遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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盗まれる家紋と名前

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「徳川家当主が、徳川家家紋の商標登録に異議」 ←このような事件が起きた。この徳川家の家紋を登録したのは、水戸市のイベント会社。「お守り・お札」「日本酒」などに使用するとして、水戸徳川家の「葵(あおい)紋」に似たマークを商標として出願し、昨年12月に登録されたという。実は微妙に違うらしいが、パッと見た眼で、その違いが分かる人がどれだけいるだろう?家紋は武家社会で特に広まったが、家紋は単なる記号では無く、その一族の象徴であり、意識そのものでもある。よく「一族の名を汚さぬように」とか「家紋を傷つけないように」という言葉を、ドラマや映画で聞いた事があるが、実際にこの言葉を子孫に対して伝える家系も日本の社会には存在する。今回、家紋を商標登録された徳川家もそうだろう。つまり今回のこの事件は、徳川家にとって知らぬ間に魂を盗まれた事に等しいのだと思う。

また、少し前に、岩手県の久慈市を舞台にした「あまちゃん」というドラマの主演をした能年玲奈という女の子が、独立のドタバタの末、本名である"能年玲奈"という名前を使えなくなったそうである。子供が生まれて、その子供の名前を親が名付ければ、命名権は親にあるという事になる。しかし、能年玲奈の失敗は、親に命名権の有る筈の本名を、直接芸名として使用した事になる。芸名になるという事は、その名前が商品となるという事。所属したプロダクションに、本名を抑えられたからだ。例えば、紫式部も清少納言も本名では無いように、昔は本名を名乗る事は無かった。本名を明かす場合は、その明かす相手が、生涯の伴侶となる時だった。何故ならば、本名を明かせば呪いをかけられてしまう可能性があるからだ。さすがに、この現代となって呪いなどある筈も無いとは思うが、まさに能年玲奈は、本名を明かした為に、本名を盗まれるという呪いにかかってしまったという事だろう。以前にも書いた、瀬織津姫の商標登録の件も、神名を奪ったと云う行為は魂を奪うものであるから、神そのものを呪う行為に他ならないだろう。

ただ今回の一番の問題は、特許庁にあるだろう。なんでも政治家の名前は保護されているから、商標登録の対照にはならないと聞いた。しかしその代わり、それ以外の名前や家紋までもが商標登録の対照にしてしまうのは、いかがなものか。審査はあるみたいだが、今回の徳川家の家紋のように、日本全国に認知されている家紋そのものを、個人の商標登録に認可してしまうとは、特許庁の職員そのものの精神が、日本人の心と、かけ離れているのではないか?神名の商標登録も含め、今回の徳川の家紋も商標登録されたという前例を作れば、今後どういう者達が、何を商標登録するか心配になってしまう。何故ならば、日本国民以外に、日本に住んでいる住民と呼ばれる者には、外国人も含まれるからだ。日本人に親しまれたものでも"金の成る木になる"と判断すれば、どんなものでも商標登録する外国人が出て来てもおかしくはないだろう。

現実として、中国ではあからさまに、全世界のキャラクターを盗んで、国内で商品化している。韓国では、日本古来の文化や、商品やキャラクターまで堂々と盗んで起源を主張している。有名なのは、青森県のねぶた祭りに韓国人を参加させ続けたら、いつの間にか韓国内で似た様な祭が始まり、いつの間にか青森県のねぶた祭りは、韓国が起源であり、それを日本人が盗んだという事になりつつあるようだ。だから今回の徳川家の家紋の商標登録や、瀬織津姫の商標登録も含めて、これらを黙認していると、いつの間にか様々なものが知らない間に商標登録され、勝手に使用できなくなる可能性もあるだろう。実際に、瀬織津姫の名前が入った神社などの御札も、商標登録違反であるようなので、各家々の家紋も商標登録されれば、紋付き袴そのものが使用できなくなるという事になる。まずは法律を正すべきで、現在の特許庁をどうにかしないと大変な事になるだろう。
# by dostoev | 2016-11-05 21:32 | 民俗学雑記 | Comments(0)

河童と瀬織津比咩(其の八)

