遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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荒御魂としての桜

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サクラの「サ」は、主に"田の神"を意味する"神霊の「サ」"と一般的に云われるが、あくまでも大和朝廷など主体の概念かとも思える。何故なら、遠野だけでなく岩手県全般に弥生遺跡は殆ど無く、縄文遺跡の上に奈良・平安の遺跡が重なっている。つまり、岩手県には弥生時代は殆ど無かったという事になろうか。温暖な秋田においては弥生遺跡はあるものの、縄文と混雑する斑状態であったという。例えば遠野周辺の地域を見てみても、山村の集落などでは昭和になってどうにか米が栽培されるようになったという地域もある。つまり岩手県の気候は米作りに適しておらず、現代となって米の品種改良により、寒冷地でもじゅうぶん育つ事の出来る米が開発された。それ故に今ではどこでも米作りが行われている。それでも米は貴重で重要な食料である為、大事な田植え時期と桜の開花が重なる事から、関連付けて考えられたのだろう。
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平安時代に花といえば桜を意味していたが、奈良時代の花といえば梅であったようだ。それでは奈良時代に桜は無かったのか?というと、そういうわけではないようだ。中国文化の影響により、梅の花を愛でる傾向があり、どうもそれに則って桜をさて置いて、梅の花を称賛したようだ。梅の花といえば、前九年の役の後に都へと連れられた安倍宗任に対して、都の人々は梅の花を見せ「奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろう。」と侮蔑し嘲笑したところ、安倍宗任は「わが国の梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と答え、都の人々を驚かせたと云う。これが史実化どうかはわからぬが、とにかく東北には桜も梅も古くから咲いていたのだと思われる。

東北における神社などの建設は、坂上田村麻呂以降になる。それまでは、山なら山に対して、ただ手を合わせるだけであったと伝えられる。そして恐らく、桜に対しての信仰の概念が存在していたのではないかとも思われる。8世紀前半に成立した「古事記」には、アイヌ語も含まれ使用されている事がわかっている。

「シンポジウム東北文化と日本」において、それ以前に不明とされていた「吾君(アギ)」をアイヌ語で解釈できるとした。1980年代以前は「吾君」をそのまま「わがきみ」という解釈としていたが、意味を成さないとされていた。ところが「アギ」はアイヌ語の弟などを意味する「アキ」ではないかとした事により、忍熊王が神功皇后に琵琶湖に追い詰められ、入水する時、家来の伊佐比宿禰に対して「いざ吾君、振熊が、痛手負はずは鳰鳥の淡海の湖に潜きせなわ」と歌った歌があるのだが、今まで家来に対して「吾君(わがきみ)」と呼びかけるのは不可解とされてきたが、それをアイヌ語の「わが弟よ」と解釈すれば、意味が通りやすくなった。これは「応神紀」で天皇が大山守命と大雀命に対し「汝等は兄の子と、弟の子といづれか愛しき」と問うのだが、大雀命は、弟の子に譲りたい心情を察していたので「兄の子は既に人と成りて、是れ悒きこと無きを、弟の子は未だ人と成らねば、是ぞ愛しき」と答えたのに天皇は反応し「佐邪岐、阿芸(アギ)の言ぞ、我が思うが如くなる」の阿芸も以前は「わが君」と解釈されていたが、不可解だとされていたのを、アイヌ語の「アキ」と解釈すれば、先ほどの天皇の言葉は「佐邪岐、弟の言った事が、自分の思う言葉だ」と、すんなり理解できるようになったという。

また「万葉集」の人麿の歌に「跡位浪立(あといなみたち)」というのがあり「とゐ波立ち」「あとい波立ち」と読んできたが意味が通じなかったそうで、そこでアイヌ語の「アトイ(海)」を採用してみると「海波立ち」とスンナリ理解できるようになったという。

