遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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兎亀(とき)のかけっこ

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足の速いウサギと、足の遅いカメが競走をし、最終的にはカメが勝利する「ウサギとカメ(兎と亀)」の物語がある。

ウィキペディアによれば「イソップ寓話やラ・フォンテーヌが書いた寓話詩にも所収されている。 同じ素材の話がジョーエル・チャンドラー・ハリスの「リーマスじいやの話」にもあるが、内容は大きく異なる。日本には西欧との貿易が盛んになった室町時代後期以降に流入したとみられ、イソップ寓話を翻訳した伊曽保物語などによって近世以降に知られ始めた。一般に知られるようになったのは、明治になって教科書に採録されてからである。明治時代の初等科の国語の教科書には「油断大敵」というタイトルで掲載されていた。」

とにかく「油断大敵」という寓話で有名となった「ウサギとカメ」だが、俊足の象徴としてのウサギと、鈍足としての象徴のカメに、誰も違和感を抱いていなかった。しかし、俊足はオオカミでもシカでも良かったのではなかろうか。「ウサギとカメ」はイソップ寓話にも載っているものの、その話の原型がどこまで遡れるかわからないのではなかろうか。

実は「ウサギとカメ」の組み合わせで、気になるものがある。それは、亀占だ。亀占の歴史は紀元前の最古の王朝と云われる殷代後期が際立った時代だと云われる。その殷代では、亀占によって天道を占っていたというが、その時代の概念に「月に莵在り、日に亀在り」と信じられていた。毎日昇っては沈む月と太陽は、時間の運行に関与していた。その月と太陽を間接的に表現した生物が、兎であり、亀であった。それ故に、時間を示す「"時(とき)"」とは、「兎亀(とき)」から始まった言葉でもある。

そこでもう一度イソップ寓話の「ウサギとカメ」を思い起こして見る。ウサギとカメの到達点は同じなのだが、辿り着くまでの速度が違う。しかし、太陽は安定した速度と形で進むのだが、月は不安定な形に変化して、一旦消えてしまう(新月)存在でもある。その月の不安定さは、まさしく寓話のウサギの行動にも重なる。また時計の長針は、短針よりも見た目が派手に速く動いている様だが、到達する時間は同じとなる。つまり長針はウサギと同じ様に、いくら速く動いても、短針でありカメに勝てない存在でもある。この月日の兎亀の関係と、時計の長針と短針の関係が、何故か寓話「ウサギとカメ」に重ねてしまうのは、自分だけだろうか?
# by dostoev | 2017-01-20 19:43 | 民俗学雑記 | Comments(0)

一月の満月(雪女の襲来)

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小正月の夜、又は小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でゝ遊ぶ
とも云ふ。童子をあまた引連れて来ると云へり。

里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊びをして面白さのあまり夜になるこ
とあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるゝは常のこ
となり。されど雪女を見たりと云ふ者は少なし。


「遠野物語103」に記されているように、一月の満月の日は雪女が出ると伝わっている。その日が昨日の1月12日であった。今年の遠野は暖冬で、サラッと降った雪もすぐに融けたので、10日まで遠野の街には雪が殆ど無い状況だった。それが一転して11日から、昨日の12日にかけて寒気団が押し寄せ、一気に遠野全体が雪景色となってしまった。雪女は、冷気を伴うというが、まさしく今回の寒気団は雪女の襲来であったかのよう。
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# by dostoev | 2017-01-13 06:53 | 遠野の自然(冬) | Comments(0)

遠野不思議 第八百五十一話「鎌倉のねんずみ」

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からすぁ母親(あっぱ) 何処行った 万庶越えで 荘越えで 

麹(こおずけ)買えに 罷(まが)った 何升 麹買って来た

四升(すしょう) 麹買って来た

師匠(すしょう)どんの上臈は 神の前で孕んで 仏の前で坊産(な)すた

その坊の名は何と申します つくつん太郎と申します

つくつん太郎の御厩さ なんぼ馬ぁ 買え込んだ

四十六疋(すじゅうろっぴき) 買え込んだ

どの馬の毛色(けえろ)が良(え)え 油めって 照らめって

中の馬の毛色が良え 毛色の良え馬さ

貝に反った 鞍置えで 何処まで乗ってった 鎌倉まで乗ってった

鎌倉のねんずみは あんまり悪い ねんずみで

仏の油ぁ し盗んで 前髪(めぇがみ)にべったぁり 

後髪(うつしよがみ)に べったぁり

京の町に立ったれば 犬にワンとほえられで

明日の町に立ったれば 猫にニャンとえがまれだ

犬殿猫殿許しぇんしょう

戻りにぁ 酒買いましょう 百に米ぁ 一石 十文に酒ぁ 十ししゃげ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上記の歌は「からすあっぱ」という"わらべ唄"となる。伊丹政太郎「遠野のわらべ唄」の中で、「からすあっぱ」は子守唄であるが、遠野のわらべ唄の中で"最も大切な唄"のひとつであると紹介されている。「からすあっぱ」とは、カラスの母親の意味であるが、ここでは熊野権現の使役カラスを意味しているのだと。ある程度の解説が「遠野のわらべ唄」には書かれているが、不明な点もいくつかある。その不明な点は取り敢えず省いて、全体を簡単に説明しよう。

