遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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河童と瀬織津比咩(其の十一)

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風琳堂氏が北海道の滝廼神社で撮影した、恐らく唯一存在する瀬織津姫の神像ではないかとの事。前回「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、剣に斎く神」と書いたのは、剣は荒魂の証でもあるからだ。右手に剣を持つのは、相手を薙ぎ払うなどの武力としてのものであるが、穢れを祓う霊威をも意味する。この前は、天叢雲剣を祀る熱田神宮に関して簡単に書いたが、「円空と瀬織津姫(下)」に展開される熱田神宮祭祀は、まさに天照大神荒魂についてであった。実際に、熱田神宮の禁足地である本殿西北背後に鎮座する一之御前神社に天照大神荒魂は祀られているのだが、「「円空と瀬織津姫(下)」では熱田大神そのものが天照大神荒魂であり、天叢雲剣に斎く神であったと展開している。

八岐大蛇の尻尾から取り出された天叢雲剣、別名草薙剣を「日本書紀」では「大蛇のいる上に常に雲があったのでかく名づけた。」と説明している。その天叢雲剣は、朱鳥元年(686年)に天武天皇を祟ったとしている。これはつまり、天叢雲剣に斎く神の祟りとなるのだが、同じように天皇を祟った神がいる。それは崇神天皇を祟った、天照大神荒魂である。

長元四年(1031年)、「大神宮諸雑事記」によれば、外宮の月次祭の時、急に大雨となり雷光が走り天地が振動したかと思うと斎宮が叫び声をあげて「我は皇大神宮の第一の別宮、荒祭宮也。」として託宣を述べ始めたと云う。その託宣の内容は「最近の天皇には敬神の念が無く、次々に出る天皇もまた神事を勤めない。」などと批判している。実際は斎宮が天照大神荒魂を名乗っての仕組みであろうが、だがこれは伊勢神宮の歴史から、天皇を祟ってきたのは天照大神荒魂であったとの証でもあろう。
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剣に斎く神は、佐賀県は神埼郡の櫛田宮にも祀られている。櫛田宮の由緒は「往昔此の地に荒ぶる神あり。往来の諸人多く害されたり。此の時に景行天皇の筑紫御巡狩ありて、此の地御通軍の際、櫛田大神を御勧請ありしかは、更に殺害に遇ふ者なく蒼生皆幸福を蒙りたり、故に郡名を神埼と謂ひ、鎮座の地も、神埼と云ふ。」

櫛田大神とは世間一般に"お櫛田様は女神"と信じられ、その御神徳は「諸々の禍を払い除き、逃れさせたもう」と伝わっている。これは「佐賀県神社誌要」によると、弘安年中蒙古襲来の時、櫛田の神の御宣託に「我れ異国征討の為に博多の津に向ふ。我が剣を末社博多の櫛田に送り奉る可し。」蒙古襲来の戦地に赴いたと云う。蒙古との合戦の最中、海上には数千匹の蛇が浮かび出たとし、その三か月後、櫛田宮の末社である櫛田神社に疵を受けた数多くの蛇が現れ、再び櫛田神の御宣託があり「各蛇疵をこうむるといえど、蒙古は既に全滅した。」と宣ったと。これから察するに櫛田神とは、剣に斎き蛇を眷属する神だと理解できる。

現在の祭神は、櫛名田比売を主祭神として素戔男尊と日本武尊の三柱となっているのだが、その祭神についての論争が諸説ある為、取り敢えず現在の祭神で収まっている事情の様だ。ただ櫛田神は剣に斎き、蛇を眷属する神であるが、それがどうも櫛名田比売に結び付かない。櫛名田比売は八岐大蛇に怯え、素戔男尊に退治して貰ったか弱き姫というイメージであるからだ。

それでは、その祭神の諸説を見ると、櫛名田比売説と大若子命説と豊次姫命説の三つがある。確かに櫛田宮という社名から櫛名田比売を想像する場合が多いのだろう。しかし、長い間信じられた祭神は、豊次姫命だとされている。これは「櫛田宮由緒記」に、「櫛田大明神をもって総社とす。伊勢大神宮の大娘豊次姫命これなり。」と記されている為だが、この神名の正しくは"豊鍬入姫命"であり、崇神天皇を祟った天照大神荒魂を倭の笠縫村に祀った初代の斎宮であった。また大若子命説だが、白井宗因「神社啓蒙」「櫛田神社在肥前国神埼郡 祭神一座 大若子命」とあり、また「佐賀繁昌記」にも「櫛田社祭神大若子命也。」と記されているとの事。この大若子命とはなんぞや?と思ったが、別名"大幡主命"とされる。だが"大幡主命"といってもピンとはこない。しかし調べてみると実は、崇神天皇を祟った天照大神荒魂が流離った時に帯同した人物であった。正しくは、伊勢国の櫛田郷辺りの国造で、倭姫命に奉仕する大神主であった。「神社啓蒙」によれば、いつの間にか斎祀る側が櫛田宮に神として祀られてしまったとの事である。櫛名田比売はさて置いて、豊鍬入姫命も大若子命も、天照大神荒魂を奉斎した者達であった。また「禰宜補任」によれば、櫛田宮の由緒に登場する景行天皇のくだりだが、実は景行天皇にも仕えこの神埼に来た大若子命が、此処にも来て荒ぶる神を和ませたという事の様である。それはつまり、この神埼の地の荒ぶる神とは、櫛田大神であり、それは天照大神荒魂であったという事実があった。
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この櫛田宮の目と鼻の先に、與止日女神社がある。「肥前国風土記」にも登場する女神だが、「佐賀郡誌」によれば、「神功皇后を助けて三韓征伐に軍功ある女神」という事であるが、その正体は神功皇后の妹であるともされている。しかしだ、阿蘇の菊池氏の主流である日下部氏が奉祭する母神に蒲池比咩がいる。この蒲池比咩は、この肥前国一宮である與止日女神社(川上神社)に祀られる與止日女と習合している。そして筑前糸島の桜井神社(與止日女宮)」で川上の與止日女は瀬織津比咩と同神とされている。瀬織津比咩は天照大神荒魂とされる事から、櫛田宮と同神という事になる。そもそも「肥前国風土記」に登場する"荒ぶる神"そのものが天照大神荒魂であると伏せられていた事からの混乱でもあるのだろう。

