遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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光り物の視認

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綾織町山口に、長洞という屋号の家がある。そして別の屋号が「山喜」であるようだ。これは喜右衛門と云う先祖が相撲で「山谷川」と云う四股名であった事から斯く呼んでいると伝えている。この山喜が栄えた事についての言い伝えがある。

綾織で早く栄えた家は、同じ山口の「田中」と云う家だったそうだが、いつの事かわからぬが、光り物が田中家から出て「二日町」と云う家に入ったと云う。それから二日町の家は栄え、田中の家は衰退したそうである。ところがその後、二日町の家から山喜の家へと、その光り物が移ったと云う。勿論、前の場合と同様の形になったが、その事は山喜の今の主人から五代位前の事であると云う。その後、光り物は山喜の家から出たと云う事を聞かないので、今も尚あのように栄えているのだろうと噂される。

                        「上閉伊今昔物語」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この話は、まるで座敷ワラシが光り物に変っただけの話であるよう。昔にはどこでも聞く話であるが、その家が栄えた話には、どこか霊的な話が付随している。それが稲荷によるものであったり、沼の主や、座敷ワラシなどによるものであったり、様々だ。その中で座敷ワラシの噂は今も健在の様で、"それ"をどこかで期待する人々が、まだまだ数多く居るようだ。

この話の様な光り物…例えば現在、人魂であったり、竜灯であったりの光り物の話は、全く聞く事が無くなってしまった。稲荷もまた、狐の神秘性が失われた為、稲荷の力によって財を成そうと考える人もいなくなったようである。ところが座敷ワラシだけは、未だにその騒動を継続している事から、座敷ワラシを期待する人は、後を絶えないように思える。

光り物と言えば以前、ある人物から神社の空間を浮遊する金色に輝くモノが写真に写ったと聞いた事がある。それは恐らく、その神社に祀られる神の御神体では?という事だった。それと似た様なものを自分は見た。それは以前、座敷ワラシを期待して、自分の宿に泊った家族連れから見せられたものだった。泊った部屋を、スマホの動画で撮影したところ、金色に光って浮遊するモノが写り込んでいた。それを見せられて「これ、なんでしょう?」と質問されたが、それを自分が答えられる筈も無い。ただ、不思議な現象であったのだけは記憶している。自分のものでは無いので、その動画を見せる事は出来ないが、探した事は無いが、もしかしてYouTubeなどでアップされているのかもしれない。

今回は光り物の話であるが、考えてみれば座敷ワラシとは、大人には見えないものとして認識されている。ところが、子供である筈の座敷ワラシの姿は見えないが、こういう光り物に姿を変えた場合、場合によっては大人でも見る事が出来るのだろうか?と、フト思った次第である。
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現代人と比較して、古代人の視力は4倍あったとされる。だから昼間でも星を見たという記録がある。藤原定家(1162年~1241年)の日記「明月記」「五月廿九日晦、天晴る、此の三ヶ日 星晝」と記されている。同じ頃、天台宗の僧である慈圓(1155年~1225年)「慈圓伝」「五月廿九日法勝寺八萬四千基小塔供養、導師を勤む、白晝なるに星の形天にあらわる」と記されている事から、かなりの人が日中の星を目撃したのだろう。古代では当初、昼間に星が見えるは凶事とされた。しかし中世になり、昼間の星は瑞相とされたようだ。その為に、藤原定家も慈圓も、この昼間の星を気に掛けている様子はない。

俗に、彼岸の中日に星が見えるのは、昇天した祖先の魂が存在を明示していると信じられた時もあったようだ。ところが1945年1月13日、三河大地震の時「昼星見る」と観測記録に残る。そして昭和20年、福岡大空襲で博多は焦土と化した。その時、真昼から黄昏にかけて銀色に輝く妖しい星が見えていたそうだ。それは、シリウスであったとされる。その星を、博多の人々は絶望と空虚の目でじっと眺めていたと記録されている。この様に、昼間に見えた星が、偶然に凶事と重なる場合もある。こういう偶然の出来事が、迷信を作り上げてしまうのだろう。ただ、昼に見える星と凶事は、まったく無関係ではないようだ。昼間に星が見えるのは、電離層の問題だともされるが、それは地震の起こす電磁波にも関係するらしいが、詳しくは分からない。昼に見えるという星だが、普通は日中に空を見上げても、太陽の明るさによって星は、その光りに同化して見えなくなっている。だが空には、確実に星はあるのはわかっている。

もしも古代人のように、現代人の視力が4倍あるのなら、昼でも星は見えるだろうか?それと同じ事が、幽霊などにも言えるのかもしれない。先に書いた様に、現代では人魂の目撃例が皆無と言って良い程、聞く事は無い。しかし人魂そのものが、幽かに光るものであるならば、太陽であり、ネオンの光に同化して現代人は視認できなくなったとも考えられるか。三河地震の時に見えた星、福岡大空襲の時に見えた星のように、何等かの要因が重なれば、昼の星であれ幽霊であれ、人魂であれ、見えるのかもしれない。綾織に現れた光を目撃した人達も、現代人とは違う良い視力を持った人達であったかもしれない。見えないものを否定する人は多いが、こうして考えてみれば、様々なものを見る事の出来る人間の目の能力を、ここまで落としてしまった現代人はまず、視力をある程度元に戻してから、見えるか見えないかを語るべきか…などと思ってもしまった。
# by dostoev | 2017-12-14 13:56 | 民俗学雑記 | Comments(4)

九重沢

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伊能嘉矩「遠野くさぐさ」には「背後の九重山中に懸泉ありて九重滝といひ、ここに不動の安置ありしは、以て寺址を探るの指針と為すべし。宝暦九年(1759年)十一月に成りし、『八戸弥六郎知行社堂書上帳』に、滝不動とあるは是れなるべし。」と記されている。九重沢は昔、天台宗の積善寺があった場所である。星の宗教とも云われた天台宗と、しばしば不動明王が重なるのは不動の北辰と結び付く為だ。同じ天台宗が支配した早池峯もまた、その麓に滝があり又一の滝と称す。しかし、その又一の滝の本来は「太一」を意味する滝であろう。

九重は「くじゅう」と訓む。ところが「くじゅう」は「苦渋」に繋がるものとも考えられ、敢えて「九重(ここのえ)」とも訓んだ歴史がある。これは「葛野(くずの)」を「かどの」。「葦(あし)」を「よし」に変えた日本の文化の流れでもあった。

九重沢の背後は九重山とあるが、九重山を調べると真っ先に、九州の九重山が出て来る。大分県玖珠郡九重町から竹田市久住町北部にかけて広がる火山群の総称を九重山、もしくは九重連山と呼ぶようだ。それら一帯を「阿蘇くじゅう国立公園」と称す。九重という名称の起源は、延暦年間に、この地に九重山白水寺と久住山猪鹿寺の2つの寺院が開かれた事に由来するらしいが「くじゅう」の意味は不明のようだ。
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韓 愈(768年~824年)は、古代中国の唐中期を代表する文人であった。その韓愈の詩の一節の一部に、こう記されている。