どうやら二部構成になっている歌の様で、初めは熊野のカラスが酒を造る為の麹を買いに行き、つくつん太郎が生れて鎌倉へ行くまで。後半は、鎌倉での悪いネズミの話になっている。酒は霊力を持つ飲み物と理解されており、その酒を造る為の麹を四升買ったのだが、この四升は師匠にかけられているらしく、その師匠の上臈が子供を産んだ話となっている。師匠はどうも山伏系らしく、上臈は女中ではなく、ここでは妾という意味だろうか?もしくは白拍子か。

この「遠野のわらべ唄」では、仏を平清盛だとしている。遠野の昔(鎌倉時代以前)、多くの熊野修験の者が来て、遠野の民に、いろいろな事を教えたという。確かに遠野においても薬草などの山野草の知識や、民間療法は山伏が伝えたと聞く。その熊野修験の大元である熊野三山に対して多くの寄進をしたのが平清盛である事から仏の様な人、それが仏として、遠野のわらべ唄に歌われた様だ。平清盛は、奥州藤原氏とも血筋が繋がる様で、信仰も近似している。相対する源頼朝は、戦神でもある八幡大菩薩を信仰し、平家と共に平和を願う奥州藤原氏をも撃ち滅ぼそうとする悪者という認識があったのだと思われる。その源頼朝が後半"鎌倉のねんずみ"という形で登場している。

鎌倉のねんずみは あんまり悪いねんずみで

後半部の導入が、源頼朝の悪口から始まる。仏は平清盛を言うのだが、油は平家の勢力を表すのだと。木曽義仲や源義経に平家を攻めさせ、勝つ見込みが立ったところで攻め入った狡いやり方をしたのが源頼朝であったと伝わっていたようだ。また今まで奥州藤原氏の統治下でゆったり暮していたのだが、源頼朝の命を受けた阿曽沼氏が遠野を支配してから、厳しい年貢の取り立てに遠野の民は苦しんだという。これらの事から、源頼朝は悪い奴だと認識された。しかしおおっぴらに、それを言う訳に行かない。それをわらべ歌に託して伝えたのが、この「からすあっぱ」というわらべ歌であったようだ。
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ところで疑問なのは"つくつん太郎"とは、どういう存在なのか?「神の前で孕んで 仏の前で坊産すた」という神童らしい。例えば体の小さな者を「ちんちくりん」と評すのだが、遠野では訛る為に「つんつくりん」と言う。「つくつん太郎」を逆にすれば「つんつく」となり、訳すれば「ちいさな童」という意味になろうか?

「童謡(どうよう)」は、子供向けの歌を指すのだが、別に「童謡(わざうた)」とも読む。ところが童謡(わざうた)とは古代において、誰が作るともなく世間に流行った歌であり、民衆の間に広がる作者不明の流行歌という定義がなされている。ある意味、わらべ唄と同義でもある。平安時代中期に成立した「聖徳太子伝暦」という書に、歌の上手な八島という者がある晩突然訪問した人物と歌を競い合うのだが、その歌声が常にあらず、とても人の声には聴こえなかったという。歌合戦の後、その人物の後を追いかけて行くと、空が開ける頃には住吉の海に入って行ったそうな。それを聞いた聖徳太子は「それは、螢惑星でしょう。」と言った。聖徳太子曰く、その螢惑星とは火星の事で、色は赤く、南の空を司る星であると。この螢惑星は地上に降りて来て人の姿に変り、童子たちの間に入って一緒に遊び、好んで歌を作って未来の出来事を予言する様な歌を歌うと云われると答えた。また鎌倉時代末期に成立した「聖徳太子伝記」にも、似た様な事が記されており、微妙に違うのは、螢惑星を「人の世に戦乱や飢えや不作などの災難が起こる時、螢惑星が童子の姿に変身して地上に現れ、人々の間に交じって未来の吉凶についての歌を作り、広く人々に知らせる。」と説明している。最後に聖徳太子は、こう述べている「天に口無し、人の囀を以て事とす。」つまりこれは、流言などの噂話やわらべ歌が、天の意志であるという意味になる。天の意志は民の中に生きていると言って良いのかとも思う。恐らくだが、平清盛が開発したとされる禿という制度もまた、この聖徳太子の言葉を含んで制定されたものでせはなかったか?