更に、この櫛田宮の目と鼻の先、筑後川を間に挟んだすぐ傍に水天宮が鎮座している。平安時代の神埼御荘の長官は、平忠盛であった。平氏一門は、この神埼に宋の商船を迎え入れ、密貿易によって利益を蓄えたとされている。恐らく按察使局伊勢は、この平氏一門の力が根付いている筑後川界隈を頼って訪れたものと察する。更に加えれば、平家一門の信仰の共通もあったからではなかろうか。
# by dostoev | 2016-12-17 21:52 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(3)

三女神の別れの前の晩の地へガイド

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遠野の三女神が、各山々に別れる前の晩を過ごした場所を取材したいという人物を案内してきた。
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その前にと、先に早池峯神社へと参拝する事にした。昨夜から降った雪で、遠野は薄っすらとした雪景色となっている。
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境内では、一生懸命雪搔きしている関係者の姿が。
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少し前は落葉で色付いていた地面が、真白に変っていた。
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ただし、週明けはまた気温が上がるというので、この雪も溶けるのかもしれない。
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とにかく、参拝を済ませた。
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目的の場所は、重端渓沿い。冬季は閉鎖になる道路だが、まだこの程度の雪じゃ、閉鎖にはなっていないだろうと進む。目的の林道入り口も、どうにか行けそうなので、車でいつもの場所まで侵入してみた。
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車を置いて歩くと、さっすく目的地が確認できた。これが夏の緑に溢れる時期だと、もっと見え辛いのだが、緑が枯れた冬は見つけやすくなっている。
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大型カメラで撮影しようとしているが足場が傾斜地の為に、かなり難儀しているよう。
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苦労しつつも、何枚か撮影した様子。この場所の撮影は、午後だと逆光になる為、午前中がベスト。雲は多かったが、その合間から時より、明るい日差しが降り注いでいた。
# by dostoev | 2016-12-15 17:21 | 御伽屋・幻想ガイド | Comments(0)

河童と瀬織津比咩(其の十)

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水天宮を初めに祀った尼御前は、物部の女であり、平家に仕えていた。それはつまり、平家の信仰にも携わっていたという事だろう。平家の信仰の拠点といえば厳島神社だが、平清盛を筆頭とする平家は伊勢平氏と呼ばれ、伊勢の地が発祥となる。伊勢の地で地盤を固め、頭角を現したのが伊勢平氏だ。当然、その信仰の拠点も伊勢にあったものを、厳島に移したと考えて問題は無いと思う。しかし、伊勢平氏の伊勢での信仰の拠点は多度大社であり、現在その祭神を確認すると、天津彦根命を主祭神としている。そして境内には、天津彦根命の子である天目一箇命を祀る別宮・一目連神社があり、本宮とともに多度両宮と称される。しかしこれでは、厳島神社との共通点が見出せない。わずかに摂社として美御前社には、厳島神社と同じ市杵島姫命が祀られているに過ぎない。

「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」

上記の歌が詠われたように、多度大社と伊勢神宮との関係は深そうだが、それは、天照大神の御子である天津彦根命を祀っているからだとされている。だが上記の歌以外に「梁塵秘抄」に、下記の様な歌が詠われている。

「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、又比良の明神、安房の州龍の口や小野、熱田に八剱伊勢には多度の宮」

多度大社は軍神と呼ばれているのだが、天津彦根にそれを感じないのはどういう事だろう。高橋昌明「清盛以前」を読むと、多度の地には、多度神社と多度神宮寺があり、伊勢平氏にとっての氏寺が多度神宮寺であったと。ただしそれは多度神宮寺と多度神社が一体不可分のものであるから、多度神社に祀られる祭神は当然、多度神宮寺と本地垂迹の関係になるのだろう。高橋昌明氏は「多度の地の多度山は、まさしく伊勢平氏の氏の祖霊の鎮まる霊山であり、多度神社及び多度神宮寺は、その神聖な祭壇と見做す事が出来る。要するにこの多度山は、伊勢平氏一門同族の結集の場であり、何よりも伊勢平氏の精神の故郷にほかならなかった。」と説明している。