一封朝に奏す 九重の天

この「九重の天」とはどういう意味であろうか。それについて、星見の家系に伝わる話がある。古代の星見の仕事をしていた人間を、天官と呼んだ。天官は、いつも夜空の観測をしていた。その星見の仕事をする者達の間では、観星台の事を「隈元(くまもと)」と呼んでいた。その星見系に伝わるのには、天であり夜空であり、宇宙の空間を「九間(くま)」と記していたと云う。「隈なく見渡す」の「隈なく」とは、空の隅々までという意味となる。その九間の成立は、八方と玄天から成り立つのであると。即ち、八方の中心となる北辰の座が九間であった。韓愈の詩に書かれる「九重の天」とは、この八方と北辰から成り立つ「九間」であると。

熊本県には、日本最古とされる妙見宮があり、それはつまり、北辰である。星は、星を見ているからこそ、星を意識するものである。ましてや天台宗は、星の宗教と呼ばれるのは、星を強く意識した宗教であるからだ。恐らく紀州の熊野川町九重も、同じく九間を意味するのではないか。そして熊本、熊野の「熊」も、本来は「九間」である「九重の天」を意味したのではなかろうか。遠野の九重沢もまた、天を意識した「九間」=「九重」であると思う。
# by dostoev | 2017-12-13 11:22 | 遠野地名考 | Comments(0)

マリオネット(中森明菜)トイウモノ

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「マリオネット」

「マリオネット(別バージョン)」
中森明菜は昔、たびたび見かける歌番組で、他の歌手と比較して『何となくいいなぁ。』という存在だった。だからといって、特別に聴いていたわけでもなかった。それがひょんな事から、たまたまネットで中森明菜を検索している最中、この「マリオネット」という動画にぶち当たった。この動画を観た瞬間、衝撃が走ると共に脳裏に浮かんだのが、澁澤龍彦「少女コレクション序説」と、藤田和日郎「からくりサーカス」だった。動画を観た後に、本棚の奥にあった澁澤龍彦と藤田和日郎の本を取り出したのだった。

この「マリオネット」という歌を調べると、1986年8月11日に発売された中森明菜の9枚目のアルバム「不思議」の中に収録された曲であった。この時の中森明菜は、21歳。動画は、歌番組でもある「夜のヒットパレード」での収録で、中森明菜「不思議」のアルバムの中から「Back door night」と「マリオネット」が歌われている。この動画の歌では、中森明菜の声にエフェクトがかかり、少々聴き辛くなっている。ただこれは、中森明菜「不思議」のアルパムでの声の表現がやはりエフェクトがかっている為、この「夜のヒットスタジオ」でそれを再現したのだろうが、それが残念だ。出来れば、同じ衣装で同じ振り付けで、そして同じ表現とテンションで、エフェクトがかからない中森明菜の生の声を聴いて観たいものだ。
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中森明菜「マリオネット」の動画を観て思い出した藤田和日郎「からくりサーカス」だが、連載されたのが1997年からであるから、この中森明菜「マリオネット」よりも時代は、後の事になる。この藤田和日郎「からくりサーカス」は、どこか悪魔的な漫画であった。作中では、人間を絡めた中に、懸糸傀儡(マリオネット)と自動人形(オートマータ)の戦いが描かれている。実は中森明菜「マリオネット」の歌詞「ゆるやかに踊る 月照かりのなか」という歌詞の一節を動画の中で見た瞬間に「からくりサーカス」の絵が浮かんでしまったのだった…。

マリオネットは糸で操る人形だが、オートマータは糸無しでも自在に動ける悪魔的な人形となる。このオートマータは「ギリシア神話」にも登場するダイダロスのウェヌス像を取り入れて、藤田和日郎が漫画の設定にしたのだろう。ダイダロスは鍛冶の神であるヘパイトスの真似をして、独りでに動く木製のウェヌス像を造った。ウェヌス像は、体内の水銀によって動く仕掛けになっていたという事から、「からくりサーカス」でフランシーヌ人形が造り出した、自動人形(オートマータ)に意志を与える水銀のような液体とは、そのまま水銀でよいのだろう。自分が観た中森明菜の踊りは、どこか「からくりサーカス」の自動人形(オートマータ)が月明かりで踊る様に感じた。といっても漫画には動きは無いので、あくまでそう感じただけだ。ただ「からくりサーカス」のアニメがあったかどうかはわからない。アニメを見れば、自動人形の(オートマータ)の踊りを見る事が出来ただろうか。

自動人形(オートマータ)には意志があり、その人形が意志を成しての行動は、日本において安倍晴明が人形を作って占術を施し、用済みとなった人形を、一条大橋の河原に棄てたところ、その人形が人間と交わって子供を産んだという話にも近い。「からくりサーカス」の人形も安倍晴明の人形も、悪魔的な人形でありながらも人間に近い心を持っていた事から、人間と接しなければ生きていけない悲劇的な側面も持ち合わせている。
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そして、何故に澁澤龍彦「少女コレクション序説」が脳裏に浮かんだのかというと、マリオネットなどの人形の背景がいろいろと書いていた筈だと思ったからだった。そして何故、中森明菜が魔女の様な歌い方にし、魔女の様な衣装と振り付けで黒魔術を彷彿させるような表現にしたのかという事が気になったからである。とは言っても、恐らく当時21歳の中森明菜は劇的に忙しくて、澁澤龍彦を知る暇も無かったのではないかと思える。また、中森明菜が歌っている時の振り付けも、調べると振付師によるものではなく、自分で考えた振り付けをしていたようだ。付け加えれば、衣装もまた中森明菜が曲に感じたものをスタイリストなどと一緒に再現していたという。更に加えれば、演出もそうであったようだ。とにかく中森明菜は、歌のイメージを直感的に捉えた振り付けと衣装と演出をしていた事になるだろう。だから、ここで澁澤龍彦なんちゃらを語る事は無意味なのだが、それでも気になった事を書き記そうと思う。

澁澤龍彦「少女コレクション序説」の中の「人形愛の形而上学」に、こう記されている。「そもそも遊びや玩具のなかで、その起源に、"魔術的"ないし宗教的な意味を見出すことができないようなものは、ほとんど一つもないのである。」。これはつまり、どんな人形の背景にも魔術的要素が含まれているという事。また「ヨーロッパの魔術の歴史を通覧すれば、いわゆる「愛の呪い」や「憎悪の呪い」のために人形が使用されたという例は、それこそ枚挙にいとまがないほどであろう。」。愛に関する歌を多く歌う中森明菜が、「マリオネット」という曲で魔術的に演じた事は、まさにはまった感が強い。こういうマリオネットの背景を知らず、天性の感性で「マリオネット」を表現した中森明菜は、感性の天才であると思う。漫画「ガラスの仮面」的に表現すれば、当時二十歳そこそこだった中森明菜は「明菜、恐ろしい子…。」である。

ちなみに動画で「マリオネット」の前に歌われている「Back door night」も、主体を人形に置き換えてみれば、同じ人形としての歌にも思える。つまり、この「夜のヒットスタジオ」で表現した歌は全て、人形の愛と呪いという事になろうか。例えば、人形やロボットを人間が表現する場合、この時代でもカクカクッとした表現で、パントマイムやダンスで見事に人形やロボットを演じる人は多かった。しかし中森明菜は、そういう表現をせずに自分的な人形の在り方を表現している。それは、澁澤龍彦的に言えば自由意志を持った"愛の呪い人形"という事になろうか。ここでもう一度思うのは「明菜、恐ろしい子…。」である。