置き換えれば支配者の耳を避けて拡がった「からすあっぱ」という遠野のわらべ歌こそ、民の意志であり、天の意志であったという事になるか。遠野の民を支配した阿曽沼氏も、秀吉の小田原征伐の後に没落し、代わりに南部氏が統治した。しかし振り返れば、遠野の民が一番幸せであったのは、阿曽沼氏以前であったのだろうか?それでは現代は、どうであろうか?
# by dostoev | 2017-01-06 20:23 | 遠野のわらべ唄 | Comments(0)

鳥の雑文

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酉年という事で、鶏などについて雑文をば少々。ニワトリというと、夜明けを知らせる鳥として有名となっている。昔話で、鬼などの魔物に襲われていても、ニワトリの鳴声によって夜明けが近い事を知ると、魔物たちは慌てて逃げていく様が、よく描写されている。夜明けを嫌う者は西洋になると、吸血鬼になるのだろうか。太陽光線を浴びると、身体が崩壊するのだと、子供の頃によく見た吸血鬼の映画で認識している。しかし、西洋の吸血鬼映画にはニワトリは登場しない。考えてみれば吸血鬼映画とは、基本的に吸血鬼退治映画であるから、前もって日の出を知らせるニワトリは邪魔な存在になってしまうのかも。
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とにかくニワトリの鳴声は、朝を知らせる。それを利用して魔物を撃退する物語は、どこかでホッとするものだが「伊勢物語」では、そのニワトリの鳴声を口実に、まるで魔物から逃げるかのように女から逃げる男を表現している。しかし、女の歌を知ると、その女は確かに魔物であったかのよう。

夜も明けば水桶にはめなで腐鶏の まだきに鳴きてせなをやりつる

(夜が明けたらこの腐れ鶏を水桶にぶちこんでやろう! この鶏が夜も明けないのに、あんなに鳴いてあの人を帰してしまったから。)

逃げた男とは、色男で有名な在原業平であった。どうやら、田舎女に興味を示したものの、"用を済ませた"ので早く立ち去りたい在原業平が意図的にニワトリを鳴かせたようにも思える話である。上の歌は、女の気性の激しさは、まるで正体を隠す魔物の様。話を変換すれば、在原業平が知恵によって、魔物から逃げた話にもなり得る。ところで田舎とは陸奥国なのだが、この田舎の女が在原業平に恋い焦がれ詠んだ歌が、下記の歌。

なかなかに恋に死なずは桑子にぞ なるべかりける玉の緒ばかり

(なまじ恋焦がれて死ぬよりも、いっそ夫婦仲の良い蚕になった方がまし。蚕の命は短いけれど…。)


蚕は虫であるから人間より寿命は短いもの。ここで気になったのは、"夫婦仲の良い"と詠っている事だ。もしかしてだが、オシラサマの話が伝わってのものではないかと勘繰ってしまう。オシラサマの話は、若い娘が許されない恋心から白馬と共に、天に昇る(死んでしまう)という話だが、生前は確かに若くしての死であるから寿命は短いと思われている。もしかしてこの時代にオシラサマの話は、陸奥国に留まらない形で広まっていたのだろうか。
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再び「伊勢物語」になるが、雁の鳴声を娘の心情(実は母親の心情)に重ねている歌がある。

みよし野のたのむの雁もひたぶるに 君が方にぞよると鳴くなる

(三吉野の田の面に降りている雁でさえも、ひたすらあなたに慕い寄るという気持ちで鳴いております。娘も同じ心であなたを頼りにしておりますよ。)


雁の鳴声さえも総動員して、身分の高い在原業平を引き留めようとする歌だが、生粋の女好きの在原業平は、一人の女に留まる事が出来る筈も無く、ただ渡り鳥の雁の様に去って行く。ここでは鳥の鳴き声を、どう捉えるかだが「伊勢物語」は在原業平の女性遍歴の作品みたいなものだから、鳥の鳴声=女の泣声にも感じてしまう。その前に、泣くという行為そのものが、男よりも女に与えられた行為の様で、男も泣くは泣くのだが「男なら泣くな」という言葉が、かなり昔から伝わっている様に、逆に「女なら泣いても良い」という認識があったのだろうと思える。だからこそ、鳥の鳴き声は女の泣き声に重ねて表現しているのだろう。
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角田川(隅田川)で船に乗った在原業平は、白い鳥を見て船頭になんという鳥なのか聞く。「これなむ都鳥」と聞いて、なんと京の都にいる二条の后を思い出す。都鳥とはユリカモメの事だが、その都鳥の白い肢体から妻を連想する在原業平は、さすがとしか言いようがない。また、鶉(ウズラ)も登場する。それは別れ際に女が鶉になるという歌を詠んだ。

