思ったのだが、その当時には嫡子の男子がいただけという古文書の記録があるようだ。それでは、その時の安倍宗任の妻が、その後に三人の娘を産んだというのは、有り得ない話である。その安倍宗任は、安倍貞任の遺言であったであろう安倍一族の再興を、九州に於いて体現していた。では、この安倍宗任の妻は、九州で結び付いた妻であったのか?そして、わざわざ九州から遠野へと、三人の娘を連れて旅をしてきたのだろうか?と考えても、当時の状況を考えれば、それもまた有り得ない話だ。ならば奥州へと帰還してから結び付いた妻と子供であったかと、考えてしまう。

ところで、三人の娘はそれぞれ「おいし」「おろく」「おはつ」となっている。これは、遠野三山の山名を人名化したものと誰もが思う事だろう。それでは安倍宗任の妻の名「おない」はどうだろうか。「おない」の「お」は尊称であろう。では「ない」なのだが、これは「オクナイサマ」に関する記事にも書いたが、例えば明治時代に流行った妻を表す言葉「家内(かない)」の「内」は、古代には「内裏(だいり)」などが古い用法となっているが「ない」という音は「なゐ」、所謂「地震」として広まっていた。その「なゐ」という意味の本来は「大地」という意味であった。これを単純に訳せば、「おない」とは「地母神」という意味であろうか。地母神=大地というイメージがあるが、そもそも古代の万物が発生する大地とは、山そのものであった。水が発生し、樹木が発生し、獣が発生する山は地母神そのものであった。つまり要約すれば「おない」とは、「山神」の意であると思う。とにかく、この伝承は創作であるのはわかるのだが、問題は安倍貞任の妻ではなく、何故に安倍宗任の妻であったのか?という事。

気になるのは、伊豆神社の場所だ。これは、もしも安倍宗任が奥州へ帰って来たとの前提で考えた場合、ある一人の人物と重なってしまう。それは、源義経である。義経北方伝説は、平泉から逃げ延びた源義経は、まず遠野市小友町にある五輪峠から遠野に入ったとされている。そのまま山ルートを辿り、来内経由で遠野の上郷町へ入ってから沿岸へと抜けたと云われる。「判官びいき」という言葉は源義経から発生したと云われるが、安倍宗任の名前は「鳥海前判官安倍宗任」であり、安倍貞隆氏に伝わる過去帳には安倍宗任の戒名が記されており、それは「珠林院殿前判官中峯圓心大居士」であると。そう、安倍宗任もまた「判官様」であった。上郷町の日出神社の伝承に、源義経が現地妻と結ばれ生れたのが日出姫であった…というものがある。その日出神社の側には鳥海館跡があり、鳥海(トンノミ)と呼ばれる霊池がある。日出神社周辺は、どうも源義経よりも安倍宗任に、関係が深そうである。とにかく「判官様」に関する伝説の全てが源義経であるとされているが、もしかして安倍宗任との混同もあったのではなかろうか。何故なら、信仰の元に安倍宗任と源義経は、重なる箇所が余りにも多い。これに関しては、別の記事で書く事としよう。

# by dostoev | 2019-01-27 13:28 | 安倍氏考

藤原基衡の妻 安倍宗任の娘

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まず、安倍氏の後裔による著書を紹介したい。安部貞隆氏による「豊後安倍氏の伝承」「逆説前九年の合戦史」である。去年出版された「逆説前九年の合戦史」は「豊後安倍氏の伝承」の流れから書かれた書でもある。ここで著者の安部貞隆氏は、家に伝わる古文書などから安倍宗任の奥州帰還説を唱えている。それによって、今まで疑問だった藤原基衡の妻が、安倍宗任の娘である事が、どこかしっくりくる。またこの安倍宗任奥州帰還説によって、いろいろな事が繋がって来るように感じた。別の機会に、それらを記事にしようと思うが、今回は書籍の紹介だけにとどめたいと思う。

# by dostoev | 2019-01-13 20:15 | 安倍氏考

鈴鹿権現と瀬織津比咩(其の九 結)

