遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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河童と瀬織津比咩(其の十三)結(其の二)

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恐らくだが、遠野で一番古い河童の伝説は、光興寺に住む人達に語られていた「猿ヶ石川物語」ではなかろうか。河童が全国に流行したのは江戸時代になってからであるが、九州などの地域では、それ以前から伝わっている。遠野もまた、江戸時代から明治時代にかけて河童の話が出回っているが「猿ヶ石川物語」は恐らく、高清水山の麓に阿曽沼が城を築いた時代まで遡る事が出来るのではなかろうか。以前、高清水の麓である光興寺近辺の古老に聞くと、大抵「南部は嫌いだ。」と答える。阿曽沼が没落して400年程経った今でも、阿曽沼に想いを抱く光興寺近辺に住む人達にとって、昔から語り継がれていた伝承もまた大切なものであるのだろう。

阿曽沼時代の横田城では、常に目の前に猿ヶ石川が流れていた。その阿曽沼の信仰には、日光中禅寺湖の蛇神の存在があり、それは琵琶湖を舞台にした、俵藤太伝説に繋がるものであった。その蛇神とは、白龍であり白蛇。宇迦御魂命とは、白蛇の梵語である。九州地域では、瀬織津比咩の異称とされるのが白龍である。その白龍に関する話が「猿ヶ石川物語」に載っている。その「猿ヶ石川物語」の始めは、又一の滝から始まっている。早池峯に祀られる瀬織津比咩は、滝の女神でもある事から、猿ヶ石川の根源は、早池峯の滝神から始まったと捉えても良いだろう。
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猿ヶ石川と早瀬川の合流点である落合には、"河童の座石"という石があり、いかなる洪水でも水に隠れる事は無いと云われる。ここは別に「女ヶ淵」と云われ、女河童が出るとされていた。これは女河童が石の上に座り休むと云う意味合いでもあろうが、例えば「遠野物語拾遺29」「淵の中に大きな白い石があるが、洪水の前などにはその岩の上に、白い衣装の婦人が現われて、髪を梳いているのを見ることがあった。(抜粋)」また「遠野物語拾遺30」「前にいう松崎沼の傍には大きな石があった。その石の上へ時々女が現われ(抜粋)」というように、猿ヶ石川に他にも石の上に忽然と現れる女の話があり、それは女河童か?と問われれば、そういう訳では無い。そして今回の河童の座石がある女ヶ淵も、本来は女河童が出るからと女ヶ淵と呼ばれたわけではないようだ。この「女ヶ淵」には伝承があり、基本は「遠野物語拾遺25」と同じなのだが、別伝承では三姉妹のうち、末の妹が猿ヶ石川の主に貰われて行った事になっている。これがどうも、遠野三山の三女神伝説に重なりそうで、末娘が早池峯山を女神になるものに対応するかのように、女ヶ淵では末娘が早池峯を源流とする猿ヶ石川の主のものとなる話になっている。猿ヶ石川の主は、龍神だ河童だとする説があるが、その猿ヶ石川の始まりが又一の滝である事から、主の正体はあきらかだろう。

女ヶ淵の河童の座石は、早池峯の麓である又一の滝から来たものとされていた。この女ヶ淵に入ったのは女白蛇であり、その命を受けて河童が石を守っていたという伝承があった。やはり竜蛇神の眷属、そして瀬織津比咩の眷属としての河童がいた。

また「谷内権現縁起古老伝」に記されている「当に今此石を以て礫に擲げ、其の落ち止まる地を以て我が宮地と為すべし。」という文章から発生した下記に紹介する「逃げ石」の伝承というものがある。

昔早池峰山に、白髭が膝まで届く老翁が住んでいたという。或る時の事、この老翁が小石を足で蹴り落とし、早池峰山を下っていったという事である。ところが、この石の取り除かれた所から、水が湧き流れ出て、今の猿ヶ石川になったと云う事である。この老翁が蹴り落とした石は、綾織の根岸の里で動かなくなったと。それを確認した老翁は、そのまま再び早池峰山に帰ったのだという。しかしその石は不思議な事に、その土地から逃げ出し、一夜のうちに和賀郡丹内村のヤツアナのガコに行って止まったと云う。今でもその石はその淵の中にあって、権現頭のような形をして、常に早池峰山を睨んでいるという事である。「逃げ石」

この「逃げ石」の話は、「猿ヶ石川物語」の始めである石が転がる話に対応している。ところで和賀郡丹内村のヤツアナのガコとは、丹内山神社の事であった。丹内山神社は早池峯山の方向に向いて建立された神社で、その間にある瀬織津比咩を祀る滝沢神社が丹内山神社の神が顕現したところとされている。つまり丹内山神社も早池峯山に関する神社という事である。そして丹内山神社の石がそれ以前にあった地が、綾織の根岸という事になる。