野とならば鶉となりてなきをらむ 狩にだにやは君来ざらむ

簡単に言えば、別れたとしても鶉になれば、今度は狩としてあなたが来てくれるかという切ない望みの歌で、まあ作者が在原業平であるから、脳内が鳥だろうが花だろうが、「伊勢物語」は、全て女に結び付けて作られている作品である。まあ鳥と言っても、ここで鷲とか鷹が出て来たなら、それは女より男を連想すると思うので、作品上猛々しい鳥を登場させないようにしている。少し気になったのは、鶯の花の歌のくだりだった。

鶯の花を縫ふてふ笠もがな ぬるめる人に着せてかへさむ

鶯の花を縫ふてふ笠はいな おもひをつけよ乾してかえさむ(返歌)

濡れる人を"思ひ(思火)"という炎で乾かそうというやり取りだが、月形半平太の有名なワンシーンを思い出した。思い出したと言っても、小学校の時に買ったかくし芸関係の本に、有名なセリフのくだりがいくつかあった中の一つが、この月形半平太のワンシーンのセリフを未だに何となく覚えているので、ちょっと書いてみよう。

雛菊「月様、雨が…。」

半平太「雛菊か。花を散らす心無い雨よのぉ…。」

雛菊「鶯の羽が濡れましょう。」

半平太「雛鶯か」

雛菊「帰りましょうか、もし。」

半平太「春雨じゃ、濡れて行こう。」


このワンシーンで、恐らく雛菊と雛鶯をかけているのは、最後に"思火"で乾かすという意味を含んでいるのではととっさに思ってしまった。もしかして月形半平太のこのシーンは「伊勢物語」から来ているのかなぁと。とにかく、鳥と女性が、よく結び付けられているのが「伊勢物語」であった。そういや、家の婆様も酉年だったなぁと、何となく思ったりもする。
# by dostoev | 2017-01-04 22:41 | 民俗学雑記 | Comments(0)

稲荷穴の蕎麦屋の思い出。

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久々に稲荷穴を訪れて、目に付いたのが"手打ち蕎麦"の看板だった。思い出すのが平成初期の頃、今から20年以上前の時だった。観光客二人を連れて、美味しいと評判の手打ち蕎麦を食べに、わざわざ稲荷穴まで行って見た。

稲荷穴には、二軒の蕎麦屋があった。入口から手前の蕎麦屋は、商売してますよという風体の蕎麦屋であった。今回食べようと思っている蕎麦屋は、それよりも奥に佇む、爺様と婆様二人でやっている古い民家を利用した蕎麦屋だと聞いていた。どこかな?と迷っていると、子供連れの女性客、その蕎麦屋らしきに入ろうとしている。

女性客「すみません。お蕎麦、食べたいんですけど。」

爺様「食べたかったら、中に入ればいいじゃないか!」

外まで響く大きな怒鳴り声を上げる店主の爺様。女性客は、怯えた様にただ「はい」と言って中に入ろうとした。

女性客「あのぉ、どの部屋に行けばいいんですか?」

爺様「空いている部屋に入ればいいだろうが!」

この民家らしき蕎麦屋には、玄関から廊下沿いにいくつか部屋があった。確かに勝手がわからない人にとって、どの部屋に入ってよいか迷うのだと思う。自分達は、この子供連れの女性客の後を付いて行くだけだったので、非常に助かった(笑)とにかく大声で怒鳴る爺様だったので、気の弱い女性であるなら、怯えるか逃げるかするのではなかったか。

暫くすると、子連れの女性客が注文した蕎麦が出来たようだ。

爺様「出来たから、早く持って行け!」

再び怒鳴り声をあげる爺様。

女性客「は、はい!」

緊張して驚いたような返事をする女性客。

その後に、自分達の注文した蕎麦が出来た。そば粉10割の蕎麦の為か、すぐにちぎれるような蕎麦だった。美味しいと評判を聞いて来ては見たものの、味に関しては、まあこんなもんかという程度で観光客の意見と一致した。ただ値段が安かった。例えばコーラが売っていたが、その当時喫茶店や食堂では150円から200円で売られていたコーラ瓶が80円という、殆ど卸値で販売していた。蕎麦もまたその時代の蕎麦屋の半値くらいで売っていた。まるで明治男のような頑固な怒鳴り声を上げる爺様も、その時代には貴重な存在で、蕎麦の値段も含め、一昔前にタイムスリップしたかのように感じたものだった。恐らくその当時で70歳程度の爺様であった筈だから、もうこの世にはいないのかもしれない。稲荷穴の手打ち蕎麦の看板を目にして思い出すのは、蕎麦の味では無く、あの爺様の怒鳴り声であった。
# by dostoev | 2017-01-03 15:55 | 遠野体験記 | Comments(2)