とにかく中森明菜の歌は"歌謡曲"として捉える方が多いと思うが、最近いろいろとYouTubeで観て来たが、そんな思い込みは吹っ飛んでしまった。中森明菜は、稀代のアーティストであった事を今になって、改めて感じた次第で、この記事を書いたのだった。
# by dostoev | 2017-12-12 11:43 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

遠野不思議 第八百七十話「大日の牛」

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病人が出ると、特に重病であったり、又一家に続けて何人かの人が病気になると、八卦をおいたり、神社に願をかけたりして、その難を避けようとする事は、今も昔も変わりない事であるが、神様がその病人の生死をそれ以前に知らせたと云う話がある。

今は昔、遠野町の人々は大日様に病気平癒を祈念して、毎夕方薄暗くなる頃、人家を離れた大日山の石段を登り、杉林の鬱蒼たる中を通って神前に額ずく事であった。ところが或る人が何時もの様に、夕方祈念の為石段を登って行ったところ、丁度その石段の登りつめた所にちょっとではあるが、これから坂になる所に平坦地がある。不思議にもこの平坦地に、何処からともなく大牛が現れて、その行く事を遮ったのである。致し方ないので、回り道をして参拝して帰ったが、それから其処の病人は目に見えて良くなっていった。

この不思議な話が次々と拡がると、「俺のところも牛が出た後、すっかり良くなった。」と云う人が出ると思うと「俺のところでは、一向に出なかったので、それで死んだのだ。」と云う人も出た。要するに、大日様が牛を遣わして、祈念する人に生死の程を前もって教えてくれたものだと云われている。尚、病気平癒で神に祈願する場合は、裏道の近道を通っては効き目が無い。いくら遠くとも、表通を通らなければならないと云われている。     

                     「上閉伊今昔物語」

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昔の大日山の近辺には、人が住んでおらず、夕暮れに訪れるには、少々薄気味悪かったものと思われる。そして一般的に"大日様"と呼ばれる神社は、比叡山と関係する日枝神社なので、普通は猿が使役となるのだが、この話では牛という事になっている。恐らくたまたまだったのだろうが、神域で起きた事である為、こうして神様の仕業となった話ではなかろうか。
# by dostoev | 2017-12-11 20:05 | 遠野不思議(伝説) | Comments(3)

早池峯山遥拝所 其の六(白山様)

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白山様と呼ばれる、小高い岩山に登り立って祈願すると長者に成れると云う。昔は、白山様の頂に沢水を渡し、上から水を落として人工的な滝を造ったという事だ。人工的な滝を作ったのは恐らく、景観が素晴らしくなるから、というものあったのだろう。しかし長者祈願の岩山に敢えて人口の滝を加えたのは何故かと考えた場合、祈願する方向が北に向いている事に関係するのかとも思えた。北に聳えるのは、早池峯山と遠野の民は認識していた筈。ここから少し離れた琴畑の地にも、早池峯山の遥拝所がある事からも、同じ土渕の違う場所に早池峯遥拝所があっても、不思議では無い。ただ、何故に"長者祈願"であったのかという事だろう。
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白山様の頂に登り立つと、船型の岩があるのに気付く。
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その船型の岩に登り立つと、船の舳に立った感覚になる。もしかして宝船を意識したものか?とも思える。宝船には七福神、もしくは八福神。その一人増えるか減る曖昧な神は、弁財天、もしくは吉祥天となっている。ただ、吉祥天も弁財天も同一の神であるとされる。

宝船と白山と弁財天&吉祥天を結び付けるものは何かというと、まずは間に入るのが平泉寺白山神社であると思う。開祖は、白山を開山した泰澄である。平泉寺(へいせんじ)は、奥州藤原氏が白山信仰に影響を受けた事からの平泉(ひらいずみ)となった元の名であるようだ。その平泉寺では、養老年間に泰澄が開基した天台宗平泉寺の隆盛期に、伽藍の一部として弁財天が祀られたそうだが、それが"弁財天白龍王大権現"であったようだ。白蛇は財を成すとされる俗信は、これに関連している。

また俗に「宮本文書」と云われる「早池峯妙泉寺文書」によれば「早池峯の開山説話は、白山の草創説話と非常によく似ていて、霊泉、七不思議など全く同一の着想である。これは延暦寺に対する白山の関係を、中尊寺と早池峯山に想定し、天台の僧によって早池峯山妙泉寺が草創されたものであろう。」としている。これに付け加えれば、早池峯山中の「お金蔵」と「早池峯剣ヶ峰」も白山に同じとなる。また違う話だが、竜神を表記する場合に「妙泉太神龍」もしくは「妙泉大龍神」と記す場合がある。早池峯神社の前身が早池峯妙泉寺である事を考えみれば、この影響を受けて命名されたのが早池峯妙泉寺なのだと思える。つまり早池峯妙泉寺とは"早池峯の龍神を祀る寺"という事であろう。
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恐らく白山と早池峯との繋がりが深いというよりも、神を通じて同一だと思って良い。同じく白山を祀る曹洞宗の永平寺でも、熊野神と白山神と早池峯神は同一神として考えられている。
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また同じ遠野の白山比咩を祀る上郷町のトンノミに掛けられている額絵には、龍に乗った女神の絵があるが。恐らく上郷町の日出神社とトンノミ、そして中居神社も同じく、白山信仰を再現しているものであろう。また同じ上郷町平清水の白山神社には、龍に乗った女神像が御神体になる。その上郷町の日出神社に並ぶ天香山は早池峯山の遥拝所となっている事から、遠野の白山信仰は、そのまま早池峯信仰に向けられていると言っても過言では無いだろう。
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もう一度最初に立ち返るが、何故に白山様と呼ばれる小高い岩山に滝が必要であったのか。確かに景観を考えれば、水を落としてみたくなる岩山である。しかし、長者祈願となる信仰の岩山である事を考えれば、単に景観だけを思って沢水を引いて水を落としたわけでは無いだろう。恐らく、白山であり早池峯の神が穢祓の神である滝神に由来してのものを意識したのだろう。その為に人口滝を作り、白山であり早池峯に近付けようとしたのだと考える。

そして長者になりたいという俗なる欲望は、早池峯の神の伝説の中に泥棒を擁護した話があり、それから「一生に一度だけ無理な願いを叶えてくれる神」と信じられた事に起因しているのだろう。恐らくこの白山様は当初、早池峯山の遥拝所としてあったのではなかろうか。それが後から弁財天と財を成す白蛇も重り、無理な願い(長者祈願)の場所として広まったのだろうと思う。
# by dostoev | 2017-12-10 22:08 | 早池峯遥拝所 | Comments(0)

赤羽根(青笹)

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赤羽根という地名は、遠野に二ヶ所ある。そのうちの一つ、青笹の赤羽根には伝説が付随していた。「ものがたり青笹」に、その伝説が書き記されているので紹介したい。