柳田國男「玉依姫考」を読んでいると"神が石を生んだ"とする信仰が深く根付いていたようだ。そしてその石は、更に石を生むと。全国的には、熊野または伊勢より携えた石が子を生む話が広がっている。「猿ヶ石川物語」にも石が三分割になった話が紹介されているが、その中の一つは河童である子供の石であった。その母親である石は、猿ヶ石川の落合の女ヶ渕へ行ったとあり、その石を守ったのは河童とある事から、落合の河童座石と重なる。そしてその母親の正体は、白蛇である。つまり男神と女神(白蛇)が結び付いて生まれたのが、河童であったという事になる。

神が石を生むを猿ヶ石川に照らし合わせた場合、又一の滝を源流とする猿ヶ石川沿いに神の降り立つ影向石が定められ、後から伝説化されたものではないかと思える。東和町の熊野神社にある兜跋毘沙門天は、猿ヶ石川を見るように鎮座させられているとされている。猿ヶ石川は田瀬ダムが出来る以前は、水量も豊富で丹内神社や、兜跋毘沙門天を祀る熊野神社のすぐ下を流れていた。熊野大社もそうだが、川の源流神を祀るのは当然の事で、その源流に鎮座する瀬織津比咩を崇めるのは自然の流れであったろう。その猿ヶ石川の流域を神格化し、伝説化するに当たり、石と河童が登場するのは、やはり背景に九州の伝承が重なっているのだろう。瀬織津比咩という女神に仕える水妖の河童。それがいつしか、その奇異さから河童だけが単独で伝え広まったものと思えるのである。
# by dostoev | 2018-01-08 17:05 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(0)

多国籍文化共生のカオス

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昔、椎名誠の本を読んでいたら、確か新宿の喫茶店に入ってコーヒーを飲んでいると、隣の席にアベックがいたと。アベックはドイツ語で、カップルの意味でもある。昔はアベックが一般的だったが、それがカップルになったのはもしかして、柳沢きみお「翔んだカップル」が流行ってからだったろうか?とにかく椎名誠が喫茶店の席に座っていると、隣のアベックの男が、彼女に対してしきりに「アイラブユー」を連発していたと。よく洋画にはまると、洋画のセリフがカッコイイと思い、それを言ってみたくなる時がある。しかし、日本の日常世界に急に「君の瞳に乾杯」などというキザなセリフは浮いてしまうので、躊躇する人が殆どだと思う。しかしその男は、しきりに「アイラブユー」を連発していたのは称賛に値する。しかし、やはり日本社会では受け入れられないのが現状だろう。

西洋人に憧れて、鼻を高くする整形を施したり、髪を金髪にする人は、かなり日本に定着している気がする。基本的に、白人はカッコイイと思っている人が多いからだ。それと共に、黒人がカッコイイと思っている人達もいる。それに合わせるかのように、俗にブラックミュージックと云われるものの演奏をしたり、ファッションを真似したりと、それはそれで問題は無い。しかし最近、とある芸人が顔を黒塗りにして黒人の真似をした事が"黒人差別"だと叩かれている。白人の真似をするなら、整形をして髪を金髪にすれば、それらしく見える。しかし黒人に憧れている人や、黒人の真似をしたい人は、どうすればいいのだろうか?その前に、髪を金髪にするのは、"白人差別"にならないのだろうか?思えば「チビクロサンボ」という童話も、差別だとされ世の中から姿を消したようだ。また例えば日本の漢字にしても障害者に「害」という漢字が含まれているから差別だ!と騒ぎ、いつからか「障がい者」という表記も普通になりつつある。ただ思うに、その差別だと声を掲げる人達は、例えば「広島」を「ヒロシマ」と表記し、「福島」を「フクシマ」と表記しているようだ。つまりどこかで日本文化の一つである、漢字文化の破壊をしいるように思えて仕方ない。差別を乱用すれば、いろいろなものを無くしてしまう可能性はある。

話は横道にそれたが、白人・黒人の話は、どちらかというとアメリカ文化の流入からきているものだ。ところが最近は、いろいろな国から日本に住みつく人達が増えて、田舎に住んでいるとわからないが、東京へ行くと、まるで日本じゃない気がするとの話も聞く。いろいろな国の人達が日本に住めば、いろいろな文化もまた日本に溶け込もうとするだろう。例えば、外来語やカタカナ英語などは、昔から日本文化に融合された感じで定着している。それでも、あくまで単語としての外国語であって、自分の気持ちを伝える一つの日本の言葉で「愛してる」を「アイラブユー」と訴えても違和感しか残らない。