アイヌ=蝦夷=陸奥というわけではないが、言語も含め蝦夷の思想や信仰も組み入れられた時代が8世紀であったのかもしれない。そして坂上田村麻呂の蝦夷征伐の後、天台宗などが布教に勤めたのが8世紀後半から9世紀になってからとなる。
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サクラの「サ」には、「栄える」「盛ん」「幸」という正の力を表す言葉であるが、「クラ」はその神が斎く台座という一般的な解釈になっている。先の述べた様に「サ」は田の神を意味する神霊の「サ」である事になっている為、山の神は稲作を守護する為に桜の花びらに宿り、田に下ってきて田の神となると信じられ、これが一般的なサクラの認識となっている。ただ、これから桜とは山に咲く花であり、やはり日本の桜の始めは山桜から始まったと理解できる。そして、山神と密接な関係にあるのが桜であるという事。古代の山岳信仰の中心となっていたのは、山神である。人々はその山神の棲まう聖なる山に咲く桜を、神の依代として欲した。桜を庭先に植え始めたのは後年の事。つまり、田の神となる山神を里に導く為に行われたのは、信仰の深さからくる桜の植樹であったのだろう。
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画像は、6月11日に撮影した早池峯に咲く桜。既に葉桜になっているが、その年にもよるのだろうが恐らく満開は6月前後となるだろう。遠野の桜の開花は、やはり年によるが5月前後となる事から、早池峯の桜の開花とは1ヶ月違う。しかし早池峯は遠野で一番の高山であるから、山桜はもっと低い山にも咲くものである。それでも里より桜の開花時期は、遅いのである。これからもわかるように山桜から始まった日本の桜の本来は、田植えの時期とは結び付いていない。
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画像は、6月の早池峯に散っていた桜の花びら。

古代の日本では、風で桜の花びらが桜吹雪として舞い散る時期は、疫病が流行る時期と重なったと云う。そこで、疫神として恐れられた三輪山の麓の大神神社では「鎮花祭」がおこなわれたのだと。ただ「鎮花祭」は大神神社に限定されるものではなく、他の多くの神社でも行われている。

「季の春、花鎮めの祭り謂ふ。大神・狭井の二つの祭りなり。春の花の 飛散の時にありて。疫神分散して癘を行なふ。その鎮遏の為、必ず この祭りあり。故に鎮花といふ。」【養老律令】

桜の花が飛び散る事により、疫病もまた広がると考えられた為「鎮花祭」では、桜の花が散らないように願った。当時の人々にとって、桜の花の呪力は相当のようで、桜の花に疫病の退散を願ってきた。そしてその鎮花祭では、歌が添えられる。

幣として桜の花を枝ながら 山の主に今ぞ手向くる

この歌は、疫病を穢れとみなし、桜の小枝は神の依代となるので、それに神を宿し、疫病を山の主に託して祓ってもらうというもの。また時期的に、稲の花の落ちない為の願いも込められていた。山の神が春に里に降りてきて、田の神となる。その田の神に稲の花が落ちないようにも託したのであったようだ。 つまり、山神とは"穢祓の力"を有する神という事になる。そしてこれは、遠野に伝わるオシラサマに通じる観念でもある。遠野のオシラサマは、顔の彫られた桑の木に着衣を重ねていくものであるが、古着とは穢れたものであるから、オシラサマに着衣を重ねるとは、穢れを重ねる事でもある。そしてその穢れを、オシラサマが祓うという事。つまりオシラサマには山神と同じ霊力が備わっているという事になる。
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遠野の白望山の背後に、金糞平という蹈鞴場がある。そこには長い樹齢を誇る山桜が咲いているが、採掘・治金の場にも桜が何故か植えられているのは、やはり山神への感謝の意であるか、山神を憑依させる依代としての桜であったのか。こういう蹈鞴場から作られるものに、諏訪大社で有名になった佐奈伎(サナキ)鈴がある。これは二荒山にも奉納されているものだ。

この「佐奈伎(サナキ)」「サ」を蹈鞴界では「表面が何も吸着していない純粋無垢の素肌の形容」として伝えられる。そして「佐奈伎(サナキ)」「ナキ」「精錬されたばかりの眞金、即ち純粋成分の金属」を意味するのだという。

サクラの「サ」の意味も、サナキの「サ」の意味も、どちらも純粋で正の力を示すものであるようだ。しかし「クラ」には神の座という意味の他に、古代の縄文人は「影」という意味を込めて使っていたようだ。
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闇龗神(クラオカミ)、高龗神(タカオカミ)は、貴船神社の祭神にもなっているが、闇(クラ)は谷あいの意味であり、高は闇(谷)に対して山峰を指している。龗・淤加美は、古来より雨を司る龍神とされている。つまりこの高龗神と闇龗神を合せて、山に棲む龍神を意味している。陰陽五行においては、この世には陽と陰があり、男と女がいて、光と影がある。山にもまた、突き出した峰があって、窪んだ谷がある。「闇(ヤミ)」という、夜を意味する言葉を「クラ」と訓じるという事は、即ち「クラ」が影を意味するという事でもある。