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水天宮の本社を紹介する前に、遠野の土淵を紹介しようと思う。何故に土渕かというと、現在遠野に住んでいる方々は実感できるかどうかわからないが、朝廷の都が藤原京だの平城京、そして平安京と遷都し続けた歴史があるように、遠野もまた遷都されてきた歴史がある。現在の遠野の街は、17世紀末以前までは、誰も住んでいなかった。現在の遠野は城下町であり宿場町であったと知られるのは、鍋倉山に横田城があったからだ。だがそれ以前は、高清水山の麓、光興寺に横田城があったのが、鍋倉山に遷都されたからだった。その間に為政者も、阿曽沼から南部氏に移り変わっている。阿曽沼氏は、奥州藤原氏が源頼朝により滅ぼされた後、その恩賞として遠野郷を授かったからだった。ただし細かな支配領地は、未だ定かでは無いが、光興寺に横田城を築いた事から、遠野の中心地は光興寺を含む松崎町であったのが事実である。そして、更なる以前はというと、それは恐らく土淵を拠点として北に続く松崎、附馬牛のラインであったろう。それは、早池峯への道筋でもあった。

「土渕教育百年の流れ」によれば「土渕の地名は、大字土渕小字土渕を通称土渕といって、土淵はここから出たという。ここには淵があって、常にその水が濁っており、その渕の底を見る事が出来なかったそうだが、アイヌ語で「河の穴」という意である。」と記されている。これを裏付ける様に「まつざき歴史がたり」には、猿ヶ石川に関する昔話が紹介されている。その話は、早池峯の麓にある又一の滝から始まる。

猿ヶ石川の始まりは、猿石からだとも云われるが、その猿石は又一の滝がある沢から発生しているのか、もっと西寄りの沢からだという説があるようだが、物語は又一の滝から発生している。その猿石が砕けて八つの石に別れ、その一つ一つが様々な淵に収まる様子が語られている物語である。一つ目の石は、地蔵岩が(次郎岩とも)あるという地蔵沢から始まっている。その地蔵沢は、遠野三山の三女神が最後の晩を過ごしたとも云われる沢だと伝えられる。土淵へ入ったのは五つ目の沢で、こう記されている。

「五つ目の石は、流れて来て広い場所を見付けて、俺はここに入りたいと言ったと。すると恩徳の不動様が何故だと訊いたら、俺はここの広い村にいて、この村を繁栄させたいと言ったので、お不動様がよしよしと言って許した。それまで、お不動様がこの村を見守っていた…。」

恐らくこの話は、修験の歩いた道筋を物語として語ったのではなかろうか。聖武天皇時代に、奥州で金が発見され、今まで輸入に頼っていた金を探しに、多くの修験者が奥州へ来たと云う。登山という文かが日本に入ったのは明治になってからだった。それ以前は、山とは遠くから眺め拝むものであった。ほぼ未踏の地であった山を修験者が登るには、砂金探しも含め沢を溯上するのが理にかなっていたようである。
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画像は、小烏瀬の滝と呼ばれるものだが、この水源は荒川高原に聳える一ッ石山の麓を源流とする沢の名前を"不動沢"という。不動という名称には、不動の滝や不動岩などがあるが、大抵は修験者が山を開拓した道筋に名付けられる場合が殆どである。つまり、この小烏瀬の滝から上流へ、修験者が歩き進んだ道であり、この小烏瀬川の滝が始点でもあり終点てせもあるのだろう。だからこそ、不動明王を祀る社が建てられている。
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そして、その不動堂の背後に、小さな社が三つ並んでいる。一つは、稲荷社。一つは、薬師大神を祀る社。そしてもう一つが、水天宮である。気付かれる方もいるとは思うが、不動明王と薬師如来が並ぶ姿とは、早池峯山と薬師岳を思い浮かべるだろう。ここでの注意点は、薬師如来ではなく、薬師大神となっている事だ。神仏混合となり、本地垂迹という概念が発達し、神は仏の同体とされたが、実際は仏の下の階級に零落した。しかし、ここでの薬師大神という名前は、まさに神と仏が同体であるかのよう。早池峯の麓、荒川から流れ落ちる不動沢とは、そのまま早池峯山麓の息吹を伝えるかのよう。恐らく、それを意図して、この小烏瀬の滝に祀ったのだろうと思う。そしてこの不動堂に古い時代、女人が住みついたとも伝えられる。それはもしかして、大迫の傀儡坂と同じ様に傀儡女であったのだろうか。傀儡女は水辺に住むと云い、その傀儡女に夢中になった男の話もある事から、身体をも売っていた傀儡女の可能性は高いであろうか。
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# by dostoev | 2016-11-04 20:01 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(4)