稲荷穴や、その他の確認。

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元旦の日、先に盛岡の早池峯神社参拝の後、馬越峠を通って、遠野早池峯神社に参拝する予定だった。その途中、フト去年観光客に言われた言葉が頭を過り、寄り道する事にした。その観光客の言葉とは「稲荷穴が進入禁止になっていました。」というものだった。それを確認する為、少し寄り道してみた。稲荷穴の在る地に湧く水は、日本銘水百選に選ばれており、ポリタンクを持って水を汲みに訪れる人がかなりいたのを覚えている。今回は正月元旦に足を向けてみたが、人気は全く無かった。もしかして稲荷神社もあるので、参拝客でもいるのかと思ったが皆無だった。
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ここの稲荷神社の狐像は、相変わらず怖い顔をしている。
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それで肝心の稲荷穴だが、表面上は何も変わっていないように見えた。
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ただ内部を確認すると、柵が設けられており、施錠がかけられていた。確かに、侵入できなくなっていた。以前は、稲荷穴にも観光客を連れて、内部探検をした事があるのだが、時代と共に行けなくなった場所も、この稲荷穴の様にいくつか出て来ている。これも時代の流れなのだろう。
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ものはついでに、馬越峠を下った途中にある自然石のベットも久々に確認した。薄っすらと、白い雪がシーツ代わりにかけられていた。かなり以前に、アテナというAV会社にこの石の存在を教えたが、撮影したのだろうか?
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稲荷穴を経て、馬越峠の頂から遠野側に下ると、この自然石のベットの他、「目洗い石」、不気味な音を出す「音岩」、「人間蟻地獄」、「河童淵」、他に「遠野物語」に登場する場所や神社などの見どころ多数なのだが、今回気付いたのは、恐らく道路工事の関係だろうが、音岩が無くなっていた。ただしこれらは、遠野観光マップにも掲載されていないものだが、ある意味貴重な場所でもある。自然石のベットも道路工事の関係で、今の場所に移動された経緯がある。馬越峠という名前から、昔は車の通れない峠だったが、今の峠は新道でもある。以前の馬越峠の旧道には、達曽部側に権現岩というのがあり、その岩を拝まないと、普通に通れないなどという言い伝えがあった。自分が中学の頃は途中まで自転車で行き、獣道みたいな峠なので自転車を乗り捨てて、歩いて馬越峠を越えて、稲荷穴まで行った事がある。今では、懐かしい思い出だ。その道程も、今と昔では、かなり変ってしまった。ひして、今後も変わるのだろうか?
# by dostoev | 2017-01-02 18:16 | 遠野体験記 | Comments(4)

あけましておめでとうございます。(2017.01.01)

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今年も、早池峯神社参拝から始まる新年を迎えました。
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今年の遠野は、殆ど雪が降らない暖かい冬になっています。それでも遠野の街より標高の高い早池峯神社の辺りは、若干の雪が残っている状況。早池峯神社まで続く道路も、カーブには雪が残っていて、そこだけ慎重に運転すれば大丈夫。
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【罰当り行為(境内での立ちション)】

参拝を済ませてから戻る途中、早池峯神社で樹齢千年を超す、座敷ワラシが覗いていたとの伝説も伝わる一番の古木に、何やら男が密着している。何をしているんだろう?と見ていると、最後にプルプルと振るっていたので、立ち小便をしていた様。すぐさま注意したのだが「トイレがわからなかったので…。」と言うと、遠野ふるさと学校の方へと歩いて行った。注意した時に、そのまま一枚パシャリと撮影したのが上の画像。

隣の遠野ふるさと学校の駐車場に停まっている車の台数と、早池峯神社に参拝に来ている人の数が合わないので、初めから早池峯神社ではなく、遠野ふるさと学校に来た人物であったよう。隣の敷地からは、単に山の中の林にでも見えたのだろうか?ただ普通に人の敷地内での立ち小便は、軽犯罪法違反。しかし自分には、注意程度しか出来ない。熊野大神は瀬織津比咩とも云われるが、その熊野大神は浄・不浄を問わないとする神であるのは、穢祓の神でもあるからだろう。しかし大胆にも、その穢祓の神の境内の神木に不浄をふりかけ、直接穢祓をしてもらえるこの人物は、かなりの贅沢者でもある。まあ最終的判断は、早池峯大神が決める事になるのだろう。ただ早池峯の神は祟り神なので、自分にはこんな罰当たりな真似は出来ない。ただそれを直接目にしたので、酷く気分を悪くしたまま、早池峯神社を後にしたのだった。本当に正月早々…。
# by dostoev | 2017-01-01 19:28 | 民宿御伽屋情報 | Comments(4)