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遠野の西に聳える山を「高清水山(たかしみずやま)」と呼ぶ。それとはまた別に、遠野の東、仙人峠に聳える山を「高清水山(たかすずやま)」と呼ぶ。「清水」を「すず」と呼ぶのは古い用法である。そしてまた別に、「泉(いずみ)」を古くは「泉(しず)」と呼んだ。
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気になっていたのは、現在宮古市に属する川井村の鈴ヶ神社である。源義経が立ち寄り、静御前の想いを切々と語ったので、本来は静(しずか)神社であったのが、岩手県人の訛りの為に「しずか」が「すずか」に転訛してしまい、後から「鈴」の漢字があてられ「鈴ヶ神社」になったという。しかし例えば花巻市に伝わる伝説に、ある家に鈴鹿御前が立ち寄ったが、もしかして本当は静御前ではなかったか?などという話がある。静御前も鈴鹿御前も、音が似通っている為に、どこか混同してしまうのは致し方ない。ただ史実として、静御前が岩手県に来た事は無い。源義経伝説が形を変えて、様々に広がっている中での静御前であろうが、どこか坂上田村麻呂と共に語られる鈴鹿御前と混同されて伝わったのではないかと思えるのだ。

鈴鹿の語源が水音から来ているという説を、以前に紹介した。【水音の説】「スズカとは、山での水が流れる音から来たというもの。」この説に連動するように、 片山神社の鎮座する山から流れる清らかな水の流れが、片山神社祭神の一柱である瀬織津比咩と結び付き、山姫として信仰されたというものもある。この「スズカ」が水が流れる音としてではなく、山の清水そのものがスズカであったというのは、片山神社の祭神の一柱である瀬織津比咩が、そのまま水神であり、鈴鹿御前は、瀬織津比咩の分身として作られた存在であったのか。そして恐らく静御前も水、もしくは水神を意識した名前ではなかったか。

この「スズ」の音から気になるのは鈴木氏だ。鈴木氏の発生は熊野だと云われる。また岩手県に瀬織津比咩が運ばれた古い記録は、養老二年に熊野から室根山に運ばれた記録だ。その時に帯同した人物に穂積氏がいた。熊野三党と呼ばれる三氏がいる。それが鈴木氏であり、榎本氏であり、穂積氏であった。その中の穂積氏は、穂積姓から餅を献じたので丸子氏となり、後に宇井(鵜井)と改姓している。この穂積氏が改姓した丸子だが"丸"「ワニ(和邇)」とも読み、船をも意味した。船に「〇〇丸」と丸を付けるのは、古代から続いていたようである。「続日本記」に、陸奥に丸子連と称する者がいたと記されているので、かなり古くから丸子氏は陸奥に居たのか。遠野にも丸子地名があり、苗字にも丸子氏がいる。この丸子は、どうも水に関係する姓氏であるようだ。また、その後に関係して宇井氏となったようだが、宇井の「井」は井戸にも使用されるので、水との関係が深い。そして宇井だが、もしかして「和妙類聚抄」で記されている、木の洞に溜まった水の状態を「岐乃宇都保能美都(きのうつぼのみづ)」と書き示し、それを「半天河」としている。半天河とは、夜空に浮かぶ天の川に準ずるものであるという。つまり宇井とは「宇都保能美都」を意図した姓氏ではないかと考えてしまう。熊野三党の一人である榎本氏の榎もまた水、そして水神に関係の深い樹木である。この榎本氏は、古い熊野神に固執していた為、武蔵国一ノ宮である氷川神社では何故か榎本氏を忌み嫌い、氏子にはさせないという決め事があるという。この古い熊野神の正体は記録されていないが、つまり氷川神社でも古い熊野神を祀っていた歴史があると考えて良いのか。そして鈴木氏であるが、学者によれば鈴は「錫」であり、古代採鉄と関わりがあるとしている。しかし採鉄民による蹈鞴などでは火と共に重要なのは水である。スズが清水であるなら、鈴木氏は水と関係の深い樹木であるという意味になる。


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こうしてみると、熊野三党の榎本・宇井・鈴木は、そのまま水に関係し、また水に関係の深い樹木の意である事がわかる。樹木とは、枝葉は地上の空へと伸び、根は地下へと伸びる事から、地上と地下であり、この世と黄泉国との境界に立つモノでもある。瀬織津比咩が境界神としても存在するのは、「大祓祝詞」からも理解できる。祓戸の三女神とは、この世に坐す瀬織津比咩が世の穢れを海を通して根の国・底の国へと流す存在となっている。それはつまり、あの世とこの世との境界神としての役目もあるからである。琵琶湖畔の黄泉国の入り口だと恐れられた桜谷に祀られていたのは、瀬織津比咩であった。桜もまた、水に関係の深い樹木である。