河童と瀬織津比咩(其の七)

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川の童で、河童。座敷の童で、座敷ワラシ。この物の怪の様な"童達"は、微妙にイメージを変えてあらゆるところに出没する。例えば「遠野物語拾遺63」では、華厳院に火事が起こった時、二人の童子が火消ししていたのは、二寸ばかりの小さな大日如来と不動明王像であったのかもしれないとされている。それかもしかして、不動明王の眷属である、矜羯羅童子と制多迦童子であったか、とも。

「聖徳太子伝記」に、ある晩の事、歌の上手い土師連八島の元にある童子が来て歌を競い合ったが、その声が普通の人の声とは違うので不思議に思ったが、その童子は空が開ける頃に、海に入って行った話を聞いて、聖徳太子はこう答えた。

「是は螢惑星と申す星なり。人間に軍兵・飢渇・不熟等の災難あらんと欲するの時は、彼星童子に形を現し、人間の者に相交りて、未来善悪の事を歌に作りて披露す。天に口無し、人の囀を以て事とす。」

この時代、神は童子の姿で世に化現し、童子に交じって遊ぶ中で、その意志を伝えるとされていたようだ。例えば座敷ワラシはよく、子供達の中に交じって遊ぶとされるのは、子供故と思われていたが、柳田國男曰く「神が零落し妖怪となった。」という説に則れば、まさしく子供達の中にこそ、神は交じって遊ぶのであり、それは地蔵や仏像が子供達と遊ぶのが好きという話に近似する。つまり、子供達に交じって遊ぶ神仏は、人間に対して意志を伝える前ふりでもあるという事。それを止めさせる事は、罪でもあるからこそ、それを止めさせた大人が祟りを受けたのだろう。例えで言えば、天皇様の詔を無視した罪という事になるのだろうか。

とにかく遠野には、川には川の童がいる。そしてそれが家に入れば、家の童となるとされ、もしかしてそれは本来、神であったものとして伝わったものが、物の怪に零落したのだろうか。しかし座敷ワラシは物の怪でありながら、神としての存在を示している。そして河童もまた、悪戯のお詫びとして薬などの秘伝を人間に授ける神に近い存在になっている。

また遠野には、人形に魂が吹き込まれ神になったオシラサマというものがある。ただオシラサマは、初めから神として作られた人形であるから、人形から物の怪に変化した河童とは違う立場にあるが、人形が神に昇格できる要素を示す事は出来るのだろう。「河童と傀儡と瀬織津比咩(其の六)」に書き記したように、人形を大黒柱など家屋のいづれかに組み込む事で、家屋を支える神にもなれるのである。つまり当初は人形であった河童が家屋に入って、家の支えとなる事によって、神、もしくは神の眷属となれる。それは結局、座敷ワラシになったという事になるのだろうか。
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若宮神社の例を確認すると、あくまでも河童は女神の眷属として存在し、その女神を祀る社の梁を護る存在にもなっている。若宮神社と同じ福岡県に瀬成神社という、やはり瀬織津比咩を祀り、河童を眷属とする神社がある。水神系に属する河童は、やはり水神の女神に仕えるのが通常なのだろう。「遠野物語拾遺33」は、まるで「肥前国風土記」に記される與止日女に関する話に近い。「肥前国風土記」の記述には「此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神鰐魚を謂ふ年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従ふ。」とある。とにかく水性の生物は、水神の女神に従うようである。

ところでこの肥前国一宮である川上神社(與止日女神社)に祀られる與止日女は、肥後国の日下部吉見氏が奉祭する母神"蒲池比咩"と習合していた。そして筑前糸島の桜井神社(與止日女宮)」で川上の與止日女は、瀬織津比咩と同神とされている。ここで早池峯の女神である瀬織津比咩が、九州における水神の大元である可能性が出て来た。そして福岡の河童の総本山というべき神社に、久留米の水天宮がある。そこには前回紹介した、渋江氏が関係しているのだが、その水天宮を紹介してみようと思う。
# by dostoev | 2016-11-03 16:18 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(0)

河童と瀬織津比咩(其の六)