日本の神は、和魂と荒魂の二つの魂を持つと考えられていた。儀礼的には、和魂をうまく導入し、荒魂を退けると言っては語弊となるか。一層の繁栄を求める場合は和魂を求め、災難除けには荒魂を願うというのが正解か。つまり米と桜の関係は、米が和魂であり、桜が荒魂という事になろう。天皇と米は新嘗祭などからみても結び付きが強い。天皇の家紋が菊の御紋であるのも、その形状が太陽を示しているかのようで、まさに和魂を意図しているのではと思える。
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梶井基次郎「桜の樹の下には」という作品で有名になった"桜の樹の下に死体が埋まっている"という都市伝説らしきは、間違ってはいない。梶井はインスピレーションで書いたかのようであるが、桜が人間などの死体から滲み出る液体を吸い取って、あの妖しくも美しい花を咲かしていると感じたようだ。実際、桜の樹齢(ソメイヨシノ)が人間の寿命と近いと思われた事から、子供が生まれると庭先に桜を植え、その生まれた子供の痛みや苦しみ、そして悲しみまでもを吸い取って貰えるよう願った"人間の依代"と認識された桜でもあった。

桜は、人の穢れを地面の下へと水と共に吸い取り、黄泉国であり、根の国底の国へと流す役割を担う。祓戸四神の一柱である速佐須良姫は、本居宣長が須世理姫姫と比定している。同じく根の国に赴いた建速須佐之男命と「速」で重なるのが速佐須良姫である。その速佐須良姫に流し送る役割の初めが桜であり、桜の女神ともされる瀬織津比咩である。

佐久奈度神社に当初、一柱の神として祀られていた瀬織津比咩は、桜谷(佐久奈谷)において桜谷明神として存在していた。桜谷は、黄泉国に引き込まれるという死の匂いを伴った俗信を持つ谷であった。先に紹介したように、谷は闇であり、影でもある。その桜谷(佐久奈谷)は、桜の名所と言うわけでもなかったらしい。それはつまり、「サクラ」そのものが樹木としての桜だけではなく、闇でもあり影でもある荒御魂を意味する言葉であったからだ。正なる「サ」の影となるのが「サクラ」。神に例えればまさしく、和魂に対する荒御魂がサクラとなる。
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# by dostoev | 2017-03-07 19:33 | 民俗学雑記 | Comments(2)

鷹鳥屋

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戦国時代から安土桃山時代にかけて織田信長について書かれた「信長公記」という書に"遠野孫次郎が織田信長に白鷹を献上した"と記されている。遠野孫次郎は、阿曽沼氏が遠野氏とも称されていた事から、遠野孫次郎は阿曽沼氏だとされてきた。しかし、学者である大川善男氏によって、それは否定された。真意は定かでは無いが、小友町の鷹鳥屋が白鷹を飼育していた地である事から、織田信長に送った白鷹は鷹鳥屋産であろうとなっていたようだ。
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何となくだが、信長に白鷹を献上したので、鷹鳥屋という地名が付いたのかと思っていたが、どうもそれ以前には鷹鳥屋の地名はあったようだ。"お箱石"と呼ばれる巨石がある。この巨石の場が、鷹を訓練した地と云われている。「小友探訪」には「当時その白鷹を飼育せし地なるを以て、鷹鳥屋の地名出る。」と記されている事から信長に献上した後に"鷹鳥屋"という地名が付いた様にも思えるが、それ以前に阿曽沼氏の家臣による鷹鳥屋の館も築かれている事から、既に地名はあったものと思われる。
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ところで"鷹雉(たかとり)"と呼ばれる鳥がいる。実はこの鷹雉、"山鳥の古名"であり、現在遠野市を象徴する鳥として認定されている。鷹は「たか」であり、「たかとり」とは呼ばない。恐らく「たかとりや」と呼ばれる地名があり、後から信長に献上した鷹の話にちなんで鷹鳥屋という漢字があてられたものと察する。鷹鳥屋の地形は周囲を山に囲まれ、谷の合間の集落の様になっている。恐らく本来は「鷹雉の棲む谷」から「鷹雉谷(たかとりや)」と呼ばれていたものが、「信長公記」の一件から「鷹鳥屋」に変更されたのではと考えてしまう。この地には鷹も、かなり生息していただろうが、それよりも鷹の"獲物としての山鳥"が多く生息していた為の「鷹雉谷(たかとりや)」では無かったか。
# by dostoev | 2017-03-06 20:26 | 遠野地名考 | Comments(0)