似た様なものに、遠野市のスーパーでいつからか挨拶を朝鮮式挨拶に変えたスーパーがある。「ありがとうございます」と言いながら、朝鮮式の肘を広げる挨拶だ。これにはいつも違和感を覚える。何故なら、逆に日本式挨拶をしながら中国語の「シェイシェイ」と言ったら、買い物客はどう思うかだ。英語の「サンキュー」と言った場合、買い物客はどう思うかだ。地元のスーパーは、そういう事をやっている。音で発すれば目立つから、音は日本語で発し、仕草は朝鮮式にするから目立たない様に思えるだろうが、世の中には仕草を見ている人達はかなり存在する。挨拶の言葉は耳で受け入れ、挨拶の仕草は目で受け入れてしまうから、目に映る違和感がありすぎるのだ。ただ先の外国文化に憧れて真似する人はいる。その遠野のスーパーでは全ての人が朝鮮式挨拶をしているわけではないが、最近入った新人さんが、やはり朝鮮式挨拶をしている事から、上からの指導があったのが理解できる。つまり、朝鮮式挨拶を指導した経営者が、朝鮮文化に憧れを持って、従業員に指導しているのかとも思える。それならば中途半端な事はせずに、挨拶の言葉も日本語から朝鮮語に変えてもいいのでは?などと思ったりもする。何故ならそのスーパーは新たな文化の発信を、自分の店で出来るからだ。慣れてくれば、受け入れる人達も増えるのではないか。ただし、自分はダメ。やはり日本式の「ありがとうございます」の言葉には、日本式の挨拶でして欲しいからだ。

元々多様化している文化を持つ日本。「エッサ!ホイサ!」という掛け声の「エッサ」とは、ヘブライ語で「担ぐ」という意味になるという。古代にはすでにヘブライ語を導入していたのか?となるが、真意はまだよくわからないようだ。ただ日本が国として確立しようとした頃は、諸外国のいろいろなものを取り入れていたのだろうと予想は付く。殆どは中国から多くの書物が輸入され検討されたようだが、その中にはトンデモ本も混じっていた様なので、おかしな知識も入ったのだろう。また羊太夫の様に、クリスチャンも古代に居た事から、キリスト文化が日本に文化に融合されていたとしても驚きはない。キリスト教が禁止され、外国の宣教師が国外追放となってから、クリスチャンとなった日本人達が、見よう見まねで、宣教師たちの真似をしてキリスト教の教義を模倣していたという。しかしそれはどんでもないもので、明治時代になって多くの宣教師が訪れ、隠れキリシタン達の信仰方法を垣間見、それはもうキリスト教とは、かけ離れた不思議なものになっていたらしい。これもまた日本文化との融合であったのだろう。普通の阿弥陀如来像に罰点が付いているだけで、キリスト信仰であるとした場合、本来の宣教師達は、それを認める事が出来ないだろう。つまり隠れキリシタンの信仰形態は、あまりにも日本的過ぎて外国人宣教師から否定されたのだった。ただ外国文化が日本文化と融合した場合、あくまで日本文化主導の融合であるなら、それはすんなり受け入れられるだろう。中華料理なども、そのままの味が日本に来るのではなく、日本人の好みの味に直されて広がったと同じだ。そういう意味では、これから様々な多国籍文化が日本に流れ着いたとしても、残るのは日本流にアレンジされたものだけが残るのだろう。
# by dostoev | 2018-01-07 12:16 | よもつ文 | Comments(0)

早池峯での心霊体験(宮澤賢治)

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昨日、以前泊ったお客さんから、本のコピーが送られて来た。三浦正雄・矢原秀人「あの世はあった」というタイトルで、読んでみると、宮澤賢治の心霊体験について記してあった。賢治の心霊体験は、宮沢賢治「河原坊」という詩と、森荘巳池「宮澤賢治の肖像」佐藤隆房「宮澤賢治(改訂増補版)」からの引用であった。