八巻照雄「伊勢平氏盛衰史」には簡単な年表と共に、平氏と厳島神社との関わりを紹介している。例えば「長寛二年(1164年)九月、平家一門三十二人が法華経(三十三巻)を書写し、安芸にある平家の守護神・厳島神社に奉納した。」とある。この法華経の三十三巻は"十一面観音の三十三応現身"になぞらえたという。つまり、"平家の守護神"とは、十一面観音と関係の深いものであるという事。

伊勢平氏の精神の故郷であり軍神である多度大社であったが、主祭神の違う厳島神社もまた軍神を思わせる"平家の守護神"であるとしている。精神の故郷を捨て去って、新たに厳島神社を信仰する程、平家の信仰は移ろいやすいのだろうか?伊勢平氏は、軍事的貴族とも呼ばれた。それは、伊勢平氏が超人的武運に恵まれる事を願った為に、多度大神を信仰したのだと。その軍事的貴族を永続するのであるなら、多度大神と厳島明神は戦神という神威を共通する同神でなくてはならない。何故なら、神は祟るからだ。伊勢平氏の地盤を築いた多度大神を簡単に捨て去る事は、その時代の信仰の深さからみて有り得ない話だ。
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木野戸勝隆「百日参籠」によれば、多度大社の主祭神である天津彦根を否定し、本来の祭神は不明であるという。その神は、"近江国より来た神なり"とのみ言い伝えられ、神名はわからないとしている。そしてもう一つわかったのが、この多度の地は"元伊勢"と呼ばれているという事だ。元伊勢とはどういう事かと云うと、伊勢大神が一時坐した地であるという事である。近江国、琵琶湖の辺に、やはり元伊勢の地がある。それは、崇神天皇時代に祟った天照大神荒魂が流離った過程の一つが、近江の地であり、この多度の地であった。

近江雅和「記紀解体」によれば、崇神天皇から離れ遷座の地を求め彷徨ったとされる旅の面々を見る限り、それは武力平定の移動であったろうと述べている。ここで思い出して欲しいのは、神功皇后の武力平定の先鋒でも、荒魂が務めたと云う事。鎮座後に留まるのは和魂であり、行動するのは荒魂であるという事から、滝宮に至る四十年間に、各地を荒魂を先鋒として武力平定し続けた旅であったのだろう。それ故だろう、多度の地にも訪れた天照大神荒魂であったからこそ、軍神として「梁塵秘抄」にも詠われた。また、天武天皇が壬申の乱の前に、伊勢大神に向って祈ったのは、今の伊勢神宮の方向ではなく天照大神荒魂が彷徨い最後に落ち着いた滝宮に向ってのものであった。物部氏に伝わる伊勢大神とは、三韓征伐にも関係した天照大神荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命である事から、天武天皇は戦神に勝利を願ったのだと思う。そしてその撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、剣に斎く神でもあった。

多度の地を武力平定して一時坐した天照大神荒魂は、多度の地にはもういない。しかしその神威は衰えずに伊勢平氏の"祖霊"として残っているからこそ、信仰されたのだろう。仁安三年(1168年)、平清盛は厳島神社を修築している。平清盛が厳島神社を重視したのは、在来の神社・仏閣が皇室、貴族の深い信仰を受け、それに増長して横暴を極め、更に僧兵まで養って、強訴を繰り返して朝廷を圧迫していた事が大きかったという。つまりその当時の厳島神社は、朝廷や貴族の息がかかっていなかった神社であり、平清盛にとっては聖地に思えたのではないか。奇しくも、平清盛が厳島神社を修築した同じ年に、伊勢神宮が燃え落ちている。もしかして、伊勢で祀られている天照大神荒魂を厳島神社に移す為に、平清盛が伊勢神宮に火を放ったのかとも思えてしまう。そしてその六年後の承安四年(1174年)に、後白河法皇の厳島神社の参詣に、伊勢平氏一門が同行した。これが平清盛が準備してきた伊勢平氏の守護神である厳島神社信仰の始まりであり、そしてこれまで信仰していた多度大神信仰の終焉となった。
# by dostoev | 2016-12-12 22:40 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(0)

河童と瀬織津比咩(其の九)

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遠野で水天宮を祀る場所は、殆ど見かけない。もしかして、この小烏瀬川の滝だけに祀られているのかもしれない。この水天宮の総本社は、福岡県久留米市の水天宮となるが、そこに河童伝承が伝わる。石田純一郎「河童の世界」では簡単に、この水天宮の河童伝承を紹介しているが、それを更に略して紹介する事にしよう。