河童探し

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兵庫県から、わざわざ河童探しに来た学生を、観光では知られていない河童の生息地へと案内した。冬のピークは過ぎたものの、まだ春というには気温がまだ低い。こういう時期でありながら、川原にでもテントを張って河童を探すのだという。
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ただ淀みの川や池などは、まだまだ凍っている為に、河童がいるのかどうかさえ疑わしい状況だ。画像の河童池も、水の流れのあるところは氷が張って無いものの、それ以外はほぼ凍っている状態。これじゃあ河童は、どこかへと引っ越しているか?
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テントを張る場所は、遠野市内にある十か所以上の河童淵の中でも「遠野物語」に記されているように、猿ヶ石川沿いにしたいとの事。果たして、この学生たちはどこにテントを張って河童探しをするのかはわからない。まあ、寒さに負けず、頑張って欲しいものだ。
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ところで、雪融けの田んぼに、沢山の白鳥が集まっていた。まるで難民キャンプかと思ってしまった…。
# by dostoev | 2017-03-05 16:44 | 御伽屋・幻想ガイド | Comments(4)

久慈星

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遠野生まれの遠野育ちでありながら、自分には遠野の血はまったく入っていない。両親がどちらも、久慈出身な為だ。久慈といえばもう数年前になるか、全く観てはいなかったがNHKの朝の連続ドラマ「あまちゃん」の舞台で有名になった、岩手県の北に位置する海の街でもある。

自分の知っている有名な久慈は、柔道の三船十段か琥珀くらいだった。その「ひさしくいつくしむ」「久慈」の語源はどこから来ているのか謎になっている。「久慈市史」を読んでも不明とされていた。もしかして、茨城県の久慈と関係があるのでは無いかとも考えたが、確証が無い。ところがある時、星に関する民俗の本を読んでいると「久慈星」というものを発見した。どうやら、天文暦象の諸事一般を載せた書を「日爾雅(くにが)」というらしいが、古事記編纂の時代に北辰が天上天下の根源を為す信仰が広がり、いつしか斗極(北辰)に久慈星という名が冠せられたのだと。つまり「日爾雅(くにが)」の「日爾」「くじ」とも読む。しかしこれでも、久慈市の久慈がここから来ているかといえば、少し弱い。ところが久慈という名称に、また別の説があった。

「儺の國の星」によれば筑紫では亀の呼称を「鼈龜(ぐず)」あるいは「渠師(ごうず)」と呼んでいたようだ。倭人はその音を「宮子(くうし)」と書き、陸奥九戸久慈などに伝わったとされている。ところが、古代中国では卜占の女人を宮子(ぐうず)と崇めたらしいが、それを宮姑(みやこ)とも呼び、陸中閉伊宮古に伝わったともされている。ただし根源が亀であるから、それが卜占としての「宮姑(みやこ)→宮古(みやこ)」と、北を玄武とする斗極の「鼈龜(ぐず)→宮子(くうし)→久慈(くじ)」の違いはある。つまり、岩手県の久慈市と宮古市は、どちらも北を意味する言葉であったという事。先の「日爾→久慈」も、北を玄武とする事で重なる。簡単に訳してしまえば「久慈」とは「北の亀」、つまり「玄武」という意味の地名となる。これは朝廷側の立ち位置により、岩手県の地名の多くは朝廷の北に位置する地域であるとして付けられたものであったか。
# by dostoev | 2017-01-30 14:58 | 民俗学雑記 | Comments(0)

岩手山の噴火と芭蕉

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昨夜、秋田県を震源とする地震があり、位置を確認すると、岩手山に近いと事から一瞬火山性地震か?などと思ってしまったが、そうではなかったようだ。岩手山の噴火は、大正時代まで遡るが最近は噴火の気配を出した時もあったが、どうにか噴火までは至っていない。ところで火山の噴火は神の怒りとされ、古代の人々は、その神の怒りを鎮める為に苦労したようだ。その火山の噴火を別に"天泣"と呼ぶ。確かに火山の噴火は、天を覆うほどの激しさであるから、イメージが湧く。そしてその天泣の別名を"魚涙"と云うそうだ。火山の噴火で、川の中に棲む魚も被害に遭って泣くという意味だろうか?

行く春や 鳥啼魚の 目は泪

上の句は、松尾芭蕉が奥の細道への旅立ちの時に詠んだ句である。一般的なこの句の訳は「うららかで花咲きそろう春は格別である。その春が行ってしまうのだから、鳥までもわびしさで泣いているように聞こえ、魚も目に涙を光らせているように思われるものだ。」しかし、火山の噴火の別名を「魚涙」と知ってしまうと、別の考えが浮かんでくる。

芭蕉が奥の細道に旅立ったのが1689年(元禄二年)の桜が咲く頃であったと。しかしそれが新暦でいえば5月16日という事から、疑問が残る。桜前線は、南から北に移動するように、必ず時差が生ずる。現在の東京での桜は4月前後に咲くのであるが、岩手県の桜は5月前後が一般的だ。春の花といえば桜の事で、「花の色はうつりにけりないたずらにわがみ世にふるながめせしまに」という小野小町の歌に登場する花は桜を意味している。それ故、芭蕉の句の訳として「花咲き揃う別格の春」とは、桜満開の春を詠っているものと思われるが、5月の東京での桜は、既に散っている。つまりこの芭蕉の句とは、これから向かう先の春を詠んでいる句ではないだろうか?