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人形が河童になった話は、「河童と傀儡と瀬織津比咩(其の一)」で簡単に書いたが、その流れを続けよう。菊池氏の流れに、橘氏を祖とする渋江氏がいる。その渋江氏は、河童を使役する水霊祭祀の家柄で、菊池郡にある多くの神社の宮司も務める家柄である。そして肥前国杵島郡橘村(現在は佐賀県)に鎮座する、潮見神社社家の一族になる。この潮見神社の笠懸(流鏑馬)に、菊池第五代城主菊池経直が参加し落馬して死亡しているが、わざわざこの潮見神社に来ている事から、菊池氏と渋江氏との関係と信仰の深さを結び付けるものだろう。

「北肥戦志」には、渋江氏の祖である橘氏に関する河童譚が、潮見神社の縁起譚として紹介されている。聖武天皇の頃、橘諸兄が政道を補佐してからの後、孫に当たる兵部大輔島田丸が朝廷に仕えた神護景雲の頃、春日社を常陸国鹿島から奈良の三笠山へ遷宮する時に、この島田丸が匠工奉行を勤めたという。その時、内匠頭の菅原氏が九十九体(百体とも)の人形を作り、匠道の秘密をもって加持祈祷したところ童と化したのだと。その童達の力を借りて、遷宮という大事業が早く成就したのだという。さてその後に、その人形を川に捨てたところ、人や馬などを害するようになり、世の禍根となったそうな。それを知った称徳天皇が、兵部島田丸に対して、化人(河童)の災禍を鎮めよとの詔を下し、島田丸が早速その趣旨を河中水辺に触れ廻った以降、災禍が無くなったと云われる。それより河童を兵主部(ひょうすべ)と名付け、橘氏の眷属となったという事である。つまり以前に紹介した人形が河童になった話で一番古いものが、潮見神社の縁起譚でもある河童譚である。
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画像は以前に紹介した、若宮神社の社殿の梁を支える河童の彫刻である。春日大社の建築に携わった河童であるが、他の河童譚でも、城の造営や館の建造などにも携わっている事から、建築と河童が結び付いている。また、加藤清正の河童成敗の話もまた、清正の土木事業に携わった河童だと云われ、利根川の土木事業にも河童が携わっている。そこでフト思うのだが、例えば河川工事や橋の建築には、人柱があったとされるのは、水神に対する贄でもあった。それとは別に、家屋の建築においても大黒柱に人形を置いたりして、家屋の守護とする民俗が多々ある。民俗的に家屋や船の神霊は女性とも云われるのは、その神霊が女神であり、その眷属によって護るという意味があるのではなかろうか。つまり、若宮神社の場合は、女神とその社を支え護る為に、眷属である河童の彫刻を彫ったものと考えれば納得する。

遠野に伝えられる話に、川から河童が這い出して来て家に上り、座敷ワラシとなると伝えられる。座敷ワラシは家の守護でもあるのだが、その前身は河童だと云われるものを考慮すれば、若宮神社の梁を支える河童の彫り物は、その民俗を具現化したものとも考えられるのだ。ここで再度問われるのは、誰が遠野に河童伝承を運んで来たかという事になる。
# by dostoev | 2016-11-02 21:52 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(2)

また早池峯神社

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観光客を連れて、再び早池峯神社へと行ってきた。これで5日間に3度行った事になるのだろうか?参拝しようとして気になったのは、本殿内部にストーブがつけられていたという事。参拝後、境内を掃除しているお婆ちゃんに、今日は何があるのかと尋ねた。聞くと、今日は附馬牛小学校の子供達が歴史の勉強に来るのだそうな。

「今日は寒かったね!」

お婆ちゃんが、元気に語って来る。なんでも、急激に寒くなったので、一晩で銀杏の葉っぱが落ちてしまったのだと。その落葉掃除に、忙しい様だった。
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確かに、まだ色付いていない銀杏の葉っぱ、沢山落ちている。数日前には、まだ落葉していなかった筈だ。
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ふと気付くと、山門の方に子供達が来ている。どうやら宮司さんがついている様。
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しかし歴史の勉強に早池峯神社に来るというのは、昔では考えられなかった。昔は教科書の日本の普通の歴史を簡単にやるだけで、郷土の歴史など教わる機会は無かった。早池峯神社は、そのまま郷土の歴史の中に生きて来た神社であるので、こういう授業は自分も受けてみたかった。ただ、どういう内容を宮司さんが話しているのかはわからなかったが…。
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ここで早池峯神社を後にして、寄り道しながら帰る事にした。
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有名な山神の石碑傍の紅葉も、一気に紅くなったようだ。この前は、ここまで紅くなかった筈だ。秋の終りの落葉は、冬の訪れを告げるサインでもある。もう最低気温がマイナス気温になっている遠野だった。