申年も今日で、お終い。明日から、酉年です。

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今年は更新がスローテンポとなり、何となく自分自身の老いを感じた年でもありました。まあ、若くなることは無いので、来年も無理せず年相応のマイペースでこのブログを更新していきたいと思います。それでは皆さん、良いお年を。
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# by dostoev | 2016-12-31 06:34 | 民宿御伽屋情報 | Comments(2)

河童と瀬織津比咩(其の十三)結

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画像は、早池峯神社から馬産の護符として配っていた「猿曳駒」。この版木は現在、遠野市指定民俗文化財になっている。何故に猿が馬を曳いているかといえば、猿が病気から馬を護るとされた伝承からの、猿が馬を曳く護符になっているのだろう。石田英一郎「河童駒引考」では「捜神記」を引用して、猿が死馬を蘇生させた話を紹介している。しかし、それは猿の様であり、猿の様では無かった。「一物猴に似て非なるもの」という「捜神記」での記述は、この似て非なるものを結局猿とし、猿が馬を護る存在であると広くと認識されたようだ。

実は宮崎県に、こういう河童の逸話がある。宮崎市には昔、薬湯屋があって、毎晩遅くなると、沢山の河童が集まって来て、湯に浸かったのだと。"河童の使った後の湯は、毛が一面に浮いていて、大変臭くなる"としている。一般的に河童のイメージは両生類に近いイメージで、様々な河童の絵を見ても、毛があるとしたら頭の毛程度しか思いつかない。そして、湯に入るイメージは河童というより、猿のイメージの方が強い。それ故、この薬湯に浸かった河童とは、もしかして猿ではないかと思えてしまう。これは「捜神記」の逆で、まるでで「河童に似て非なるもの」ではないか。「捜神記」の「猿に似て非なるもの」を河童とは断言できないが、実はどこかで猿を河童として面白おかしく話した流れがあったのではなかろうか。

平安時代末期に編纂された「梁塵秘抄」にも「御厩の隅なる飼猿は絆放れてさぞ遊ぶ」と詠われ、厩に猿が飼われていた事がわかるが、馬を護るという俗信を信じた人間の手によって、強引に厩に紐で繋がれていたのだろう。だが河童譚にも、厩に忍び込んでいる河童の話が多い。猿と河童、その縄張りの共通性と姿態の共通性が、河童=猿であるとする説に気持ちが傾いてしまう。
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ところが河童と猿とは、かなり仲が悪いらしい。石川純一郎「河童の世界」には、その河童と猿の仲の悪い事例が、いくつも紹介されている。その中で、気になった箇所がある。それは「猿は馬を疾病から護り、河童の害からも守る。猿には河童除けの呪力があるのであろう。肥後芦北郡では、申年の申の日の刻生まれの者は、河童のいる淵に入って泳いでも何ともないと云われている。」これで気付いたのだが、猿は申であった。
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遠野を流れる猿ヶ石川沿いに庚申塔が、いくつも建っている。まあ猿ヶ石川だけでは無いのだが、古代から川沿いに道が開かれた歴史の合間に、石碑が建てられたのだろう。ただ「遠野物語55」の冒頭「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。」を、もう一度考え直してみたい。

遠野各地の川に、河童淵と呼ばれるものがある。それは人里離れた川の淵ではなく、人里に近いところである為、各集落ごとに河童淵があると言っても過言ではない。猿ヶ石川に河童が多いというのは、猿ヶ石川自体が遠野で一番長大で、広大な河川であるから様々な集落を経由している為というのは、河童が多いという一つの理由だろう。だがここで、猿ヶ石川という名の語源に素朴な疑問が湧き上がる。何故、猿という名前の付いた河川名になったのかだ。
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「猿か?石か?」という猿ヶ石川の語源説話である清瀧姫伝説は、全国に似た様な伝説が点在するのだが、遠野に伝わるものは恐らく群馬県の桐生発祥だと思われるので、元々遠野に伝わるものではなかった。また猿ヶ石川の語源となった猿石があるとは伝わるが、どうやらこれも後世の付会であったようだ。石で気になるのは、前回紹介した河童の祟り除けに、礫石経を1年分である365個を川に沈める事により河童の祟りを抑えるという呪術だが、遠野では聞いた事が無い。また別に河童除けは、猿であった事を照らし合わせても、猿と石とは、河童に深く関係しそうではある。