岩手山は1686年に噴火して、更に1687年に噴火している。恐らく岩手山が噴火したという情報は、芭蕉の耳にも入っていた事だろう。しかし、現在の情報伝達時代とは違い、冬をまたいだ1689年の春において芭蕉は未だ岩手山が噴火しているものと思っていたのではないか。それ故の俳句が「行く春や 鳥啼魚の 目は泪」とは、これから自分が向かう先の春は、岩手山の噴火で鳥啼き魚も泪しているに違いないという意味の句では無かっただろうか。
# by dostoev | 2017-01-29 11:08 | 民俗学雑記 | Comments(0)

馬に関する早池峯七不思議

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早池峯七不思議の中に「龍ヶ馬場の駒の声」「安倍貞任の軍勢の音」というものがある。安倍貞任の軍勢の音は、騎馬の音であるようだ。どちらも馬に関するものだが、現実には有り得ないもの。では何故、早池峯に馬に関係する話があるのか。

「遠野物語」に馬の登場する話は少なくないが、怪異譚となると「オシラサマ」の話か、もしくは「遠野物語拾遺264」になるのではなかろうか。「オシラサマ」は有名過ぎて、今更紹介する話でもないかもしれない。「遠野物語拾遺264」は、出棺時の話になる。
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出棺の時に厩で馬が嘶くと、それに押し続いて家人が死ぬといわれ、この実例もすくなくない。必ず厩の木戸口を堅く締め、馬には風呂敷を頭から冠ぶせておくようにするのだが、それでも嘶くことがあって、そうするとやはりその家で人が死ぬ。また葬送の途中に路傍の家で馬が嘶くような場合もある。やはり同じ結果になる。こういう際の異様な馬の嘶きを聞くと、死人の匂いが馬にも通うものであるかとさえ思わせられるという。

                     「遠野物語拾遺264」

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柳田國男「山島民譚集」によれば、葦毛は最も霊異なるものなると同時に、又最も厄災に罹り易いと述べており、その葦毛馬には、神も妖怪も乗るとされる。これには昼と夜との関係が深いようだ。人間の活動する昼は、太陽光の下であるが、神や妖怪の活動する夜は、月光の下となる為、馬は太陽光と月光の影響によって特性が変わる様である。夜の闇であり月光は、冥界であり黄泉国との繋がりが深いと信じられている。テオドール・シュトルム「白馬の騎士」に出現する月光を浴びて疾走する白馬の騎士は、水害を象徴するかのような存在だった。また、コシュタ・バワーという首無し馬の引く馬車に乗るデュラハンは、死を予言する存在。馬というものは人間が制御する乗り物でもあるが、その馬は夜になると、逆に人間を意図的に誘導する存在に変化する伝承が多い。「遠野物語拾遺264」においても、馬に風呂敷を被せるのは、死へ導く馬の鳴声を阻止する為。つまり馬は、黄泉国にも近い事が「遠野物語拾遺264」によっても証明される。
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古代には、方位が逆転して示される方位観があったそうだ。それ故に、北辰を"馬脛"とも呼んだ時代があったという。"馬の足"という夜道に出現する妖怪がいる。福岡県の那珂川沿いには、遅くまで遊んでいる子供に対し「馬の足の化物が来るぞ!」と言ったらしい。昼間は大人しい馬も、夜になると恐怖の存在に移り変わったようだ。先に紹介したテオドール・シュトルム「白馬の騎士」の物語では無いが、夜の馬を怖がるのは単に怪奇譚というだけでは無い。水辺に馬の怪奇譚があるのは、水害との関連があるようだ。「白馬の騎士」は津波との関係があったが、福岡県の那珂川でも川の氾濫と馬の関係が結び付いての怪奇譚であったよう。それは九州では、夏の大風は南方、方角でいえば午から襲来すると伝えられている。自然災害が、方位と結び付いて考えられた怪奇譚なのだろう。世界的にも「闇夜に聞こえる馬蹄は、洪水の前兆である。」とされている事から、北に聳える早池峯は、方角として子となるが、方位逆転の時代もあった事から午にもなる。更に白髭の洪水伝説が伝わるのも、早池峯に祀られる神が龍神であり水神の為であろう。早池峯神社の大祭では、神を乗せた神輿は真っ先に、早池峯神社境内にある駒形社へと行くのは、早池峯大神を乗せる為でもある。神というものは、自然災害を引き起こす存在でもある。それを乗せるのが馬でもある事から、早池峯に伝わる七不思議での馬の話は、水害に関係するものではなかろうか。つまり「龍ヶ馬場での駒の声」や「安倍貞任の騎馬軍勢の音」がもしも聞こえた時は、水害が起きるのだと伝える為の七不思議ではなかっただろうか。
# by dostoev | 2017-01-24 20:43 | 民俗学雑記 | Comments(0)