# by dostoev | 2016-10-31 21:03 | 御伽屋・幻想ガイド | Comments(0)

遠野不思議 第八百五十話「座敷童子神社」

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正しくは、神社では無い。ところが「月刊ムー」などで、座敷童子神社として宣伝されているらしい。事の発端は、大出小・中学校が廃校になってからとの事。学校内を整理している時に、画像中央の子供の人形が見つかったそうな。この人形を見て自分の正直な感想は、どこにでもありそうな人形で、霊的な感じはしなかった。
                       
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平成19年3月に大出小・中学校が廃校となった後の平成22年6月12日に、遠野早池峰ふるさと学校としてオープンして、一般の方々が気軽に出入りできるようになった。この遠野早池峰ふるさと学校は、今まで子供達の教室だった部屋に、早池峯周辺の名称を付けて、様々なものを展示している。上の画像は"光り苔の間"という薬師岳に見られる光り苔の名を貰い、皆に光が当たるようにと名付けられた部屋であるそうな。その一角に、座敷童子神社がある。
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様々な人達が訪れているうちに、その光り苔の間で、子供を見たとか、ボールをつく音がしたとか、奇妙な目撃例や体験談が相次いだという。その原因が、廃校後に発見された人形に関係しているのではないかとされ、大阪の人が専用の社を作って寄贈してくれたそうな。魂入れをしていない為、神社では無いのだが、いつしか周囲が勝手に盛り上がり、だんだんと神棚らしくなっていき、いつしか座敷童子神社と呼ばれる様になったそうな。
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すると、この神社を目的に訪れる人々は、子供のお菓子だったりオモチャや人形を、この神社のお供え物として持って来る為、上の画像のようになっていた。数年前に火災で燃えた、やはり座敷ワラシが出ると評判になった二戸の緑風荘もまた、このように宿を訪れる人が子供用のオモチャなどで、座敷ワラシが出るという部屋を占拠していたのを思い出す。
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今年も座敷ワラシを期待して早池峯神社に行くという客がある程度いたが、何故か皆「ふるさと学校にも寄ります。」と言っていたのを、この座敷童子神社を見て、やっと理解した。とにかく知らない間に、新しい名所が登場したという事なのか。

# by dostoev | 2016-10-27 12:43 | 遠野各地の神社(その他) | Comments(0)

黄葉

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紅葉という漢字は、「くれないのは」と書いて「こうよう」とも「もみじ」とも読む。しかし「万葉集」には「紅葉」よりも「黄葉」と記されている場合が多い。つまり「紅葉」よりも「黄葉」の方が古い表記であったようだ。調べると一番古くは古代中国の「礼記」の月令に「是の月や、草木黄落す。」というのが初見らしい。その後に前漢の武帝「秋風辞」にて「秋風起り白雲飛ぶ、草木黄落雁南に帰る」と詠んだ事が、それ以降秋の色付きを「黄葉」と表記するようになり、それを日本が導入したらしい。