ところが、気になる伝承が熊本県の八代市に伝わっていた。「球磨川に露出している大きい岩の上に、女神が毎晩現れるのを猿と河童とが取り合いをした。」というものだ。猿と河童は仲が悪いという伝承があるのだが、何故に仲が悪いのかはわからなかった。筑後川の河童も、元々は球磨川から来たものであったから、この伝承の持つ意味は大きい。

八代市は、どこか出雲を想起させる地でもある。それは市内に流れる河川名のいくつかが、出雲に流れる河川名と同じであるからだ。その中の河童と猿が女神を奪い合ったという球磨川の畔には、妙見宮がある。この妙見宮の祭神は、亀に乗って来た女神であるとされる。こういう地であるから、球磨川の大石の上に現れる女神とは、妙見神であるのだろう。妙見は庚申、つまり猿と縁が深い。また九州における妙見神とは水神を意味する。それはつまり、猿と河童が互いに信仰する共通の女神を奪い合うという事ではないか。さる高千穂在住のお方によれば、高千穂十社大明神大宮司田尻物部系図に「四十九体妙見即ち瀬織津比咩神是也」と記されているそうで、その高千穂の妙見社は"御塩井大明神"とも呼ばれるそうだ。この御塩井だが、阿蘇に塩井神社があるが、そこに流れる川は塩井川であり、そこでの禊を"シオイカカセ"と呼ぶ。この塩井川は白川に合流するのだが、その白川の水源に鎮座するのは、白川吉見神社。考えて見れば阿蘇山を中心とする水神の根源は、日下部吉見神社が発祥となっている。それが地域によって名を変えているに過ぎない。また竹田旦「水神信仰と河童」を読むと、全国に拡がる水神信仰の祭りが六月と十二月という二度に渡る祭が行われているという調査結果に竹田氏は「年に二度の水の神祭りを行うということは、つまり水神が特定の季節と関連していることを指している。いわば、六月と十二月とはその季節の両端をなしているのだろう。」と述べている。しかし竹田氏が見逃しているのは、六月と十二月の神事として、何が行われる月であるかという事。それは、大祓であろう。日本における穢祓の根源は、水によるものであった。互いのわだかまりを「水に流そう」とする日本の風習は古代から延々と、水の穢祓による力に依存してきた。その穢祓の神として知られる瀬織津比咩こそが、猿であり河童が奪い合う女神であるのだろう。
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奇しくも猿ヶ石川の源流は、妙見信仰も重なる北に聳える早池峯山系から始まる。その早池峯の女神は、九州の水神でもある瀬織津比咩である。日下部吉見神でもある瀬織津比咩には、菊池氏も大きく関与する。遠野に一番多い苗字である菊池氏の流れは、人だけでなく信仰の流れもあったであろう。しばしば学者の指摘するところでは、東北地方と九州地方の習俗の近似・類似は、人の流れが大きく関与している。河童という水難除けに猿が存在するのだが、然程猿が多くなかった遠野においての水難除けは、恐らく庚申がその役割を担ったのではないだろうか。庚申塔は、まさに"猿の石"でもある。遠野の北から流れる猿ヶ石川の源流を又一の滝とする伝説は、「又一(またいち)の滝」が妙見の"太一(たいいつ)"からきているだろうとされるのは、滝神である早池峯の女神を妙見神とする事からであった。河童という水難除けの信仰の発端、もしくはそれに付随する河童伝承も、全ては九州から遠野に辿り着いた、物部氏であり菊池氏などが、その信仰を早池峯な重ね合せた事から始まったのだと思えるのである。
# by dostoev | 2016-12-28 07:02 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(3)

河童と瀬織津比咩(其の十二)

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福岡の水天宮における平家の関わりと信仰を書いてきて、河童から少々脱線したきらいもあるが、ここで少し戻そうと思う。画像は"礫石経(れきせききょう)"と呼ばれるもので、平清盛が始めたようである。平清盛は人柱をやめる代わりに、この礫石経を海や淵に沈める事にした進歩的な人物だった。つまりこれは、水神の怒りを鎮める為のものである。その水神の使いとして河童がいるという認識だが、九州では河童の祟り除けに、この礫石経365個を川に沈める事により1年間、河童の祟りを抑える事が出来ると信じられる風習がある。

人柱は無かったとの見解を述べる学者もいるが、遠野では例えばメガネ橋の下から、お歯黒をした女性の頭蓋骨が発見されたり、松崎には人柱で死んだ巫女の墓などがある。また陸前高田には、菖蒲姫と呼ばれた遠野の上郷村から来た女性を人柱にしたという伝承が残っている。そして事実として平清盛がこの礫石経を人柱の代わりにしたという事であるなら、やはり人柱はあったとみるべきではないか。