赤羽根には溜池が多くあり、そのうち最も古いものを踊鹿の堤と呼んでいる。この堤は百五十年程前、天保年間に百専右衛門(ももせんえもん)という人が築いたと云われる。今では、周囲百メートルほどの堤であるが、その中央には、ぽつんと小さな島がある。踊鹿の堤には昔、主がいると云われ、村人達は神様の様に祀っていた。祭では、最後に中央の島に若い娘を捧げる事になっていた。その捧げられた娘は、次の朝には姿が見えなくなっているのが常だった。しかし、この様な事が何年も続くと、村人達も人を捧げるのが可愛そうになってきた。とはいっても供え物はしなくてはならないので、困った村人達は、とうとう堤の周りで飼っていた鶏を米と一緒に木の箱に入れ、島に置いて来る事にした。鶏達は、次の朝になっても元気な声で鳴き、その鳴き声はそれからも毎日聞こえてきたので、村人達は不思議に思ったが、主の祟りを恐れ、堤の近くに立ち寄らなかった。ある日、鳴き声が聞こえなくなったのに気付いた男が、恐る恐る様子を見に行くと、島の上に鶏の姿は無かった。そこで思い切って島に渡って見たところ、地面に鶏の赤いが散らばっているのが見えた。ところが、男が島に着いたとたん、その羽根がぱあっと舞い上がり、空へ空へと昇って行き、とうとう見えなくなってしまった。この話を聞いて、きっと主の仕業に違いないと信じた村人達は、それからこの土地を赤羽根と呼ぶ様になったそうである。
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これと似た様な話が「上閉伊今昔物語」に紹介されていた。それも、紹介したい。

青笹村踊鹿の堤は天保元年、遠野南部氏の家士、百専右衛門という人が、自らの私財を投じて開墾したところであるが、これには次の様な話がある。

この村には、昔から三つの沼があった。これ等は自然の沼であるとも云い、又、年代がわからないが、往時築いた沼であるとも云われているが、地方の開拓が進むにつれ、灌漑用水が不足した。その為に、これ等の沼の近くに、桜の堤と呼んでいる沼を作った。それは遠野の家士、中館氏が開築したと云われている。

これ等四つの沼でも水不足の為、その付近は良田とする事が出来ず、荒野となっている所が多かった。しかも当時は飢饉の年がうち続いたので、開田を望む事が急であった。その為、屡々更に大きい堤を造るべく、土地を占ったり、又起工したりした人もあった。来内の孫之丞という人もその一人で、工事を起こしたが、水を保たせる事が出来なかったので、途中で中止したと云い伝えられている。この様にこの地は適当と思われなかったが、必要性に迫られ、先人の失敗にも怯まず、百専右衛門が開墾を企てたのであった。そして工事を起こすにあたって、この堤の主として永久に守ってもらう為に、鶏一番と米一俵を生贄として埋めたという事である。その為か、旧址に起工したにも拘らず、所期の如く、東西三十間南北六十間の新堤が翌年には完成したという事である。

この堤の竣工に伴って水田が開かれ、地方を豊かにした事は、言うまでもない事であるが、其の後屡々、雨降りなどの時に、この新堤の附近で鶏のトキをたてる声がしたという事である。古老は「これは恐らく、生贄にした沼の主である鶏が鳴いておったのだろう。」と言っている。

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「ものがたり青笹」と「上閉伊今昔物語」では、かなり違っているのがわかる。まず時代的に、女性を生贄にする事は有り得ない話だが、これは祭と菊池氏の結び付きを考えれば、別の話が加わっているのが理解できる。とにかく「ものがたり青笹」と「上閉伊今昔物語」とを一つ一つ比較検討したいのだが、取り敢えず「赤羽根」という地名説を紹介したいと思う。
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伊能嘉矩「遠野方言誌」によれば「赤羽根」は、「Akka(水)」「Pana(川下)」の組み合わせで「水の川尻」の意であるとしている。また「上郷聞書」によれば、上郷の菊池久次郎氏「山の走り根のところで山頭部の所である」という説も紹介している。また別に「上郷聞書」では「奥州仙台領遠見記」を紹介し「御境は閉伊郡平倉村のうち、赤八年と言」という記録がある事を紹介している。伊達藩との境界が赤羽根峠である事から、この赤八年が赤羽根を指すのでは、という事らしい。

まず伊能嘉矩のアイヌ語説は、地形的に有り得ないだろう。堤工事に苦労した事からも、水の確保が大変な地であった。川尻であるのなら、もっと容易に水の確保が出来、その地に水を供給する堤を作らずとも良かった筈である。また菊池久次郎氏の説は、確かに標高のかなり低い八幡山の山頭の様でもあるが、それならば遠野に、もっと多くの赤羽根がある筈である。例えば遠野がアイヌ語の「トオヌップ(湖のある地)」から来ているのなら、東北全体に遠野地名が数多く無くてはならないと同じである。そして「奥州仙台領遠見記」の「赤八年」だが、恐らく聞き間違いによる誤記ではなかろうか?伊達藩でそう書き記しているのだろうが、遠野全体に、似た様なものも含め、そういう表記は一切ない。
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ところで「ものがたり青笹」と「上閉伊今昔物語」での大きな違いは、鶏の扱いであると思う。「ものがたり青笹」では堤の主に生贄として池の島に、木の箱に入れた鶏を入れた事になっている。しかし「上閉伊今昔物語」では、堤の主になって貰う為に鶏を一番埋めたという事となっている。ここでまず、何故に鶏でなくてはならなかったのか。恐らくだが昔、京都では世の中が乱れたり、疫病が流行ったりした時などに、鶏に罪穢れを背負わせ、木綿幣と称する楮の木の皮で織った白い布を鶏につけて、四境の外に放したと云う。京都の四境とは、逢坂、龍田、鈴鹿、須磨となる。鶏は根の国・底の国の生き物と信じられていた。それで四境の関の外に出したのは、関が邪霊を塞き止めると信じられていた事に由来する。もしかしてだが、堰を関として考え、鶏を置いたのかもしれない。また番の鶏であったのは、「遠野物語拾遺28」の人柱の話で、「昔から人身御供は男蝶女蝶の揃うべきものであるから…」に則ったものか。「上閉伊今昔物語」の鶏の扱いは、明らかに堤工事が上手くいくようにと人柱の代わりとしての鶏の番であるが、「ものがたり青笹」は、堤の主に捧げる生贄としての鶏である。ただし霊的なものに頼るという事から、どちらも概念は同じである。
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ところで鶏を埋める話は、岩手県にいくつか伝わっている。山の地主を呪い殺す為に、その山に鶏を埋めて呪い殺した話。地頭を恨んで鶏に呪いをかけて共に死に、その地頭の部落に凶事が続き全滅した話。それから霧の濃い夜に鶏の鳴き声が聞こえるようになったという。老夫婦が可愛がる娘が殺され、その娘と一緒に鶏を埋めたところ、何かあるたびに殺した男の所から鶏の鳴き声が響く話。相手との争いから死んでしまった馬と一緒に鶏を埋めたところ、相手の村の地面から鶏の鳴き声が響き、それから村に凶事が起きた話。また、境界争いから不利益を受けた為に相手を呪おうと、その境界に二羽の鶏を埋めたところ”のろこと花”が咲き、村人は恐れたという話。このように、相手を呪う時に鶏を埋めている。

鶏を埋める話の殆どが、呪いをかける話になっている。堤工事に、例えば水神を鎮める為の贄として鶏を埋めた話は、この遠野の話だけとなっている。ただ別に、平泉の金鶏山は鎮護の為に黄金の雌雄の鶏を埋めて築いた山だと云い、雨が降る時に、この山から鶏の鳴き声が聞こえたと伝えられている。何故に、鶏を埋めるのか?