その後唐代となり、自然と紅葉の表記が見られ始め、白居易が、その紅葉を多用するようになり、白居易「白氏文集」が日本に伝わると、日本の平安漢詩人も注目し、その紅葉を積極的に取り入れたのが"菅原道真"であった。やはり、かなり進歩的な人物だったのだろう。そして「古今和歌集」から「紅葉」が一般的になり、現代まで続く。つまり、菅原道真がいたからこその「紅葉」であったのだろう。
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ただ、紅葉と黄葉だが、前漢時代に黄葉となった背景には、黄土平原の広葉樹の色付きが、まさに"黄落"という表現が当てはまる景色であったようだ。つまり黄葉から紅葉に変化したのも、目に入る景色が黄色よりも紅色が多かったという事もあったのか。
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例えば遠野でも、赤色が目立って染まっている場所があり、また別に黄色に染まっている場所がある。場所ごとに、紅葉と黄葉を使い分けても良いのかもしれないが、この時代「黄葉(もみじ)」表記に、なんとなく違和感を覚えるのは、既に「もみじ」とは「紅葉」と書き記すものだと定着してしまった感はある。
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又一の滝までの遊歩道は、紅葉ではなく黄葉の小道となる。黄色に染まる遊歩道を楽しみながら、又一の滝に到着するのが一興。
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まあ紅葉が、古代は黄葉だとしても、どちらでも良いのかもしれない。紫式部は、こう述べている。「春秋のあらそひに、むかしより秋に心寄する人は数まさりける」と。歌に詠われる季節は春よりも圧倒的に秋が多い。つまり、桜よりも黄葉に平安人は、心奪われたようだ。「拾遺和歌集」に、「春はただ花のひとえに咲くばかり 物のあはれは秋ぞまされり」と詠まれているのは、当時の流行は"もののあわれ"であったのだろう。だからこそ、桜の咲くや咲き乱れるという生命の息吹を感じる事象よりも、山の奥から色染まって行く、生を振り絞って枯れ果てる際の鮮やかな一瞬に、もののあわれを感じ称賛したのかもしれない。平安時代末期には末法思想が広がるなどした事からも、平安人は死を常に意識し、日常に組み入れていたのだろうか?だからこそ、もののあわれを感じる紅葉に、心寄せたのかもしれない。
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ところで菅原道真は、何故に黄葉から紅葉に積極的に変えようとしたのだろうか?眼前に広がる光景が、黄色が主体では無く紅であるなら、それは当然の流れであったと思う。しかしそれとは別に、黄色は死を意図するものであるからかとも考える。黄泉の語源は、黄色が陰陽五行で土を意味し、それが地下世界を暗示するものであるという事。「古事記」に登場する黄泉国は闇の世界でもあるが、黄泉(よみ)は闇(やみ)からきているとも云われる。葉は生じると同義である事から、黄葉は"闇が生じる"と捉える事が出来る。ただでさえ黄葉は、万物の枯れる様であり、死をイメージするのに対して、紅は血潮という生を彷彿させる色合いだ。紅葉とした場合、「血が生じる」「血色が良くなる」など、あきらかに生を意図する言葉が出て来る。そういう意味合いを考えた場合に菅原道真は縁起の良さを意図して、不吉な黄葉を捨て、積極的に紅葉を用いたのではあるまいか。
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# by dostoev | 2016-10-26 19:24 | 民俗学雑記 | Comments(0)

早池峯神社境内の紅葉

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今日の午後から雨が降るようなので、晴れ間が広まった午前中に、時間を見つけて早池峯神社の紅葉を見に行った。
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境内は、基本的に常緑樹がメインなので、紅葉はそれを囲む形で目に付く。
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しかし、その周辺の紅葉が、かなり鮮やかで目が魅かれてしまう。そして相変わらず、境内には誰もいなかった…。
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# by dostoev | 2016-10-25 19:04 | 遠野の自然(秋) | Comments(0)

幽霊と神様

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何となく、妙な漫画を買って読んでみた。漫画家と、自称霊能力者が登場して事故物件を見て回る話なのだけど、自称霊能力者にかかれば、いろいろなところに沢山の霊が現れるもよう。読んでいて感じたのは、幽霊と神様の違いとはなんぞや?という事だった。
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自称霊能力者曰く、土地が悪いから悪いモノが集り悪い事が起きるというのは、理解できる。風水を活用する人は、そういう気の流れを重視するもので、天武天皇がその先駆けの様な人物だった。しかし「余所から神様を持って来て蓋をする」という表現には説明が必要だろう。

神とは本来、祟り神であった。自然災害や疫病は、神の怒り、神の祟りとされた。そこで、神の怒りを鎮める為に、神社に祀って「怒りを鎮め下さい。」「祟らないでください。」と一生懸命祈願した。大抵は、山神であったり水神に対してだった。何故なら、山とは樹木が発生し、獣が発生し、そして水が発生するという万物の発生の地であると信じられていたようだ。早池峯の神が山の神であり水神であるのも、同じ事である。そして山に水源を有する水が流れて川となり、民衆に恵みを与えると共に、たまに荒れ狂って、その民衆を飲み込んでしまう。川の源は山であるから山神と水神が同一となって、早池峯大神という神様になっている。その早池峯大神である瀬織津比咩は、蝦夷が暴れる為に養老年間に熊野から船で運ばれて室根山に祀られた記録がある。また、坂上田村麻呂と悪路王との戦いの逸話に登場する鈴鹿御前は、鈴鹿山に棲む悪鬼であったという。それがいつしか坂上田村麻呂と恋仲となり、悪路王を討つ話は、その当時の朝廷の政策である「鬼を以て鬼を制する」であったのだと理解できる。例えば、前九年の役で安倍貞任を破ったのも、清原氏を味方に付けて背後から襲わせたのも、鬼を以て制する政策を体現したものであろう。