昔、河童は唐天竺の黄河の上流に大族をなしていたが、その中の一族が郎党を引き連れて黄河を下り、海を渡って九州一の大河である球磨川に棲み付いたと云う。九千坊という河童の族長は乱暴者で、田畑を荒らし、女子供をかどわかしたりするので、加藤清正が怒って、九州の猿を集めて河童を攻め立てた。河童にとっての猿とは、大変仲が悪く、手強い敵であった為、降参して肥後を立ち去る約束をして詫びを入れ、土地の者には害をしないと誓約したそうな。その後、筑後は久留米の有馬公の許しを得て、河童達は筑後川に棲み付く様になり、水天宮の使いになったそうな。河童は、お宮の堀にも住んでいて、神主が手を叩くと水底から浮き上がって来るのだと伝わる。
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どうやら九州の河童は、中国の黄河から来たようだ。しかし日本の秩序を乱すので懲らしめられ、権力者に服従する事になったという事であろうか。その中でも橘氏の流れを汲む、菊池氏と繋がりの深い渋江氏の眷属となっているのは事実というより、信仰の繋がりを感じる。

ところで河童は、よく相撲を取りたがる。河童に相撲で負けた人間は、尻子玉を抜かれたなどと云う話があるが、負ければ諂うのが河童だ。黄河から来たという事で面白いと思ったのは、一般的に知れ渡る中国人との接し方だ。中国人に対して弱気に接すれば、どこまでもつけ上がるが、強気に接すると大人しくなるというもの。まあこれは中国人に限った事では無いだろうが、相手を平伏せる為には、相手の上に立つしかないのだろう。それは相撲で勝つという事もあるだろうが、信仰にのっとれば、同じ水系の神には、頭があがらないものと思える。そういう意味では、渋江氏の下に付いた河童とは、渋江氏の奉斎する神の下に付いたと考えてもおかしくはないだろう。
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久留米の水天宮の由来は、壇ノ浦で平家の最後を見届けた後に、筑後川に辿り着いた尼御前と呼ばれる按察使局伊勢から始まる。寿永4年の夏という事である。筑後川の畔に住み付き、小さな祠を祀るようになったが、尼御前の人徳に触れ地域の人々も又、尼御前の祀る祠を拝むようになったという。その祠に祀られていたのは、幼く死んだ安徳天皇と、その母である建礼門院に、祖母の二位の尼の三柱の御霊であったというが、それとは別に天御中主命を祀ったとされる。実際に現在の水天宮の祭神は、この四柱の御霊となっているようだ。しかし「明治神社誌料(下)」によれば、当初は水天龍王を祀っていたものを、後に天御中主命に改めたようだ。また、この尼御前である按察使局伊勢は、大和國布留の神社の神官某の女であるとしている。按察使局伊勢は、安徳天皇の内侍でもあるのだが、内侍とは天皇の身辺に奉仕する者であり、ここでは厳島神社の女性神職で、神事のほかに、同神社に参籠する貴人の旅情を慰めるために今様を朗詠したり舞楽などを行った存在でもあるのだろう。同じ福岡県の榊姫神社に祀られる御霊の中に榊内侍と呼ばれた、やはり平家の内侍が祀られている。恐らく按察使局伊勢は、平家の信仰にも詳しいのであると思われる。

壇ノ浦の合戦で最後、水の都に向った安徳天皇だったが、按察使局伊勢はその水の繋がりから、安徳天皇の霊を慰めようとする為の筑後川の畔に祀った祠であったろうか。しかし按察使局伊勢が物部の女であるとわかり頭を過ったのは、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮すと云う「布瑠の言」である。

「ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ」

もしかしてだが、水天宮とは当初、安徳天皇の復活を期してのものではなかったか?何故なら、布留を調べると月神へ辿り着く。月には、不老不死にも繋がる変若水があるからだ。「佐陀大社縁起」には、こう記されている。「月神とは大和國に在りては春日大明神と号し、尾張國に在りては熱田大明神と号す。安芸國に在りては厳島大明神と号す。」
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月神に向かう前に、まず布留の神社について書かねばならない。布留の神社とは、つまり物部氏が奉斎する石上神宮の事。この石神神宮に祀られる神とは、布都御魂大神と布留御魂大神となる。布都御魂は武甕雷男神と共に国譲りの神話に登場する、剣の化身のような武神でもある。それと共に祀られる布留御魂とは、石上神宮の神域を流れる布留川に関係する。「円空と瀬織津姫(下)」によれば、布留川の源流には布留滝があり、それを「桃尾の滝」または「布留の滝」と呼ばれている。「布留神宮縁起」によれば、その布留の滝は「布留御前」として、石上神宮の元社である布留神宮に祀られているのだと。そしてこの布留川の川上は「日の谷」と呼ばれ、"八岐大蛇伝説の異伝"が伝わっていた。

むかし、出雲国の肥の川に棲んでいた八岐大蛇は一つ身に八つの頭と尾をもっていた。素戔男尊命がこれを八つに切り落とした。大蛇は八つの身に八つの頭がとりつき、八つの小蛇となって天に昇り、水雷神と化した。そして天叢雲剣に従って大和国の布留川の川上にある日の谷に臨幸し、八大竜王となった。今そこを八ツ岩と云う。天武天皇の時、布留に物部邑智という神主があった。ある夜夢を見た。八つの竜が八つの頭を出して、一つの神剣を守って出雲の国から八重雲に乗って光を放ちつつ布留山の奥へ飛んできて山の中に落ちた。邑智は夢に教えられた場所に来ると、一つの岩を中心にして神剣が刺してあり、八つの岩は、はじけていた。