鶏は毎日朝の到来を告げる存在になっているが、その逆となった場合、例えば夜に鳴いた場合、火事や洪水、そして死者を出す前触れの鳴声だとされる。鶏を埋める場合は生き埋めの様だが、地面に埋めるとはつまり、黄泉国、地下の闇の国に送るという事になる。その地下の闇の中で鶏が鳴くという事は、夜に鳴くに等しいという事。岩手県の事例を見ていると、鶏と一緒に埋めているものは、その不幸を受けた存在。つまり、その不幸や凶事を相手に送り返す為に、鶏を一緒に埋めたのだと理解する。例えば平泉の場合であるなら、平泉の鎮護とは、その平泉を滅ぼそうとする相手を呪う事で、その鎮護を果たすと考えれば、有り得る話である。「上閉伊今昔物語」は、平泉の話に近いのかと思う。恐らく、堤の鎮護の為に埋めたのだとも考えられるだろう。
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山口健児「鶏」において、伊勢神宮の「鶏真似」という神儀が紹介されていた。伊勢神宮の式年遷宮の際、闇の中を正殿瑞垣御門内へ進み、まず扇にて頭の冠を三度打ち、続いて三回「カケコー」と高らかに唱えるのだと。すると正殿の扉が静かに開き、神殿の奥から御樋代が粛々と御出御になるのだと紹介されている。これを知ってふと思ったのは、鶏が鳴くと、夜が"アケル"という事だった。「アケル」とは「明ける」であり「開ける」でもある。伊勢神宮の正殿の扉が開くのは、鶏の霊的な鳴き声よるもの。ここで思い出すのは「驚岡(踊鹿)」という記事で書いた様に、踊鹿の以前は、鬱蒼とした光のなかなか当たらない無開発の地であったろうと推測した。おどろおどろしい地だから「おどろしい岡」が「踊鹿」になったのだと書いた。そこで思うのは「赤羽根」の「赤」である。

「日本語源大辞典」で「赤」の語源は、動詞「アク(開)」から別れた語で、明と同源となっている。「開」は「開発」の意味にもなる。また「羽根」の語源には、「ハ」という不安定な一音節を避ける為に、接尾語「ネ」を付けたものであるとしている。「ハ」そのものは「葉」の意味がある事から、「赤羽根」は「開く葉」という意味にもなるだろう。つまり、木々や葉っぱに覆われた鬱蒼とする踊鹿の地を開発する為の鶏の生贄であった可能性はあるたろう。そしてそのまま地名が「赤羽」となった経緯は、やはり鶏の「羽根」とも重なったのかもしれない。こうしていろいろ総合してみると、青笹の「赤羽根」という地名の由来は、開かれた地という意味ではなかったろうか。ただし、これは上郷町の赤羽根には対応していない。上郷町の赤羽根は、もう少し地形を見、伝承を調べてから考える事としよう。
# by dostoev | 2017-12-09 18:49 | 遠野地名考 | Comments(0)

黒白

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この地方では清水のハヤリ神が処方々に出現して、人気を集めることがしばしばある。佐々木君幼少の頃、土淵村字栃内の鍋割という所の岩根から、一夜にして清水が湧き出てハヤリ神となったことがある。

また今から十二、三年前にも、栃内のチタノカクチという所で、杉の大木の根元から一夜のうちに清水が湧き出で、この泉が万病に効くというので日に百人近い参詣人があった。その水を汲んで浴場まで建てて一時流行したが、二、三か月で人気が無くなった。五、六年前には松崎村の天狗ヶ森という山の麓に清水が湧きだしているのを、附馬牛村の虎八爺という老人が見つけ、これには黒蛇の霊験があると言いふらして大評判をとった。この時も参詣人が日に百人を越えたという。


                     「遠野物語拾遺44」

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佐々木君の友人で宮本某という人は土木業の監督をしているが、この人も行ってこの清水を拝んだと言う。その話に、泉の水を筆に含ませて白紙に文字を書くと、他の文字は書いてもよく読み難いが、ただ一つ早池峯大神と書く時だけは、少しも紙に水が散らないで、文字も明瞭に美しい。故にこのハヤリ神は早池峯山の神様に縁りがあるのだろうと。事実、虎八爺も最初は黒蛇大明神云々と声を張上げて祈祷をしていたのだが、後には早池峯大神云々と言っていたそうである。

                     「遠野物語拾遺46」

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赤坂憲雄「遠野/物語(第四章 色彩考 黒の世界)」を読むと、髪の色も肌の色も黒蛇も一緒くたにして紹介している事が気になっていた。自然の黒髪や、日に焼けての肌色と、神の使いである蛇を同列で考えてはいけないだろう。赤坂氏は、黒蛇をこう言い表している。「黒い蛇が神々の一類であることはたしかであれ、それは所詮、かぎりなく下級のいかがわしい神にすぎなかった。」と。「遠野物語」で印象になったという黒色から簡単に考えたのだろうが、黒蛇についての深い掘り下げも必要であっただろうと思う。

現代においての黒色は、どこか不吉なイメージがある。道路を横切る黒猫は不吉だという俗信や、黒いカラスの鳴声が死人が出るものとされる俗信などがあるのはやはり、葬式で張り出す黒白の幕の影響もあったのではなかろうか。その葬式の時に張る幕は、鯨幕と云い鯨の色合いから命名され、大正時代から広まったようだ。そして仏教側から言えば、黒は僧侶を意味し、白色は俗人を意味する事から黒白幕は、その意味も汲み取ってのものだろうか。また別の俗信では、黒は闇を表し、白色は死人の白装束を表す。その為、葬式の時に白い服を着る事が禁忌になっているのは、死者が白い服を着た者を仲間だと思い、葬儀の場から立ち去らずに成仏できないからだという俗信もある。
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伏見稲荷社の神符には、黒狐と白狐が描かれている。これは吉兆としての、黒狐と白狐として表現されている。ただし黒狐は、正式には"玄人・素人"の玄をあてての玄狐と書き表す。この「玄」を使用した、黒白の意味を持つ名前の有名人がいる。それは江戸時代の蘭学医である、杉田玄白となる。杉田玄白の名前は凶兆ではなく、吉兆から付けられた名前だった。とにかく黒白が、どこか不吉と考えられるようになったのは、現代になってからのようである。

ところで伏見稲荷の神符での蛇は、黒蛇はおらずに、どちらも白蛇となっている。これは宇迦御魂命の「宇迦」とは梵語で「白蛇」を意味するからだ。その為に、蛇も黒蛇と白蛇がいれば吉兆となる筈だろうが、そうは出来なかった。ここで考えたいのは冒頭の「遠野物語拾遺」に記されている黒蛇とは何かという事。動物として、黒の代名詞となるのは、やはりカラスだろう。神武天皇などを導いた黒いカラスは、どこか生へと導いているように思える。逆に、ヤマトタケルが死して白鳥になって飛んで行くくだりは、死へと導いているかのよう。
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折口信夫は「ものが生れ出る時には、すべて装飾を真白にしなければ、生れ出ない…。」と述べている。宮田登「ヒメの民俗学」によれば、白色は生と死の二つの面を両義的に表現すると考えている。「紫式部日記」で中宮彰子の出産の際「白き御帳にうつらせ給ふ」と、壁も全て白い産室に入った話は、白山と称する建造物に入る古儀に基づくものであったとしている。それは恐らく、疑似白山登拝であったとされる。白は浄化の色でもあったようだ。そこには死から生への転化が存在する。それ故、死んだヤマトタケルの魂は白鳥によって死へと導かれ、新たに生へと転化する役割としての白鳥であった。宮田登によれば、白色は女性の色でもあるかのような発言をしている。考えてみれば、歴代の元号の採用に、白い亀が献上され、神亀・霊亀などと元号が変更されている。白雉も、そのまま白い雉が献上された為の元号だ。つまり歴代の天皇は、黒色では無く白色を吉兆として意識していたのには、女性を意識していたのかもしれない…。
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日本で色を強く認識し始めたのは、恐らく陰陽五行が伝わってからではなかろうか。紀元前から銅鏡に刻まれる言葉の多くに「朱鳥と玄武は陰陽を順う」というものがある。朱鳥は南で、玄武は北。「日本書紀」によれば、大海人皇子であった天武天皇は、天文遁甲に長けていたと記されている。天文遁甲とは陰陽道であり、つまり陰陽五行となる。また天武天皇は、自らを後漢の高祖になぞらえていた。古代中国の皇帝の玉座は南とされている。だからこそ天武天皇もそれにならって、自らは南の朱鳥に坐し、元号を朱鳥としたのだと思われる。そして天武天皇は、不動の北を重視して陰陽を調えようとしたのだろう。北は、玄武である。ここで先の白い亀の献上による元号の変更を考えれば、白色は女の色である事を踏まえ、男であり"陽"である天皇は、"陰"である女性的なものを尊重する事により、陰陽を調えようと考えた事からの、元号変更ではなかったか?