北(あべ)

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遠野の北に聳える早池峯山の上空には、北極星と北斗七星が輝く事からなのか、北辰であり妙見信仰とも結び付く山である。その早池峯山にはいくつかの安倍氏の伝承が伝わっているのも、安倍氏が早池峰信仰をしていたからに他ならない。そしてその安倍氏の出自が、未だにわかっていないのが現状だ。

安倍氏は蝦夷の豪族である事から、もしかしてアイヌの血を引いているのではないかとされたが、平泉金色堂に祀られていた安倍氏を祖とする奥州藤原氏のミイラのDNAを解析したところ、アイヌ系のDNAは無かったようである。また神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として長髄彦がいるが、その兄弟である安日彦(あびひこ)が安倍氏の祖ではないかとも云われる。安倍は「アビ」であり、火を意味するという。それが確かなら、安倍は火を意識して作られた氏名という事になる。

ところで気になるのは、早池峯がかなり北を意識された山であるという事。ただ、早池峯の古くは東峯という山名だったという説は、以前に自分が否定した。東とは太陽の昇る意を含むもので、現実的にそれが適用になるには岩手県の内陸部である花巻地域から盛岡地域にかけて望む早池峯に限っての事である為、それは恐らく南部氏の意向を汲みとった山名であったと思われる。水沢の正法寺の裏山を早池峯と称して、毎年正月に参拝するのは、北に鎮座する本来の早池峯山の遥拝所であった為だ。また、大迫の早池峯神社の向きが、遠野の早池峯神社に建てられたのも、遠野側の早池峯神社を経由して、北に鎮座する早池峯山を遥拝する為だった。南部氏が力を示す以前に建てられた大迫の早池峯神社が北を意識していながら"東峯"という山名であったとされるのは、東という漢字の用法からやはりおかしいのである。
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日蓮宗総本山久遠寺の山号は、身延山(みのぶさん)である。その身延山の山号は、妙見にちなんでいるという。その身延(みのぶ)とは「みのべ」の転訛であり、本来「みなのあへ」からきているとされる。「みなのあへ」の「み」は「三」であり、「な」は「四」であると。四三の星(しそうのほし)と呼ばれる星があるが、これは古くから伝わる北斗七星の古語になる。三と四の組み合わせで浮かぶのは、北斗七星。身延山が妙見を意識してのものならば、それはすんなり受け入れられる。そして「みなのあへ」の「あへ」とは、「北」そのものを云う言葉であった。「あへ」は濁点が付いて「あべ」にも転訛する。つまり「あべ」という言葉そのものが古来、北を意味していたという事になる。「あべ」が「北」を意味する言葉であるなら、"安倍貞任""魁偉"という北斗七星を意味する名称で呼ばれた事も、すんなり受け入れられるのだ。そして北に鎮座する早池峯山に、やはり北そのものを意味する安倍氏の伝承が存在するのも当然の事であった。
# by dostoev | 2017-01-21 13:16 | 安倍氏考 | Comments(0)

兎亀(とき)のかけっこ

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足の速いウサギと、足の遅いカメが競走をし、最終的にはカメが勝利する「ウサギとカメ(兎と亀)」の物語がある。

ウィキペディアによれば「イソップ寓話やラ・フォンテーヌが書いた寓話詩にも所収されている。 同じ素材の話がジョーエル・チャンドラー・ハリスの「リーマスじいやの話」にもあるが、内容は大きく異なる。日本には西欧との貿易が盛んになった室町時代後期以降に流入したとみられ、イソップ寓話を翻訳した伊曽保物語などによって近世以降に知られ始めた。一般に知られるようになったのは、明治になって教科書に採録されてからである。明治時代の初等科の国語の教科書には「油断大敵」というタイトルで掲載されていた。」