物部氏の祀る経津御魂は神剣の神だが、この伝説に登場する神剣は布留御魂の事を意味しているのだと思われる。となれば、物部氏の祀る剣は、二振りという事になるか。三種の神器の一つとなる、天叢雲剣を祀る熱田神宮の別宮である、やはり熱田大神を祀る八剣宮縁起にも、祀る剣は布都であり、布留でもあり石上布留の神社とも祝ひ奉るとされるのは、熱田神宮と布留神宮の剣は同じという事。これらから、久留米の水天宮に尼御前が祀った水天龍王の正体が見えて来た。
# by dostoev | 2016-12-11 17:25 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(5)

わが爪に魔が入りて

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わが爪に魔が入りてふりそそぎたる月光むらさきにかゞやき出でぬ

きら星のまたゝきに降る霜のかけら墓の石石は月光に照り

本堂の高座に説ける大等のひとみに映る黄なる薄明

                        宮沢賢治

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宮沢賢治が14歳の頃、旧制中学の先輩だった石川啄木「一握の砂」に触れ、文学に目覚めて歌を詠み始めた頃の歌だという。宮沢賢治は学生時代、寺に下宿して文学書や宗教書を読み漁り、夜には寺の本堂の縁側で月を観ながら物想いに耽っていたというが、学生時代は特に幻想的な面に魅かれる為、こういう歌を詠んだのかと思った。

ところで気になったのは「爪に魔が入りて」という表現だが、爪には"爪半月"という箇所がある。その爪半月が無いと不健康などという迷信の他に、その部分が黒ずむと、いつか死ぬという迷信を子供の頃に聞いた事がある。実際に子供の頃、爪に棘を刺した事があり、その部分が黒ずみ紫がかった見えた。もしかしてだが、"月の紫に輝く""爪(爪半月)の魔"をかけてに結び付け、神秘的な表現にして遊んでいたのじゃなかろうか?表現的には、上田秋成「青頭巾」の最後の場面を彷彿させる。
# by dostoev | 2016-12-03 15:54 | 民俗学雑記 | Comments(2)

遠野物語の発生

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最近、空き家・廃屋調査が行われていた遠野市であったが、少し山に入ったところにも、画像の様な廃屋を見かける事がある。画像の建物内部に入ってみると、アナグマが巣食っていた。今はどうかわからぬが、遠野小学校へ行く途中の歯科医院の空き家にも、アナグマは巣食っていた。こうして人の住まなくなった家には、野生の獣が住みつく場合が多いのだが、特にそれはアナグマの場合が多い気がする。知人の家の小屋にも、知らない間にアナグマが巣食っていたと聞く。
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山中で遭遇するアナグマは、画像のように寄って撮影しても、慌てて逃げようとはしない。ある時は、平気で自分の脇をすり抜けて行った時もあるほど、遠野ではアナグマほど人間を恐れない獣はいないのではなかろうか。気性もイタチ系らしく激しく、熊と遭遇しても熊を追い払う程の気性の持ち主がアナグマである。人間が寄って来た程度では、気にもかけないのかもしれない。
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上郷町の曹源寺は、「遠野物語拾遺187」の舞台でもある。ここでは化物貉として登場しているが、そもそも貉は狸似ているが、狸では無い獣として認識されていた。「ムジナかタヌキか、タヌキかムジナ」と、動物の体系が定められていない時代のアナグマは、タヌキと同一のものか、その変化した存在という見方もあった。曹源寺には今でも貉堂があり、貉大権現として、アナグマは神に昇格していた。
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先に書いた様に、何故か空き家・廃屋にアナグマが棲みつく場合がある。恐らくそれは廃寺となった寺院でも同じなのだろう。遠野の寺院の歴史を見ても、一旦は廃れてしまった後に、ある和尚によって再興されたという寺は意外に多い。その廃れた時期に、こうしてアナグマが貉として棲み付き、遠野物語に登場するような、不気味な話として作られ語られる場合が多かったものと思える。人を恐れぬ貉(アナグマ)は、格好の不気味な妖怪モデルとなったのだろう。「遠野物語」には掲載されていない話の中にも、貉の登場する話は多くある。また、東禅寺の和尚であった無尽和尚の母親は貉であったとの伝説も伝わる事から、古くから廃寺などに棲み付いたアナグマの姿が目撃され、こうした話が創作されたのだと思う。
# by dostoev | 2016-12-02 16:28 | 民俗学雑記 | Comments(2)

瀬織津比咩の登場する漫画

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たまたまAmazonで見つけた、中古の少女漫画を購入し読んでいたら、遠野が舞台になった。あれ?と思ったら、瀬織津比咩が登場してきたよ。場面、場面で見た事のある場所が登場し、地元民としては目が離せなくなってしまった。目が離せないというのは、どう描かれているのか?間違いは無いか?などという、期待とあら探しの混雑したものだった。まあ、この漫画は主体が別のところに置かれているので、遠野も瀬織津比咩も味付け程度に描かれているだけ。
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早池峯、猿ヶ石川と、遠野の山や川が登場すると、やはりどこか嬉しい。
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お約束通り、座敷ワラシみたいな人物が登場し、遠野を説明する。
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小友の岩龍神社も登場し、ここにも瀬織津比咩がいた可能性を示唆しているところがあるが、なんか自分のブログを読んだのか?と思ってしまった。
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少女だと思っていたら、少年だった。
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そして、滝の精の様な女性も登場。実はまだまだ連載中で、この遠野編の結末はどうなるのか?アラハバギも結び付けてストーリーは展開するようなので、個人的には目が離せなくなる。取り敢えず、続きを期待して待ってよう。
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# by dostoev | 2016-11-27 07:24 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神の荒魂)