ところで漠然とした北という方位を示すものは、星であり山であった。そして陰陽五行によれば、北の色は、黒色となる。「山(ヤマ)」の語源が様々ある中、自分が引かれるものに「山は水である。」という説がある。山はラマの転訛であり、「ラマ」とは「lama」即ち「ラマ教」から来ているのだと。「la」は「生命の根源」を意味し「ma」は「託すもの」の意。生命の根源は水であり、それを託す存在が山であるとなったとしている。山そのものが生命の根源であるという考えは、かなり納得するものである。山は、獣や樹木を生み出していると古代から信じられていた。また人々に恵みを与えたり、人に災いをもたらす川の水を生み出すのもまた山である。陰陽五行においての北であり黒色は「水気」を意味する。その水気に関わる生き物とは蛇であり、龍と認識されていた。

「遠野物語拾遺44」と「遠野物語拾遺46」に登場するハヤリ神は北を向き天ヶ森を水源としており、調べると天ヶ森と荒屋の沼御前と連動しているのがわかる。この沼御前の大元は、早池峯の神となる事から「遠野物語拾遺44」の虎八爺が黒蛇の霊験があると言いふらしたのは間違いではない。その後に黒蛇大明神から早池峯大神に変えたのは、その方が明確でもあった為だと思われる。黒蛇という種類の蛇は、遠野にはいない。恐らく虎八爺は、吉兆の意味で黒色と水からの連想で蛇が思い浮かび、黒蛇の霊験と言ったのだと想像できる。しかし、その土地の伝承からは早池峯山の影響が色濃く感じてはいたのだろう。だからこそ、黒蛇大明神から早池峯大神への変更には、疑問を持たなかったと思われる。あくまで黒蛇は、北に聳える山神の使いである。その本地が早池峯大神であれば、それを自然に唱えるのが普通であろう。黒と白という、両極端な色を説明するには、あまりにも簡単に書いてしまったが、黒色と白色に対する認識が時代と共に変化し、様々なものが加わっているようでもある為に、全ての説明は出来ない。例えば、左と右の使用法は、神と庶民で別れてしまうと同じに、黒色と白色もまた、場合によって変化してしまう。そんな黒色と白色を「遠野物語」「遠野物語拾遺」だけで考えてしまうという事自体が、無謀であるのは理解できる。だからいつかまた、この黒色と白色を取り上げて考えてみたいものである。
# by dostoev | 2017-12-08 18:29 | 民俗学雑記 | Comments(0)

驚岡(踊鹿)

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踊鹿(おどろか)という地名がある。それ以前は、"驚岡"という漢字表記であったようだ。一昔前、遠野の町外れにはキツネの関所と呼ばれる地がいくつかあった。一般的には、現在遠野市観光マップにも載っている五日市の狐の関所。釜石街道のへの出口には、鴬崎の狐の関所。松崎方面の出口には、加茂明神の畑中の狐の関所。花巻街道ならば、間木野の狐の関所。そして、宮古街道へは八幡山の驚岡(今では踊鹿となった。)の狐の関所。他に、やはり遠野の町外れにある愛宕神社下の鍋ヶ坂の狐の関所。盛岡街道となれば、赤坂の狐の関所などがある。

踊鹿という地名も印象的だが、それ以前の驚岡もまた印象的だ。「驚く」という表記を使用している事から、何となく民話的な響きを感じてしまう。狐の関所でもあった事から、やはり狐に驚かされた話があるのかとも察してしまう。ところが、この驚岡での狐の話では狐もまた人間によって驚かされていた。「ものがたり青笹」によれは、やはり狐の力によって昼間でありながら真っ暗闇になった話が紹介されている。


栗橋村に、駄賃付けをしている男がいた。いつも青笹の飯豊に泊って遠野の町に行っていた。ある日の朝早く、男は踊鹿の辺りを歩いていると、狐が何やら穴を掘っているのに出くわした。そこで男は、狐を驚かせてやろうと傍にあった柴を狐めがけて投げたところ、見事に命中したと。その後、男は遠野の町で用を足した帰り道、再び踊鹿に差し掛かったところ、突然辺りが真っ暗闇になったという。男は暫くおろおろと歩いたそうだが、暗闇に不安になり「助けてけろ!」と叫んだところ「どうした?ここは新堤だぞ?」という通りがかりの人物の声に、ふと改めて辺りを見渡すと、いつの間にか明るくなっていたという事である。これも狐の仕返しだったか…。
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この狐を驚かせた事によって、昼間なのに暗くなり、狐に復讐される話は「遠野物語拾遺118」「遠野物語拾遺203」にも紹介されている。


上郷村佐比内の佐々木某という家の婆様の話である。以前一日市の甚右衛門という人が、この村の上にある鉱山の奉行をしていた頃、ちょうど家の後の山の洞で、天気のよい日であったにもかかわらず、にわかに天尊様が暗くなって、一足もあるけなくなってしまった。そこで甚右衛門は土に跪き眼をつぶって、これはきっと馬木ノ内の稲荷様の仕業であろうと。

どうぞ明るくして下さい。明るくして下されたら御位を取って祀りますと言って眼を開いて見ると、元の晴天の青空になっていた。それで約束通り位を取って祀ったのが、今の馬木ノ内の稲荷社であったという。

                    「遠野物語拾遺189」
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遠野の元町の和田という家に、勇吉という下男が上郷村から来ていた。ある日生家に還ろうとして、町はずれの鶯崎にさしかかると、土橋の上に一疋の狐がいて、夢中になって川を覗き込んでいる。忍び足をして静かにその傍へ近づき、不意にわっと言って驚かしたら、狐は高く跳ね上がり、川の中に飛び込んで遁げて行った。勇吉は独笑いをしながらあるいていると、にわかに日が暮れて路が真闇になる。これは不思議だ、また日の暮れるには早過ぎる。これは気をつけなくては飛んだ目に遭うものだと思って、路傍の草の上に腰をおろして休んでいた。そうするとそこへ人が通りかかって、お前は何をしている。狐に誑されているのでは無いか。さあ俺と一緒にあべと言う。ほんとにと思ってその人についてあるいていると、何だか体中が妙につめたい。と思って見るといつの間にか、自分は川の中に入ってびしょ濡れに濡れておりおまけに懐には馬の糞が入れてあって、同行の人はもういなかったという。