スズは金属の錫であり鈴でもあるが、清水のスズであり水神に結び付く言葉でもあった。水音を表すスズカから瀬織津比咩が祀られた片山神社は、鈴鹿峠に鎮座する神社である。峠そのものも境界である事を考えれば、境界を自在に動く水がそのまま水神である瀬織津比咩に結び付くのは、当然の帰結であった。故に鈴鹿御前とは、水神が現世に現れる仮の姿としての形であったのだろう。そしてあの世と野繋がりがある事から、反面恐ろしい存在としても確立されたのが鈴鹿御前であったのだと思う。熊野那智大社には、藤原秀衡の手植えとされる山桜があるというが、藤原三代が信仰した白山信仰と、藤原氏によって建立された新山神社には瀬織津比咩が祀られている。この世の浄土を求めた藤原氏には、あの世と結び付く瀬織津比咩への想いがあったのか。それ故に、熊野那智大社へ山桜を植えたのは、境界神でもある瀬織津比咩へ、この世の浄土を願ったのかもしれない。

# by dostoev | 2019-01-06 16:08 | 鈴鹿権現と瀬織津比咩

南部氏も恐れた早池峯大神の神威

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以前「早池峯山と火葬の話」という早池峯の神が火葬を忌み嫌うという内容の記事を書いたが、これは吉田政吉「新遠野物語」に紹介されていたもので、どちらかというと怪異のフィクションに近いものであった。「遠野旧事記」には、元禄の中頃まで死者が出た場合、十月から二月まで火葬が行われていたという。しかし早池峯山が開いている三月の中旬から、山閉じの九月の中旬までの間、火葬の煙を早池峯の神が忌み嫌う為、参詣人の身が穢れるのを恐れて火葬を禁じていたそうな。

早池峯の神は水神であり穢祓の女神でもある。しかし火葬をした場合に参詣人の身が穢れるというのは、穢祓の神威を停止するだけでなく逆に、その穢れを振り撒くという事だろうか。厄災が振り撒かれるが、蘇民将来の札を貼っている家には厄災が降りかからないという牛頭天王の伝承と繋がる可能性を持つ話ではあると思う。自分は、天安河原で素戔男尊と対峙したのは天照大神の荒魂だと考えている。その天照大神の荒魂とは、早池峯の穢祓の女神でもある。遠野全体に、厄災を振り撒く牛頭天王(素戔男尊)と穢祓の女神である早池峯大神が一緒に祀られている社をいくつか目にしている。延長年中に早池峯山頂の本宮と后宮が修理されたという記録から、それ以前から本宮には恐らく男神が祀られ、后宮には現在の祭神である早池峯の姫神が祀られていたのだろう。その男神が祀られていた事実を考えれば、その男神とは素戔男尊の可能性があるのかもしれない。厄災神と穢祓の女神の夫婦神…いや実際は、男神として天照大神が祀られ、女神として天照大神の荒魂として伊勢神宮の荒祭宮に祀られる早池峯大神である瀬織津比咩であるか。

話が横光に反れてしまったが、火葬を忌み嫌うのは早池峯大神だけではなく、火葬に対する俗信も広まっていたからのようだ。それは「火葬の時の煙の"気"が井戸に入れば、井戸水が穢れる。」というものであった。それ故に人々は火葬があると聞けば、火葬場からいかに離れていようと、井戸に蓋をしたのだという。今の時代よりも、更に水の大切さを切実に感じる時代、水を守る意識の高さからの話である。そして火葬は、通年通して行われなくなったのだと。

しかし南部家では、代々火葬を行ってきたものであったが、遠野を統治してから火葬を止めざる負えなかったというのは、どういう心境であっただろうか。早池峯妙泉寺には、南部氏以前に統治していた阿曽沼氏からの書が伝わっているという。それは、"早池峯への寄進を引き継いでくれ"というものであった。それを引き継ぎ南部直栄は、更に玄米と共に七十石を寄進したそうである。これらから、いかに早池峯大神が、阿曽沼氏からも南部氏からも恐れられていたかわかるというもの。まあこれは、南部氏の本拠である八戸の櫛引八幡に、早池峯大神が大きく関わっていた事に由来するのであろうが、その南部氏が代々伝わる家の火葬習俗を諦めたのは、それだけ早池峯大神の神威であり、その祟りが恐ろしかったのだろうと思えるのだ。