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折口信夫は天照大神について、下記のように述べている。

貴(ムチ)は女神の接尾語であり、"ひるめ"は日之妻(ヒヌメ)で、日神の妃と
いふことになる。神聖なる神女の地位を言ふものである。太陽神を女性とす
る神話も、他民族には例があるから、不思議はないが、日本の場合は日の
神とヒルメとには、対偶神としての存在を示す信仰があった。


対偶神という言葉が適切かどうかは別にして、折口信夫の見解を当て嵌めれば、大日孁貴神とは日神の妻と云う立場になろうか。そして、それを裏付けるかのような資料が、鎌倉時代に成立した「御鎮座次第記」であり、それには下記の様な事が記されている。

「伊弉諾が左目を洗って天照大神の荒魂の荒祭神大日孁貴神を生み」

これをそのまま信じて良いかどうかは別として、この「御鎮座次第記」によれば、荒祭宮に祀られる神とは大日孁貴神であり、天照大神の荒魂とされる。また別に内宮所伝本「倭姫命世紀(天照皇太神荒魂)」の項にも、下記のように記されている。

「左目を洗ひて日天子大日孁貴を生みます。

        天下り化生ますみ名は、天照皇太神の荒魂荒祭神と曰す也。」



大日孁貴神とは即ち、天照大神の荒魂と伝えられている。その荒魂を祀る荒祭宮では現在、瀬織津比咩という神名が祀られている事実がある。大日孁貴神が荒魂であるなら、荒魂と呼ばれた撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは?

原初的な信仰は、彦神と姫神の二柱を祀るのが基本であったようである。ヒルメが日の神妻なら、ヒルコが日の神という事になるのは、陰陽の関係でも明らかである。例えば、天照大神と素戔男尊の誓約の場面で、男神五男神と三女神が誕生しているのは、陰陽の和合とされている。陰陽は、日(火)と水で表され、陰陽五行における火の方位は南であり夏を意味し、色は赤となる。その対極となる水の方位は北であり、冬を意味して、その色は黒色となる。604年に制定された冠位十二階の最高位の色は紫で、この場合は赤色と黒色を混ぜたものとしたのは、陰陽の和合を意図したものである。

北沢方邦「天と海からの使信」で、宗形三女神が誕生した剣は、神武天皇が手にした布都御魂剣と異なり、雌の剣である事に注意すべきだと述べている。剣は所有者の荒御魂とされるが、天照大神と素戔男尊の誓約の場面では、素戔男尊の剣を手にして噛み砕いて誕生したのが宗像三女神であるが、この場合の所有者は素戔男尊であったのか天照大神であったのか。しかし、男神五柱誕生させた素戔男尊が勝利したとの見方から、明らかに天照大神の手にした剣は、天照大神の荒魂を宿したものであると考えられる。天照大神が素戔嗚尊の十握劒を貰い受け、打ち折って三つに分断し、天眞名井の水で濯ぎ噛みに噛んで吹き出し、その息吹の狭霧から生まれた神が宗像三女神であると。それはつまり、天照大神の荒魂から誕生した三女神と考えられる。それを裏付けるかのように「宗像大菩薩御縁起」において、西海道風土記を引用した後の付記に、三種の神器である八咫鏡を祀る辺津宮に祀られる神は「三韓征伐之霊神也。」と記されている。神功皇后の三韓征伐に、宗像三女神が勧請された話は知らないが、天照大神の荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であるなら、天照大神の荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が三分割され「三韓征伐之霊神」として宗像三女神に受け継がれているのならば、納得するもの。宗像の辺津宮に伊勢神宮に関係の深い八咫鏡が祀られていたと云う事から、宗像の神は天照大神の荒魂である可能性は高いのだろうと思う。
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「梁塵秘抄」に、下記の歌が詠われている。

関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、又比良の明神、

        安房の洲、瀧の口や小(野・鷹)、熱田に八剣、伊勢には多度の宮


伊勢の多度の宮が軍神と呼ばれた所以は、平氏にあった。伊勢守であった平氏一派は勢力を拡大して、伊勢平氏と呼ばれる様になり、その極みは平清盛であった。だが厳島神社を信仰した伊勢平氏の以前の信仰の拠点は、伊勢に鎮座する多度神社と多度神宮寺であったが、本来はその背後に聳える多度山であり、それは伊勢平氏の祖霊の静まる霊山と考えられていた。その多度山に斎く神は、多度大神とも呼ばれるのだが、かって祟り神として猛威を振るったとされている。現在の多度大社に祀られる祭神は天津日子根命で、天照大神と素戔男尊との誓約によって生まれた男神五柱のうちの一柱であるのだが、荒ぶる神とのイメージは皆無だ。