                                                    「遠野物語拾遺203」

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驚岡の話も含めて、狐の仕業によって昼間なのに暗くなる話があるのだが、これとどうも豊臣秀吉が「おどろおどろしきことを語れ」と曾呂利新左衛門に命じて語られた「曾呂利物語」に由来するようだ。
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ある山伏が、昼寝をしている狐の耳もとで法螺貝を吹き鳴らした。狐は肝をつぶして逃げた。そのまま山伏が歩いていると、まだ昼間なのに暗くなってきた。泊る宿もないので、葬場の火屋の天井に上がっていると、死人が火の中から飛び出し、山伏に掴みかかってきた。山伏は気を失ってしまったが、気が付いてみると、まだ昼のうちで、しかもそこは火葬場でもなかった。狐の仇討であった。

                      「曾呂利物語」

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「驚」という漢字表記に気になり、狐の話を紹介してみたが、本来の狐の関所は現代の整備された地ではなく、それこそ狐が出そうな"おどろおどろしい場所"であったから、狐の関所とされた。「おどろおどろしい」の例文としては「陰気なおどろおどろしい景色」などと表現するが、簡単に言えば「不気味な場所」という意味になる。「おどろ」とは「棘」の事であり、それは「草木の乱れ茂った所。転じて、もつれからみあっていること。」という意味となる。恐らく驚岡の本来の意味は「恐ろしい狐の出そうな不気味な場所」としてあった地に、後から狐の話が加えられ稲荷神社が建立されたのだと思う。踊鹿稲荷神社の建立時期は不明だが、豊臣秀吉に聞かせた「曾呂利物語」の成立が17世紀になったからの事。豊臣秀吉は1598年(16世紀)没であるから、その死後に文章化されたのだろう。神社の建立に携わったのは大抵山伏であった事から、まだ開発されていなかった"おどろおどろしい"地に神社を建立し、それと共に「曾呂利物語」の焼き直しの話を加えたのは山伏であろう。
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踊鹿稲荷の社の反対側の少し離れた右側にも階段があり、そこを登ると森の中に画像の石灯籠がぽつんと一つだけある。これは何を意味するのか、よくわからない。ただその石灯籠を見、その場所の雰囲気も加えて思い出したのが、泉鏡花の俳句だった。

「五月夜や尾を出しそうな石どうろ」

まさに泉鏡花の俳句を現実のものにしそうな、踊鹿稲荷神社の石灯籠ではないか。是非、五月夜に行って欲しい場所である。
# by dostoev | 2017-12-07 12:04 | 遠野地名考 | Comments(0)

日本人の感覚

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小槌の釜渡りの勘蔵という人が、カゲロウの山で小屋がけして泊まっていると、大嵐がして小屋の上の木に何かが飛んで来てとまって「あいあい」と、小屋の中へ声をかけた。勘蔵が返事をすると「あい東だか西だか」と、また言った。どう返事をしてよいのか分からぬので、しばらく考えていると「あいあい東だか西だか」と、また木の上で問い返した。勘蔵は「何、東だか西だかあるもんか!」と言いざま二つの弾丸をこめて、声のする方を覗って打つと「ああ」という叫び声がして、沢鳴りの音をさせて落ちて行くものがあった。

その翌日行って見たが、何のあともなかったそうである。何でも明治二十四、五年の頃のことだという。

                      「遠野物語拾遺118」

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この奇妙な生き物の正体は、以前に検証したようにムササビであり、野衾で確定であろう。遠野では晩に飛ぶ鳥だから「晩鳥(バンドリ)」と呼ばれる。空を飛ぶものは鳥であるという認識が続いた為の命名であろうか。それよりも気になるのは、この物語を伝えた者がムササビの鳴き声を「あいあい」「あい東だか西だか」と聞こえた事である。

日本人は、獣や鳥、また虫の鳴声を細分化して認識していた稀な民族だと思う事がある。例えば以前、オランダ人が自分の飼育しているクワガタムシを見て「何故、こんな虫を飼育しているのですか?」と質問してきた事がある。聞くと、オランダだけでなくヨーロッパ全般で、こういう甲虫の類でも日本人がゴキブリを忌み嫌うように、ヨーロッパの人間は同じように忌み嫌うのだと述べた。小さな頃に夢中になって読んだ「ファーブル昆虫記」の作者であるファーブル氏はフランスの人だった。その業績をたたえてなのか、フランスの郊外にファーブル昆虫館なるものが建てられたようだが、訪れる人の大半は日本人であったという。アメリカも同様で、ハリウッド映画を観ていると、気持ち悪い表現として虫の群れを登場させる事がしばしばある。中には映画で小道具として使用する事から、ゴキブリを大量に飼育している施設もあるようだ。中には虫も平気な人はいるようだが、殆どのアメリカの人やヨーロッパの人達は、虫を一緒くたにして接し、忌み嫌っているようだ。だからアメリカ・ヨーロッパで「虫が好き」と言うと、変人扱いされる。ただネットが普及し、ヨーロッパの虫好きな人は日本人と交流を持ち、密かに虫の交換などをしている。とにかく虫好きは、アメリカ・ヨーロッパでは市民権を得ていないというのが現状のようだ。
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角田忠信「日本人の脳―脳の働きと東西の文化」を読むと、虫の声が聞こえるのは日本人とポリネシア人だけだと述べている。ただ、この本に対する批判もあり、日本民族や日本文化がいかに独特で凄いんだ!を強調する戦後に流行した似非科学だと指摘する人も多い。角田忠信は、虫の声を日本人は言語音を解する左脳の優位脳でとるが、ヨーロッパの人達は、右脳の劣位脳で雑音として聞いていると述べている。それが正しいかどうかはわからぬが、「リーン、リーン」「チンチロリン」「ルー・ルー」などと秋の虫の声を風流だと捉えて来た日本人の感性と、その虫の声を聞いても虫を忌み嫌うヨーロッパの人達の違いはあるのだと思える。西洋人にとっての"ビートル"は、日本人にとってカブトムシやクワガタムシになり、そのクワガタムシにも個体によって、様々な名称を付けた日本人は、虫に対して愛着を持つ世界に稀な人種と考えても良いと思う。
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日本では「堤中納言物語」の中の「虫愛づる姫君」が有名だ。女だてらに虫を愛づる姫君は、変わり者であるとされている。しかし「虫愛づる姫君」の冒頭に「人びとの、花、蝶やと愛づるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり。本地尋ねたるこそ、心ばへをかしけれ」と姫の心情が書き記されている。これはつまり、仏教思想の本地垂迹であり、虫の本地を大事に考え、蝶の本地の毛虫に興味を持つのは、仏教思想での天照大神の本地である大日如来に興味を持つ事に等しい。つまり虫愛づる姫君は、仏教思想を小さな虫というミクロコスモスの中に追い求めていたという事。様々な神仏がある様に、虫も様々な種類がある。その特徴の違いは形状であったり、色であったり。そして、鳴き声となる。
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西洋人が読めばゾッとする話が、日本には古くから伝わる。それは人の死後、虫になるという話だ。「新著聞集(1749年)」には、京都の飾屋九兵衛の下女の玉という女性が、僅かな給料を溜めて亡き両親を供養し、残りの給料は九兵衛に預けていたが、玉は病で死んでしまった。しかし魂は蝿になって九兵衛に纏わりつくので、九兵衛は玉が残した給料を寺に納めて回向すると、その蝿は死んでしまった。また「甲子夜話(1833年)」では、画家の谷文晃の家に、一羽の揚羽蝶がしばしば飛んで入り、いつの間にか文晃に馴れて来た。宴会の席にも舞い込み、文晃の杯の酒を舐めて去る事が往々にしてあったという。これは、恐らく人の魂が蝶となったものと考えられたようだ。