そして、ここでの「余所から神様を持って来て蓋をする」という事は、神という祟る神を持ってくるという事。朝廷から恐れられた菅原道真は、強大な怨霊として恐れられた。だからこそ祟り神として天満宮に祀られた。つまり神とは、怨霊でもあるという事。悪い土地に憑く地縛霊を抑え込むには「鬼を以て鬼を制す」であり、その地縛霊よりも強大な怨霊をもって抑え込むという考えが「余所から神様を持って来て蓋をする」という事になる。

ただ、漫画に書かれている別の言葉「だいたいその地域のじゃない神さまの神社はもともとすごく悪い土地だった」によれば、坂上田村麻呂に平定されるまで神社の無かった東北の地は、もともと悪い土地だったという事になる。まあ「日本書紀」での武内宿禰の言葉では、とんでもない地が蝦夷国であったらしい(笑)。しかし神社を建立するには、また別の理由もあったようだ。江戸時代後期の町人学者である山片蟠桃(1748~1821年)は、過去の歴史上の聖山の開山及び神社建立は、私利私欲の為であると批判している。それはつまり神社とは、産金の為の前線基地であったと。金を得る為に神を祀り、信仰を隠れ蓑としたとしている。例えば、始閣藤蔵は金を発見したらお宮を建てると早池峯の神に誓った。寺院もまた山号を持つのは、その山の金に関係するからだと云う。神社仏閣は、金から離れる事は出来ない。ただし金は利益であり財産にもなり、人が群がるものであるから、そういう思念の溜まり場にもなるので、確かに悪しき地にもなる。
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「死んで護国の鬼となる」として靖国神社に祀られた多くの魂がある。それは戦後の日本と家族を心配して、自ら鬼となると決意し死んでいった魂でもある。ところで「九鬼文書」というのがあるが、この文書では「鬼」を「かみ」と読む。鬼と云う言葉は古代中国から伝わったものだが、古代中国での鬼とは死霊のことである。つまり、靖国神社に祀られる英霊は、鬼でもあり神でもあるという事。出雲大社に祀られる大国主は、国譲りによって殺された魂であるなら、それはやはり出雲を死して護る為に鬼であり、神となったというのならば出雲神は、靖国神社に祀られる英霊たちと同質の魂でもある。

ところで、地縛霊と呼ばれるものがある。その土地や家に固執し、憑く悪霊と云われる。逆に言えば、神と同じにその土地であり、家を外敵の侵入から護る神にも近い存在が地縛霊であろう。その土地や家に誰かが侵入すると、その人間に取り憑くとも云われるが、神との境界線がよくわからない。神もまた、その土地であり山であり、家に憑く存在であるからだ。そして地縛霊と神に共通するのが、"祟る"という事。柳田國男は、妖怪とは神の零落した存在だと考えた。神が零落すれば、低級な妖怪にもなるという事だろうか。

神聖な地として認識される神社に対になるのは、穢れた地に佇む幽霊屋敷となろうか。現代では、御利益を期待して足を向ける神社に対して、幽霊による恐怖や祟りを期待して足を向けるのが、幽霊屋敷などの心霊スポットとなる。しかし例えば、怨霊として恐怖した菅原道真を天満宮に祀った後、恐る恐る参拝する行為は、幽霊屋敷に赴く感覚に近いのかも。つまり幽霊屋敷もまた、いつでも神社に成り得る可能性があるという事。