ところがこの多度の地は、元伊勢と呼ばれていた。それは崇神天皇時代に、天皇を祟った神として天照大神を出し、滝宮に斎く間に約40年間彷徨い、一時的に斎いだ地の一つが、この多度の地であった。崇神天皇を祟ったという本来の神は、天照大神の荒魂であった。近江雅和「記紀解体」によれば、崇神天皇から離れ遷座の地を求め流離ったとされる旅のメンバーを見る限り、それは武力平定の移動であったろうと述べている。ここで思い出して欲しいのは、神功皇后の武力平定の先鋒でも、荒魂が務めたと云う事。鎮座後に留まるのは和魂であり、行動するのは荒魂であるという事から、滝宮に至る40年間に、各地を荒魂を先鋒として平定し続けた旅であったのだろう。それ故に、多度の地にも訪れた天照大神の荒魂であったからこそ、軍神として梁塵秘抄にも歌われた。しかし祀られているのは天津日子根命であるのだが、恐らく流離の旅の途中、平定した地に神社を建立し、天照大神と素戔男尊の誓約によって誕生した神々を祀っていったのではなかろうか。

田村圓澄「伊勢神宮の成立」に、面白いデータが載っていた。「日本書紀」において「天照大神」という神名が記されるのは、神代記から神功皇后記までで、その後は何故か天武天皇時代にならないと「天照大神」という神名は出て来ないという。では、その神功皇后から天武天皇時代の間の時代に「天照大神」の代わりに記される神名は何かというと、「日神」と「伊勢大神」であるそうだ。「日神」も「伊勢大神」も「天照大神」だろうと思うのが一般的であろうが、違和感もある。何故なら、天照大神は別に「大日女」「大日女尊」「大日孁貴神」などと呼ばれる。全て神名に「女」の漢字が使用され女神だとわかるが、「日神」という表記であれば男神であってもおかしくはないからだ。また日神と伊勢大神の使い分けも、何故にここまで統一性が無いのか気になる。あたかも、日神と伊勢大神はまた別の神という可能性はあると思える。

実は、福岡県に榊姫神社がある。その神社の由来によれば、平資盛の女で、榊内侍と呼ばれた榊姫を祀るのだが、「遠賀郡誌(下巻)」によれば、旅の途中病で倒れた時に、付き添った平家の老女に榊姫は、こう言われた。

「我邦は神の御国、特に伊勢の太神の御名は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と申し奉りて、姫の御名に縁あれば、一心に此御神を祀り玉はむには、などか此難病をも、平癒せさせ給はぬ事やはある。疾く祈願し給へと説き勧めければ、姫も宣なりとて、賢木を根抜きとりて之に木綿して掛けて、朝夕老女と共に拝祈し給ひけり。」

これによれば、"伊勢大神の神名"とは、"撞賢木厳之御魂天疎向津媛命"であるという事。田村圓澄の調べたデータに照らし合わせても、日神と伊勢大神とは別の神という事になる。日神を天照大神に比定すれば、伊勢という冠名が付く伊勢大神であろう撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が本来の土着神であったという事か。仁安3年(1168年)頃、平清盛が厳島神社の社殿を造営し、大規模な社殿が整えられた。その後にも平家一門の参詣があり、厳島神社は平家の氏神となった。しかし多度大神を信仰していた伊勢平氏が新たな神を信仰したわけではなく、本来の天照大神荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の信仰を厳島に迎えたといのが正しいのではないか。厳島明神は、古くは龍女の化身と考えられていたが、それを宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命とする事で、周囲の目を誤魔化したのでは無いか。厳島は神を「斎(イツキ)祀る島」と認識されていたのだが、それならば何故「斎」ではなく「厳」という漢字を使用したのか。それは恐らく、撞賢木"厳"之御魂天疎向津媛命の「厳」を含ませる事によって、本来信仰する天照大神荒魂を祀っているという意志表示ではなかったか。

三浦茂久「月信仰と再生思想」によれば、多くの事例から「天さかる向かふ」という表現は、天を離り極みに向うという形容で、天空を移ろう月や、月に棲むタニクグが天際に渡り行く事に対する常套句であるという。それはつまり「月が空を西に去って行く」事だと述べている。そして撞賢木は、神籬であろうとしている。今でこそ榊は、神の斎く樹木とし認識されているが、東北に於いての榊の自生は無い為に、イチイの木が代用されていた。厳島神社の神楽の古くの記録は1177年で、平家滅亡後の記録でしかないようだ。しかし為政者が変わったとして、神楽そのものの内容が変わるわけでは無く、神楽の儀は、まず榊に神を降ろす神楽から始まる。榊を神籬とする、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を思わせる神楽であると思われる。
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撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という神名が月に関わるものだと理解出来ればもう一つ、神功皇后の存在が気になる。神功皇后の別名が、息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)とも気長足姫尊(オキナガタラシヒメ)とも、もしくは大帯比売命(オオタラシヒメ)とも記される。この別名に含まれる"タラシ"とは、月の満ちる様の表現であるようだ。そして神功皇后は、塩盈珠・塩乾珠という、潮の満ち引きを自在に扱える霊玉を駆使するという、まさに月の引力を扱う月の巫女の様な存在に思える。その神功皇后が仲哀天皇を祟る神を占い、真っ先に神名を呼ばれたのが、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であった。陰陽として、日神の対になるのは、水を彷彿させる月の神であらねばならぬ。「古事記」を読んでも、本来の祭りごとは夜に行われた。神々の時間帯は、太陽が沈んでからであったのを考えても、本来の主役は日神では無く、月神であった筈だ。太陽暦が導入されたのが持統天皇時代であった事から、それ以前は太陰暦であったよう。