実は、平成の世の遠野でも実際に似た様な事があった。ある若者が事故で死んだのだが、その葬式の日に一匹のトンボが葬式の会場に入って来て、その兄の周りをつかず離れず飛廻っていた所に、死んだ弟と生前付き合っていた彼女が葬儀に訪れたという。その彼女は、死ぬ寸前まで一緒にいたそうだが、携帯電話のカメラでトンボを撮影していたのだと。そのトンボの画像を兄に見せたところ、今葬儀会場を飛んでいるトンボとそっくりであったという。それで兄は、虫好きだった弟がトンボになって来てくれたのだと思ったそうである。
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日本には「一寸の虫にも五分の魂」という言葉がある。これは、小さく弱い者にも、それ相当の意地や根性があるのだから、どんな相手でも侮ってはならないという例えとしているが、虫を引き合いに出す事が日本人らしいと思える。もしかしてだが、その一寸の虫の魂は、死んだ人間のものが入り込んだと考えてのものであったかもしれない。
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「吾妻鏡」「黄蝶が群れ飛び、鎌倉じゅうに充満した。これは戦乱の兆しである。天喜年間には陸奥出羽にこの怪事があり、平将門と安倍貞任が乱をおこした時にも黄蝶の群飛があった。」と記されている。蝶は人の魂の化身で、蝶の群れは人々の魂の不安を現したと考えられたようだ。また黒い大型の蝶をカマクラチョウと呼ぶ地域では、新田義貞の鎌倉攻めの時に死んだ武士達の魂が黒い蝶になったと信じられているようだ。上総の国では黒蝶が地獄蝶と呼ばれるのも、黒い大型の蝶は死霊であり、人魂の具現化と信じられたようだ。鴨長明「発心集(1215年)」にも、花好きの男が死後に蝶に生まれ変わった話もある。先に記した事からも含め、人は死後に虫になるという話は恐らく、日本独特のものではなかろうか。西洋に行けば、例えば蝿などはベルゼブブという悪魔と重なる不吉なものとなってしまう。

思うに、日本人は昆虫をも食してきたのだが、西洋ではそれほど普及していなかった筈。食に対する好奇心が虫に向かなかった為に、虫を軽んじた結果なのだろうか?ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」では、イナゴを食べていたとの言葉があった。実際に聖書にもイナゴを食料としていたとの記述もあるが、あくまでも生きる上での究極の食事であったようだ。魔法使いによって獣に化けてしまった王子様やお姫様の話は多いが、虫に化けさせられた王子様の話を西洋では見かけない。何故なら虫に変身した場合、カフカ「変身」と同じ様に言葉が通じないだろうし、恐らく相手に気付いて貰えなくなるので、虫になった王子様の物語は西洋では有り得ない物語となるのではなかろうか。そういう意味合いから、カフカ「変身」は、西洋文化に衝撃を与えたのかもしれない。ただ「変身」の主人公がなってしまった虫は、日本語訳では毒虫としてあるが、要は細かな虫の設定は無かったようだ。この「変身」という小説からも、西洋人は虫を忌み嫌い、そして虫を一緒くたにして考えているのが理解できる。もしも「変身」の作者が日本人ならば、細かな虫の設定をしただろうと思えるのだ。
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日本では、犬は「ワン」猫は「ニャー」が定番化している。そして他にも、実際に見た事は無くても「ホーホケキョウ」はウグイス。「カッコー、カッコー」は、カッコウの鳴声として認識できていると思う。今はどうかわからぬが、小学校の音楽で習った曲に、「虫のこえ」や「静かな湖畔」という曲があり、自然にマツムシやスズムシ、そしてカッコウの鳴声を脳に刷り込まれてしまう。そう、日本では学校で擬声語を学んでいる、もしくは脳に刷り込まれている。しかしこれは悪意のあるものでは無く、その生物に対して親しみを覚える様な配慮を感じる。

日本での犬は「ワン」猫は「ニャー」が、他国へ行くと様々な擬声語で表現されており「ワン」や「ニャー」に親しんだ日本人には、違和感しか覚えない。まあどれが正しいという訳では無いが、先に紹介した角田忠信「日本人の脳―脳の働きと東西の文化」によれば、日本人は虫の声を言語音を解する左脳の優位脳でとるが、ヨーロッパの人達は、右脳の劣位脳で雑音として聞いているという事から、鳴き声を聞き取り認識する脳が西洋人と日本人とでは違うので聞こえてくる鳴き声を、声や文字として表現する時に、まったく違うものになっているのは当然という事になるか。

脱線してしまったが、冒頭に紹介した「遠野物語拾遺118」のムササビの鳴き声、「あいあい」「あい東だか西だか」は聞き手が、その獣なりを人間と同等の存在として認識し、なるべく日本語として認識できるよう都合よく聞き取った話であると思う。自然の木々のざわめきや、金属のきしむ音や、楽器の奏でる音の中に、もしも僅かだけ日本語に聞こえる音が響いただけで、日本人は反応する。わけのわからぬ言語を聞いても、日本語らしい響きやフレーズに日本人が反応するように、自然界の音に対しても日本語で聞き取ってしまうのが日本人だと思う。例えば風によって木が軋む音が、まるで女の声に聞こえた場合、日本人はもしかして神霊・心霊ではないか?と考えてしまう人も多いと思われる。自然と八百万の神々に囲まれて育った日本人は、自然界の音も神秘的に捉えてしまいがちだ。だから「遠野物語拾遺118」は普通なムササビの話が、どこか神秘的な話に変換されて伝わったのだろう。
# by dostoev | 2017-12-06 08:36 | 民俗学雑記 | Comments(0)

遠野不思議 第八百六十九話「星鴉(ホシガラス)」

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高山に生息するホシガラスは、遠野では早池峯山にだけ生息する。それは、ハイマツの実を好む事からのようだ。その為、ホシガラスの知識が無いまま登山すると、初めて見る鳥に遭遇する事になる。自分もホシガラスの存在を知らないまま遭遇し、写真に撮影してから、後で調べたものだった。ただ「カラス」という名称が付いているのに、カラスにまったく似ていないので違和感があった。正確には、スズメ目カラス科ホシガラス属であるよう。
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ハイマツの実を好み、食べきれない実は地面に埋めたりするが、その埋めた実を忘れ、後から芽吹いて木も生えていない場所に森林が発生させた事もある為に「森林を再生する鳥」とも云われるようだ。
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ホシガラスの名前の由来は、体色は全体的にチョコレートのような黒茶色に、白い斑点が縞をなしている為、星空のように見える事から"星鴉"となったようだ。遠野で一番、星に近い早池峯山に生息する星鴉は、その名に相応しいと思う。
# by dostoev | 2017-12-05 14:15 | 遠野の野鳥 | Comments(0)