# by dostoev | 2019-01-04 20:50 | 民俗学雑記

御白様・神闇様・奥内様

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柳田國男「遠野物語」によって紹介されたオシラサマは本来、小正月の時だけに語られる話であったものが、今では語り部のレパートリーに組み込まれるなどして、あまりにも有名になった。「オシラサマ」という呼称にあてる漢字は、今のところ無い。遠野の民は、文字ではなく話を通じてオシラサマを認識してきたからだ。ただし「オシラサマ」の「シラ」に漢字をあてるとしたならば、やはり「白」なのだろう。別に「お知らせする神」という認識から「知」という漢字も有りだろうが、オシラサマに関する全般を調べると、やはり「白」が適切であると思う。そのオシラサマは養蚕の神としても知られる。養蚕の主役は蚕だが、この蚕の正式名は「天の日の虫」という事で、太陽と関係するようである。事実、ある家の烏帽子を被った男神であろうオシラサマの後には、太陽神と認識されている「天照大神」と記されていたそうである。そして同じオシラサマの女神の方には、何も記されていなかった。これを、どう捉えるかである。
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ところで、このオシラサマとは別にカクラサマという神様がいる。佐々木喜善はカクラサマを評して「この神はオシラ神とは、全く反対の性質を持ち給ふが如し。形態に於いても霊験に於いても二神は遂に全く相違す。」と述べている。オシラサマの「シラ」を「白」とした場合、「白々」の意味には、だんだんと夜が明ける様を表す事から、太陽を内包する言葉でもある。そしてカクラサマの「カクラ」だが、"カクラ神社"なるものが遠野にはいくつも点在して祀られている。その「カクラ」にあてられる漢字は「神倉・神楽・角羅・賀久羅・神座」などである。秋田県に雪で造られる「カマクラ」があるが、このカマクラの語源はどうも「カマ(覆う)クラ(影)」の意でもあるようだ。佐々木喜善が指摘している様に、オシラサマと正反対の性質を持つカクラサマであるなら、オシラサマが太陽をも意味する神であるなら、それと対比される影はまさにカクラサマの性質にも思われる。「クラ」は「影」の意ではあるが別に「闇」という漢字も当てる事が出来る。これは貴船神社の祭神である高龗神・闇龗神で理解できるだろう。貴船神社の闇龗神は、「谷」の意味を有する。その谷である闇龗神に相対するのが、山である高龗神となる。古代、山の頂は天とされた。天に帰る天女の行きつく先は、山の頂でもあった。つまり太陽神である天照大神が坐す高天原は、天空でもあり山の頂でもあった。そして谷は民の暮す平地では無く、さらに窪んだ地である。琵琶湖の桜谷が黄泉国の入り口であったように「谷」にはもっと奥深い意味が隠されている。太陽を意味を内包する「白」がオシラサマに含まれるのだが、それに相対する性質を持つカクラサマは、まさに「白」に相対する「闇」ではなかったか。カクラサマにあてる漢字は様々あるのだが、本来は「神闇様」ではなかろうか。確かにカクラサマは、オシラサマに全く相違する神であるように思われる。

そして、もう一つ気になる事がある。伊能嘉矩「遠野くさぐさ」において、遠野におけるカクラサマの伝承を紹介している。「野外に於ける一種の神にカクラサマと呼ぶあり。木造の半身像にて、多くは荒削りに形つくられ、男女二体より成り。是り太古八百万の神々の中にて剰れる神にまし此神より除外されたまひしなりと。」と伝えられているようだ。それでは「除外された神」とは、どういう神であろうか?思い出すのは、高天原から移封され、最後には根の国・黄泉国の神となる素戔男尊が思い浮かばれる。もしくは、武甕槌と経津主神でも倒せず、代わりに派遣された建葉槌命によって倒された香香背男(天津甕星)もまた除外された神と考えるべきか。さらに「古事記」に記載されない瀬織津比咩のような神もまた、除外された神と考えてよいのかもしれない。カクラ神社は、殆どが村境に建てられている。村境とは道祖神や各々石碑などが建てられる、あの世とこの世の境界ともされる場所である事からも、カクラサマが黄泉国に寄った神である事が何となく理解できる。オシラサマが男女二体による神像であるとされ、実際にオシラサマは男女二体、もしくは馬像なども含めて三体となり祀られている。しかし、それではカクラサマがオシラサマと対になる神であるのには不自然ではないか。そのカクラサマもまた、男女二体として別に祀られているのは、やはり不自然。オシラサマとカクラサマが形態や霊験において全く相違する神であるというのは、火と水、男と女の様に、陰陽五行に則った形である。それ故に、オシラサマの知られている祭祀方法が、カクラサマを排除した祭祀方法となっているのは、どこか解せない。もしかして伊能嘉矩の紹介している様に本来、オシラサマの対であったカクラサマが家神から除外された為に、現在伝わるオシラサマの祭祀方法になったのではとも考えられる。
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そして、気になるのはオクナイサマだ。学者の研究によれば、オシラサマもオクナイサマも同じものとされている。ただオクナイサマの神体が掛軸だったり木彫りの人形だったりと、オシラサマに比べて形態の変化に富んでいる事くらいか。ところで遠野ではオクナイサマは「屋内様」では?と認識されている。これが山形県へ行くと、「御宮内様」であろうとされている。カクラサマの「クラ」が影の意であるのは、古代縄文人の言葉によるものであった。そしてオクナイサマであるが、「ナイ」という言葉は、例えば遠野市では栃内・佐比内・来内など、いくつも「内(ナイ)」の付く地名がある。「ナイ」とはアイヌ語で「谷」を意味するのだとされている。これは、先にカクラサマの「クラ」は闇龗神の「闇」であり「谷」を意味するというものに繋がってくる。伊能嘉矩は、オシラサマと対になるのはカクラサマであり、カクラサマが屋外に祀られる事に対比し、屋内で祀られるオシラサマを「オクナイサマ(屋内様)」と呼んでいるのだろうとしている。ただ「ナイ」というと、古くは「なゐ」という音は、地震を意味していた。しかし正確には「なゐ」は大地を意味し、大地が揺れる地震を「なゐふる」としていたものが、省略され、いつしか「なゐ」だけが地震を意味する語となったようである。その「なゐ」という語は「日本書紀」にも記されている為、「なゐ」=「地震」というのはかなり古い時代まで遡る。つまり「ナイ」が大地を意味する語として呼ばれていた時代は、途方もなく古い時代という事になる。