この前「竹取物語」に関係する本を読んでいたら、かぐや姫の罪は処女懐胎であると書かれていた。これは、太陽の光を浴びて妊娠するという話で、キリスト教圏の逸話も導入し展開していた。どうやら、かぐや姫を太陽信仰と結び付ける為に書かれた本であった。しかし、民俗学的には日本において月を見て孕む兎の話の他に、月を見ると孕むという禁忌はよくある。太陽では無く、月の満ち欠けが妊娠をイメージさせる為だ。神々についても、「熊野権現垂迹縁起」によれば、熊野三所権現は、本宮の大湯原のイチイの木の梢に、三枚の月の形になった天降ったと語られ、宇佐八幡においても、満月の輪のごとく示現したと語られている。神の降臨は、夜に輝く月にこそあったという事。撞賢木厳之御霊天疎向津媛命こそが本来、古くから日本で信仰されていた神では無かったか。それが太陽信仰の普及と共に消されてしまったのかもしれない。まだまだ書きたい事があるが、今回は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命に関係する事を簡単にまとめてみた。
# by dostoev | 2016-11-26 00:45 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

新釈・六角牛の語源(六角氏と六角牛)

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たまたま佐賀県を調べていたら、六角川というのがあった。その六角川に牛津川が合流して、有明海に注ぐという。六角と牛を重ねれば、"六角牛"になる?と妙に気になり、その水源を調べてみると神六山が水源であった。なんかそのまま"六角牛"という名前が出来そうな組み合わせと思った。そこで佐賀県のその地域を調べてみると、やはりというか佐々木系六角氏が移り住んでおり、その六角氏の名前が河川名になったようだ。

遠野市には、菊池氏についで佐々木氏が多い。阿蘇地域の菊池郡を調べると、琵琶湖周辺の神社と同じ名前の神社がいくつかあったら、やはり佐々木氏が菊池郡に移り住み、菊池氏の家来として共存していた。菊池という姓は、西高東低で、西日本には"菊池氏"が多く、東日本には"菊地氏"が多い。しかし局地的に菊池氏が多いのは、遠野市でもある。更に、全国ベスト10に入るほどの佐々木という苗字も、何故か半分以上は秋田県と岩手県に分布している理由が未だにわかっていないようだ。しかし、菊池氏がいるところに佐々木氏も多いとなれば、菊池氏と佐々木氏との関係に、何かしらの縁があってのものじゃないだろうか。

遠野で一番古い神社は早池峯神社であるが、その次の神社は六神石(六角牛)神社となる。早池峯という名前には、いろいろな説があるが、早池峯の水神は菊池氏が奉斎する神と同一であるのはわかった。奥州市の菊池神社には、そのまま水神姫大神が分霊されている事からもあきらかだろう。そして早池峯に次ぐ六角牛がもしも佐々木氏系六角氏の名前を重ねているのならば、菊池氏に次いで六角氏がその山名の由来になった可能性もあるのではなかろうか。

今までいろいろ考えてみたが、また六神石神社の元宮司である千葉氏もあれこれ考えたようだが、六角氏(ろっかくし)が、そのまま転訛して六角牛(ろっこうし)と呼ばれる様になったというのが、一番すっきりする。
# by dostoev | 2016-11-19 20:23 | 六角牛考 | Comments(0)

希望者多し、早池峯神社

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やはりというか、早池峯神社まで行く事のできるバスが無くなってしまい、どうやって早池峯神社まで行こうかと思案にくれている人達が、たまに自分の営む民宿に泊まりに来てくれる。早池峯神社へは最近、座敷ワラシ関連で行きたい人達が増えている。平成当初ではそうでもなかった早池峯神社の座敷ワラシ祈願祭が、かなり広まったと云う事だろう。
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座敷ワラシが覗いていたと云われる、樹齢千年を超える杉の大木。
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一気に始まった落葉掃除に精を出す、お爺さんがいた。確か早池峯神社の宮司さんの父親であったかと認識している。
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10月末には、緑色の葉っぱのまま落葉していた銀杏が、黄色く染まっていた。
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そして早池峯神社の次に訪れるのは、最近になって座敷ワラシの話が盛り上がっている隣接する"ふるさと学校"だ。座敷ワラシの出ると云われる部屋の前の廊下には、それらの出来事を紹介する新聞が貼られている。訪れる人達によって盛り上がる座敷ワラシ騒動。こうして人のエネルギーは、蓄積されていくのだろうか。
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# by dostoev | 2016-11-06 07:54 | 御伽屋・幻想ガイド | Comments(0)