地面を踏んで怨霊を鎮めるというのは、相撲の四股に伝えられている。青森県に北斗七星型に点在する神社には、蕨手刀が埋まっていると云う。つまり、蝦夷の象徴でもある蕨手刀を神社に埋め、そこに信仰の力をもって人々に参拝させ地面を踏みしめさせ、怨霊を鎮めさせる意図から建立された神社なのだろう。これは道教の北斗踏みを用いた呪術であるようだ。ならば、心霊スポットもまた、その評判で多くの人が踏み込む事で、怨霊が鎮められる可能性もあるのではなかろうか。とにかく、神社と幽霊屋敷などの心霊スポットには、重なる部分が多い。となれば、神と幽霊の境界線が、よくわからない
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また、この漫画で違和感があるのが、自称霊能力者が語る地鎮祭についてだ。なんでも「土地を使う時は神様にお願いして、立ち退いてもらわないとダメなの。もしくはちゃんとお祀りするか。」と述べているが本来、地鎮祭とは神様を鎮めて土地を利用する許しを請うのが一般的。神様を、その土地から退ける地鎮祭とは、どの国で行われているものなのか?更に「この時、神主の力が足りなくて神様を封じ込めちゃったみたたい。」と述べているが、神様を封じ込める程の力を持った神主が、この世にいるであろうか?これを語っているのが、実在する自称霊能力者というのだから、霊能力者に対する胡散臭さは増すばかりである。
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また、水子の霊が多く居るとする屋敷の歴史を紐解いている時、どうやら赤線であったらしいという事がわかったのだが、ガサ入れから逃げれる為にドアがいっぱいあったと診断しているが、赤線は公認の売春で、ガサ入れがあったとしたら非公認の青線であったと思う。この水子の霊が多くある屋敷は、山の中腹にあるのだが、例えば遠野の鍋倉山の中腹、多賀神社の上にあった成就院の敷地内には、狐と呼ばれる売春婦がいた。恐らくそれは非公認の売春婦であったろうが、どこかで黙認されていたようだ。当然、現代とは違い、避妊具が無い時代であったから、生れた子供は処分しつつ売春を繰り返していたであろう。これは想像だが、成就院では、水子供養を行っていたのではないだろうか。これは一瞬思いついた事だが、明治時代に出来た智恩寺の敷地内に水子供養に関するものがあったのは、もしかして成就院のものを引き継いだものか?これについては、今度聞いてみようと思う。

土渕の常堅寺にも以前は、水子に関する供養碑が無数にあったが、間引きなどによっての水子供養は、いろいろな形で行われている。現代日本の死亡三大要因のトップは、人工中絶である。交通事故や癌による死亡よりも多いという事が、あまり知られていない。つまり、今も昔も世の中は、水子の霊で溢れているという事になる。そういう水子をあたかも特別視している自称霊能力者は、やはり胡散臭く感じてしまう。水子とは「古事記」において、伊弉諾と伊邪那美が失敗して生まれた子供を海に流したのが"水蛭子"であった事から来ている。しかし、水蛭子の解釈は様々あり、悪いものとは言い切れない。だから自分ならば、その屋敷に住めと言われれば、平気で住めると思う。もしかして、その水子が恵比寿という、利益を与える神に変貌する可能性もあるではないか。恵比寿は蛭子とも書き表し、それは水蛭子だともされている。神が零落して、妖怪や幽霊になるのなら、その幽霊が逆に神と成って、その家を繁栄させる可能性もあるのではないか。結局、神と幽霊の境界はよくわからないが、あまり気にせずに接するのが一番良いと思う。変に気にし過ぎて、胡散臭い自称霊能力者に騙されない事を願うものである。

# by dostoev | 2016-10-23 20:32 | 民俗学雑記 | Comments(4)

遠野物語 奇ッ怪 其ノ参

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たまたまトピアに置いてあったチラシが、目に入った。「遠野物語 奇ッ怪 其ノ参」とある。其の参という事は過去に、其の壱、其の弐があったという事か。一瞬、「遠野物語」の舞台劇かと思ったが、読んで見ると少し違った。「奇ッ怪」な話を語る事によって、自らの物語を浮上させ「遠野物語」と融合するという事だろうか?まあ百聞は一見にしかずで、とにかくこの話舞台を観なければ理解できないだろう。ただ、会場が岩手県民会館なので、盛岡まで行かなくてはならない。遠野でやって欲しいものだが、集客を考えれば仕方がないのか。自分は俳優を詳しく知らないが、出演者で唯一一人だけ仲村トオルという俳優だけ知っている程度だ。ただ、こういう舞台であるので、基本は舞台で名を成した俳優主体なのだろうか。
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# by dostoev | 2016-10-21 16:58 | 遠野情報(雑記帳) | Comments(4)