とにかく「油断大敵」という寓話で有名となった「ウサギとカメ」だが、俊足の象徴としてのウサギと、鈍足としての象徴のカメに、誰も違和感を抱いていなかった。しかし、俊足はオオカミでもシカでも良かったのではなかろうか。「ウサギとカメ」はイソップ寓話にも載っているものの、その話の原型がどこまで遡れるかわからないのではなかろうか。

実は「ウサギとカメ」の組み合わせで、気になるものがある。それは、亀占だ。亀占の歴史は紀元前の最古の王朝と云われる殷代後期が際立った時代だと云われる。その殷代では、亀占によって天道を占っていたというが、その時代の概念に「月に莵在り、日に亀在り」と信じられていた。毎日昇っては沈む月と太陽は、時間の運行に関与していた。その月と太陽を間接的に表現した生物が、兎であり、亀であった。それ故に、時間を示す「"時(とき)"」とは、「兎亀(とき)」から始まった言葉でもある。

そこでもう一度イソップ寓話の「ウサギとカメ」を思い起こして見る。ウサギとカメの到達点は同じなのだが、辿り着くまでの速度が違う。しかし、太陽は安定した速度と形で進むのだが、月は不安定な形に変化して、一旦消えてしまう(新月)存在でもある。その月の不安定さは、まさしく寓話のウサギの行動にも重なる。また時計の長針は、短針よりも見た目が派手に速く動いている様だが、到達する時間は同じとなる。つまり長針はウサギと同じ様に、いくら速く動いても、短針でありカメに勝てない存在でもある。この月日の兎亀の関係と、時計の長針と短針の関係が、何故か寓話「ウサギとカメ」に重ねてしまうのは、自分だけだろうか?
# by dostoev | 2017-01-20 19:43 | 民俗学雑記 | Comments(0)

一月の満月(雪女の襲来)

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小正月の夜、又は小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でゝ遊ぶ
とも云ふ。童子をあまた引連れて来ると云へり。

里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊びをして面白さのあまり夜になるこ
とあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるゝは常のこ
となり。されど雪女を見たりと云ふ者は少なし。


「遠野物語103」に記されているように、一月の満月の日は雪女が出ると伝わっている。その日が昨日の1月12日であった。今年の遠野は暖冬で、サラッと降った雪もすぐに融けたので、10日まで遠野の街には雪が殆ど無い状況だった。それが一転して11日から、昨日の12日にかけて寒気団が押し寄せ、一気に遠野全体が雪景色となってしまった。雪女は、冷気を伴うというが、まさしく今回の寒気団は雪女の襲来であったかのよう。
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# by dostoev | 2017-01-13 06:53 | 遠野の自然(冬) | Comments(0)

遠野不思議 第八百五十一話「鎌倉のねんずみ」

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からすぁ母親(あっぱ) 何処行った 万庶越えで 荘越えで 

麹(こおずけ)買えに 罷(まが)った 何升 麹買って来た

四升(すしょう) 麹買って来た

師匠(すしょう)どんの上臈は 神の前で孕んで 仏の前で坊産(な)すた

その坊の名は何と申します つくつん太郎と申します

つくつん太郎の御厩さ なんぼ馬ぁ 買え込んだ

四十六疋(すじゅうろっぴき) 買え込んだ

どの馬の毛色(けえろ)が良(え)え 油めって 照らめって

中の馬の毛色が良え 毛色の良え馬さ

貝に反った 鞍置えで 何処まで乗ってった 鎌倉まで乗ってった

鎌倉のねんずみは あんまり悪い ねんずみで

仏の油ぁ し盗んで 前髪(めぇがみ)にべったぁり 

後髪(うつしよがみ)に べったぁり

京の町に立ったれば 犬にワンとほえられで

明日の町に立ったれば 猫にニャンとえがまれだ

犬殿猫殿許しぇんしょう

戻りにぁ 酒買いましょう 百に米ぁ 一石 十文に酒ぁ 十ししゃげ

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上記の歌は「からすあっぱ」という"わらべ唄"となる。伊丹政太郎「遠野のわらべ唄」の中で、「からすあっぱ」は子守唄であるが、遠野のわらべ唄の中で"最も大切な唄"のひとつであると紹介されている。「からすあっぱ」とは、カラスの母親の意味であるが、ここでは熊野権現の使役カラスを意味しているのだと。ある程度の解説が「遠野のわらべ唄」には書かれているが、不明な点もいくつかある。その不明な点は取り敢えず省いて、全体を簡単に説明しよう。