まずは、宮沢賢治「河原坊」の一部を紹介。

寒さとねむさ もう月はただの砕けた貝ぼたんだ

さあ ねむろう ねむろう

…めざめることもあろうし そのまま死ぬこともあろう…

誰かまわりをあるいているな

誰かまわりをごくひっそりとあるいているな

みそさざい みそさざい

ぱりぱり鳴らす 石の冷たさ 石ではなくて二月の風だ

…半分冷えれば半分からだがみいらになる…

誰かきたな

…半分冷えれば半分からだがみいらになる…

…半分冷えれば半分からだがみいらになる…

…半分冷えれば半分からだがみいらになる…

そこの黒い転石の上に うす赭いころもをつけて

裸脚四つをそろえて立つひと

なぜ上半身がわたしの眼には見えないのか

まるで半分雲をかぶった鶏頭山のようだ

…あすこは黒い転石で みんなで石をつむ場所だ…

向うはだんだん崖になる あしおとがいま峯の方からおりてくる

ゆうべ途中の林のなかで たびたび聞いたあの透明な足音だ

…わたくしはもう仕方ない 誰か来ように ここでこう肱を折りまげて

睡っているより仕方ない だいいちどうにも起きられない…


叫んでいるな(南無阿弥陀仏)(南無阿弥陀仏)(南無阿弥陀仏)

何というふしぎな念仏のしようだ まるで突貫するようだ

もうわたくしを過ぎている

ああ見える 二人のはだしの逞しい若い坊さんだ

黒の衣の袖を扛げ 黄金で唐草模様をつけた

神輿を一本の棒にぶらさげて 川下の方へかるがるかついで行く

誰かを送った帰りだな 声が山谷にこだまして

いまや私はやっと自由になって 眼をひらく

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まず驚いたのは、宮沢賢治は早池峯の岩の上に、そのまま寝たという事。登ったのは夏の様だが、詩の中の表現に「ぱりぱり鳴らす 石の冷たさ 石ではなくて二月の風だ」というのは、それだけ寒かったという事なのだろう。夏の夜を早池峯山頂で過ごすと、今が夏である事を忘れるくらいに寒い。その早池峯の寒さを、そのまま石の上に寝る宮沢賢治とは、常人ならざる者としか思えない。ただ極限に身を晒すと幻覚を見るという話を聞いた事があるが、この時がそうであったのだろうか。

また気になったのは、宮沢賢治が呪文のように「みそさざい みそさざい」と言っている事だ。鳥の「ミソサザイ」は別に「ミササギ」とも云う。「ミササギ」は天皇陵の意味にもなる事から、宮澤賢治は自らが横たわった石の上を天皇陵に模したものかとも思えてしまう。その後に「半分からだがミイラになる」と言っている事から、寒さと孤独を表現し、それはやはり天皇陵を意識しているのかと感じてしまう。山は、魂が登る地とも云われた。山を、疑似墓所とする場合もある。その山の中でも早池峯は、その信仰圏が際立って広い。早池峯山頂手前には、賽の河原と呼ばれる場所があるが、この「河原坊」の詩の一節に「みんなで石をつむ場所だ」という言葉から、早池峯全体が霊界である認識をしていたのだろう。
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この「河原坊」という詩とは別に、森荘巳池が「宮澤賢治の肖像」で、宮沢賢治が早池峯で体験した言葉を紹介している。

お月さまもあって静かでよい晩でしたね、うつらうつらしていましたらねえ、山の上の方から、谷あいをまるで疾風のように、黒いころもの坊さんが駆け降りて来るんですよ。念仏をとなえながら、またたく内に私の前を通り過ぎ、二人とも若い坊さん達は、はだしでどしどし駆けて行ったんです。不思議なこともあるもんだとぼんやり私は見送っていましたがね。念仏はだんだんに細かく微かに、やがて聞こえなくなったんですよ。後で調べたら、あすこは昔大きなお寺があったとこらしいんですね。河原の坊といわれるところでしたよ。土台の石なんかもあるという話でしたよ。何百年か前の話でしょうねえ、天台か真言か古い時代の仏跡でしたでしょうねえ。
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そしてもう一つ佐藤隆房「宮澤賢治(改訂増補版)」では、宮澤賢治が金野医師に語った、早池峯での霊体験の話が紹介されている。

僕はもう何べんか早池峯山に登りました。あの山には、御承知かもしれませんが早池峯の七不思議というものがありまして、その一つに河原の坊という所があります。早池峯の登山口で裾野をのぼりつめたところの岳川という、岩をかむ清流の岸辺にありまして、言い伝えでは何でも何百年か以前に天台宗の大きな寺のあった跡で、修行僧も大勢集まっていて、随分盛んなものだったということです。そこでは今も朝の小暗い黎明時に、ひょっとするとしんしんと読経の声が聞こえて来ると噂されております。先年登山の折でした。僕はそこの大きな石に腰を掛けて休んでいたのですが、ふと山の方から錫杖を突き鳴らし、眉毛の長く白い見るからに清々しい高僧が下りて来ました。その早池峯に登ったのは確か三年ばかり前なのですが、その御坊さんにあったのは何でも七百年ばかり前のようでしたよ。
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「河原坊」の詩とは違い、知人に語る心霊体験談は、ひょうひょうとしている。ある意味、照れ隠ししているかのよう。宮沢賢治の父は、常々「怪力乱神」を語ってはならぬと諌めていたようだ。それでも、そういうモノを頻繁に体験・遭遇する賢治は、それを淡々と話す事で大袈裟にしないようにしていたのかもしれない。宮澤賢治本来の感覚は詩に表し、その感覚を抑えた表現を知人に語っていたのだろう。