「ナイ」が「谷」であるなら、それは窪んだ大地と考えて良いのかもしれない。屋内の奥座敷に祀られるオクナイサマは、正確には「奥内様」であろうか。「奥内」が、奥の窪んだ大地、つまり沢の流れる谷であるならば水をも内包する。それに対比するかのように、家屋内で日(火)を扱う場所がある。竈がある台所である。陰陽五行で、日・火は陽であり、男を意図し、水は陰であり女を意図する。家屋の台所にある竈神は火男=ヒョットコとしても有名となり、そのヒョットコに対比されるものにオカメがいる。このオカメが登場するのは近代になり里神楽で登場したのが初めてとされるが、カメの「カ」は甕からきている。もしくは、亀に似ているからともされる。どちらも水に通じる語であるが、本来は蛇神を意味する龗(オカミ)が原型ではなかったろうか。「オカ」そのものは「陸・岡」の意を含み大地にも通じるが、「オカ」の原初は「オ」は「峯」であり「カ」は「棲家」が結合して出来た言葉であるようだ。また、亀といえば四神の北を守護する玄武という亀の神獣がいる。陰陽五行において、北を護るのは亀であり、水を意味している。そして色は黒色であり、「遠野物語拾遺44」「遠野物語拾遺46」に登場する黒蛇大明神が、実は早池峯大神であったのも、陰陽五行において黒蛇が北を意図した蛇神であった事を意味している。古代日本で、峰に棲む神とは蛇神でもあった。どちらにせよ「オカメ」も「オカミ」も蛇神であり水神に通じる語である。つまり家屋には、男神である火神と女神であり蛇神である水神の棲家が意図的に作られていたのではなかろうか。

オシラサマとカクラサマが本来、対となる男女神であったのならば、その本来の形を繋げる役目がオクナイサマではなかったか。オクナイサマはオシラサマであるとはされているが、オクナイサマそのものの語に、オシラサマとカクラサマを繋げる意図をどこかで感じてしまうのだ。「古事記」には、古代の縄文人が使用していた語によって理解出来た文がある事から、「古事記」そのものが大和言葉と縄文語の融合によって記された書であったのだろう。「ナイ」という語もまた縄文語でも捉える事が出来、「オカ」という語を含めて、遠野では全て文字では無く、口承によって伝わって来た事からも、あらゆる語が混雑していたのではなかろうか。オシラサマ・カクラサマ・オクナイサマは、未だに分からない事が多い。あくまで「恐らく、こうであったろう。」という漠然としたものでしか理解できていないのが現状である。新年早々、戯言・妄想の記事ではあったが、今後もこういう戯言・妄想のような記事も書いていきたいと考えている。何故なら、本当の意味を探るには、いろいろな視点もまた必要となる。少々突飛な視点であったも、何かのきっかけになれば良いだろうと考えるからだ。

# by dostoev | 2019-01-03 19:24 | 民俗学雑記