「耳なし芳一」という小泉八雲の有名な怪談話があるが、平家の亡者から身を守る為、全身に経文を書いたつもりが、耳だけ書き残した為に、平家の亡者に耳を持って行かれる怪談話だ。これを九州の礫石経の河童除けの風習に照らし合わせれば、礫石経を365日に満たない数を川に沈めれば、その足りない日数分だけ、河童の祟りに遭うという事になる。「耳なし芳一」に登場する平家の亡者は、壇ノ浦の戦いに水没した亡者であるようだ。つまり水界から現れた、水の亡者という事であろう。その水の亡者の王は安徳天皇となるのだが、それはつまり水天宮に祀られる神でもある。小泉八雲が「耳なし芳一」の典拠としたのは、一夕散人「臥遊奇談」第二巻「琵琶秘曲泣幽霊」(1782年)であると指摘されているが、全てひっくるめて、平家の信仰を秘めた水天宮から想起されたものではなかったか。

実は、この発想は漫画である星野之宣「宗像教授伝奇考」に影響されている。学者では無い漫画家である星野氏は、漫画家であるがゆえ学者が書けない自由な発想から漫画を描いているのだと。しかしその発想には、かなりハッとさせられている。独自に、遠野の河童を調べ、遠野の北に聳える早池峯信仰と祭神の結び付きには、どこか九州の息吹を感じさせるものがある。それを感じた時に、たまたま星野氏の漫画に接し、もしかしてという気持ちが湧き上がったのを覚えている。
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「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。」という「遠野物語55」の冒頭だが、何故遠野の河童は、猿ヶ石川に多いのだろうか?を純粋に考えた場合、どうしても九州に行き着いてしまう。ところで猿ヶ石川の語源に、猿と石を間違い「猿か?石か?」として、猿ヶ石川と名付けられたという、とってつけたような語源伝説がある。

「遠野物語」において猿の話は、四話しかない。そのうちの三話は、猿の経立という化物猿に関するもので、六角牛の山が舞台となるのが二話。もう一話は、猿の経立の名前に触れている程度である。そしてもう一話は「遠野物語48」で、仙人峠の猿ヶ石川の話が書かれている。「遠野物語47」では「六角牛の猿の経立が来るぞ」という内容から、猿の経立の棲家は六角牛だという事で理解できる。猿がいるという六角牛と仙人峠は、遠野盆地の東側の山に面している。「猿か?石か?」の語源説は、猿ヶ石川の源流に伝わる話だが「遠野物語」では、まったく触れてはいない。その前に、猿そのものの話が遠野には少ないのがわかる。せいぜい、淵の傍に棲んでいる猿を淵猿と言って、河童の正体の一つとされる伝承が唯一、遠野の里に出没する猿の話となる。実際、今の遠野で猿を見るならば、やはり仙人峠か、六角牛山の脇を通る笛吹峠か、それを過ぎた場所にある橋野町で猿を見かける事が出来る。つまり、昔も今も猿を目撃できる場所は変って無いという事。たまに遠野の街に"はぐれ猿"が目撃される事があるが、それも一時だけである。

大正時代の記録に「遠野の獣と鳥」と題されたものが記されているのが、【鳥類】には当然、猿の名は無い。では【獣類】はどうかというと、下記の通りに猿が記されていない。

【獣類】

「きつね、ねこ、ねつみ、いたち、からたち、犬、むくいぬ、ちんけん、
おふくかめ、むささび、うさき(鎌せをい、白兎共)、くさい、こはみ、
山ねつみ、まみ、てん、しいね、とりう、きねつみ、くま、馬、牛、
鹿(あをしし、かのしし、うしゐ)、かはもり」


だが大正時代に認識されていなくとも、吉田政吉「新・遠野物語」には、猿の話が記されていた。猿の悪戯はそれなりにあったようで、鉄砲を駆使して猿を撃とうとしても事前に察知され、なかなか撃てなかったらしい。猿の被害はそこそこあったようだが、吉田氏によれば、狼に比べれば大した事は無かったそうな。だからなのか、遠野での猿の話が少ないのは。ただ、遠野の里に下りて来て悪戯を成した猿も、大正時代には見られなかったという事になる。明治の半ばで姿を消した獣は、狼が狂犬病の蔓延と、多額の懸賞金がかけられた事による率先した駆除によって滅び、猪は豚コレラの蔓延によって、やはり滅びた。しかし猿が、遠野の里から消えた理由がわからない。まるで河童の目撃数と比例するかのように、猿が里から姿を消したようにも思える。
# by dostoev | 2016-12-20 06:26 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(5)