どうやら二部構成になっている歌の様で、初めは熊野のカラスが酒を造る為の麹を買いに行き、つくつん太郎が生れて鎌倉へ行くまで。後半は、鎌倉での悪いネズミの話になっている。酒は霊力を持つ飲み物と理解されており、その酒を造る為の麹を四升買ったのだが、この四升は師匠にかけられているらしく、その師匠の上臈が子供を産んだ話となっている。師匠はどうも山伏系らしく、上臈は女中ではなく、ここでは妾という意味だろうか?もしくは白拍子か。

この「遠野のわらべ唄」では、仏を平清盛だとしている。遠野の昔(鎌倉時代以前)、多くの熊野修験の者が来て、遠野の民に、いろいろな事を教えたという。確かに遠野においても薬草などの山野草の知識や、民間療法は山伏が伝えたと聞く。その熊野修験の大元である熊野三山に対して多くの寄進をしたのが平清盛である事から仏の様な人、それが仏として、遠野のわらべ唄に歌われた様だ。平清盛は、奥州藤原氏とも血筋が繋がる様で、信仰も近似している。相対する源頼朝は、戦神でもある八幡大菩薩を信仰し、平家と共に平和を願う奥州藤原氏をも撃ち滅ぼそうとする悪者という認識があったのだと思われる。その源頼朝が後半"鎌倉のねんずみ"という形で登場している。

鎌倉のねんずみは あんまり悪いねんずみで

後半部の導入が、源頼朝の悪口から始まる。仏は平清盛を言うのだが、油は平家の勢力を表すのだと。木曽義仲や源義経に平家を攻めさせ、勝つ見込みが立ったところで攻め入った狡いやり方をしたのが源頼朝であったと伝わっていたようだ。また今まで奥州藤原氏の統治下でゆったり暮していたのだが、源頼朝の命を受けた阿曽沼氏が遠野を支配してから、厳しい年貢の取り立てに遠野の民は苦しんだという。これらの事から、源頼朝は悪い奴だと認識された。しかしおおっぴらに、それを言う訳に行かない。それをわらべ歌に託して伝えたのが、この「からすあっぱ」というわらべ歌であったようだ。
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ところで疑問なのは"つくつん太郎"とは、どういう存在なのか?「神の前で孕んで 仏の前で坊産すた」という神童らしい。例えば体の小さな者を「ちんちくりん」と評すのだが、遠野では訛る為に「つんつくりん」と言う。「つくつん太郎」を逆にすれば「つんつく」となり、訳すれば「ちいさな童」という意味になろうか?

「童謡(どうよう)」は、子供向けの歌を指すのだが、別に「童謡(わざうた)」とも読む。ところが童謡(わざうた)とは古代において、誰が作るともなく世間に流行った歌であり、民衆の間に広がる作者不明の流行歌という定義がなされている。ある意味、わらべ唄と同義でもある。平安時代中期に成立した「聖徳太子伝暦」という書に、歌の上手な八島という者がある晩突然訪問した人物と歌を競い合うのだが、その歌声が常にあらず、とても人の声には聴こえなかったという。歌合戦の後、その人物の後を追いかけて行くと、空が開ける頃には住吉の海に入って行ったそうな。それを聞いた聖徳太子は「それは、螢惑星でしょう。」と言った。聖徳太子曰く、その螢惑星とは火星の事で、色は赤く、南の空を司る星であると。この螢惑星は地上に降りて来て人の姿に変り、童子たちの間に入って一緒に遊び、好んで歌を作って未来の出来事を予言する様な歌を歌うと云われると答えた。また鎌倉時代末期に成立した「聖徳太子伝記」にも、似た様な事が記されており、微妙に違うのは、螢惑星を「人の世に戦乱や飢えや不作などの災難が起こる時、螢惑星が童子の姿に変身して地上に現れ、人々の間に交じって未来の吉凶についての歌を作り、広く人々に知らせる。」と説明している。最後に聖徳太子は、こう述べている「天に口無し、人の囀を以て事とす。」つまりこれは、流言などの噂話やわらべ歌が、天の意志であるという意味になる。天の意志は民の中に生きていると言って良いのかとも思う。恐らくだが、平清盛が開発したとされる禿という制度もまた、この聖徳太子の言葉を含んで制定されたものでせはなかったか?

置き換えれば支配者の耳を避けて拡がった「からすあっぱ」という遠野のわらべ歌こそ、民の意志であり、天の意志であったという事になるか。遠野の民を支配した阿曽沼氏も、秀吉の小田原征伐の後に没落し、代わりに南部氏が統治した。しかし振り返れば、遠野の民が一番幸せであったのは、阿曽沼氏以前であったのだろうか?それでは現代は、どうであろうか?
# by dostoev | 2017-01-06 20:23 | 遠野のわらべ唄 | Comments(0)