「神輿を一本の棒にぶらさげて 川下の方へかるがるかついで行く

                     誰かを送った帰りだな」


宮澤賢治の心霊体験が本当なのかはわからぬが、この詩の一節から、早池峯には死者の魂が昇り集り、それを坊さんの霊たちが、川へと持って行き禊をしているかの表現になっているのは、三途の河を意識して見た幻なのか。見える人と、見えない人という表現があるが、誰でも「そこに霊がいる」と言えば、大抵の人が冗談を言っているのだと思ってしまう。だが宮沢賢治の感覚は、どこか一般人とかけ離れているのは、多くの人が理解しているのだと思う。その賢治が見たと言えば、殆どの人がそれを認めてしまうのではなかろうか。テレビに出演する胡散臭い霊能力者の「あなたの後に霊が!」という言葉より、現代人にとって"宮沢賢治なら仕方ない"と認めてしまう雰囲気はあるような気がする。

佐々木喜善もそうだったらしいが、いつもどこか遠くを見つめていたらしい。それはこの世とは違う場所を見つめていたようだ。それと同じように、宮沢賢治もまた、人の見えぬ世界を見つめていたからこそ、あれだけの作品と、人と違った表現が出来るのだなとも思える。

宮澤賢治は他に、大入道を見たとか、餓鬼の声を聴いたとの体験談もあるようだ。そこでふと以前、遠野の早池峯神社境内で大入道を見たと云う人の話を思い出した。変なもので、大入道を見たというと、どこか胡散臭く感じるが、宮沢賢治も見た大入道と同じとなれば、どこかで『もしかして有り得るか?』などと、思ったりもする。宮澤賢治は、現実世界と、また違う別世界に足を踏み入れている住人だと感じていた。こういう霊体験は、普通にするだろうとも。それ故に、早池峯で僧の幽霊を見たといって驚きはしない。それよりもこれを読み、自分は宮沢賢治の時代における早池峯の立ち位置であり、存在を再認識した。宮澤賢治が惹かれた早池峯という山は、蛇紋岩だけでなく、その信仰の深さにもあったのだろうと。
# by dostoev | 2018-01-06 17:01 | よもつ文 | Comments(0)

女人禁制(宗像沖ノ島への危惧)

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早池峯はかつて、女人禁制だった。いや早池峯だけでなく、いくつかの山々が女人禁制だった。例えば遠野三山に伝わる姥石の伝説は、女性はここから先に足を踏み入れれば祟りに遭うとされた境界が姥石であった。それとは別に禁足地というものがあり、男でも入れない聖域というのもあり、現代でもそれを維持している場所もある。

高山を登るのは、山伏かマタギくらいだった。里人は、必要な芝刈や山菜・キノコ採りなどは、里山があればじゅうぶんだった。綾織三山というものがある。これは、二郷山・笠通山・桧沢山を三山と制定したようである。ところが遠野三山の石上山が抜けているが、それは石上山が別格で、里人の登る山では無いとの認識であったようだ。石上山の姥石の話は「遠野物語拾遺12」に紹介されている様に、石上山は綾織の人々にとって、山としての格の高さを物語る話であるのだろう。ただ二郷山や笠通山にも、恐ろしい話が伝わる。それは山とは何が棲んでいるかわからない恐ろしい場所だと認識されていた為であろう。

日本中に、多くの女人禁制の山々があったが、明治時代になり西洋からアルピニストの精神と共に登山文化が輸入された。それから多くの山々に人々が登るようになった。明治時代に広まったのは、文明開化の名のもとに現代でも広く信仰?されている、科学とスポーツであろう。そのスポーツ枠に登山が属している。とにかく明治時代から急速に、登山文化が普及した。それと共に、山に抱いていた恐れが無くなり、一般人は科学を崇拝し、今まで抱いていた山に対する恐れが迷信であると認識され始めた。しかし代々神社などに奉仕する人達にとって、それは有り得ない話であった。例えば三峯神社の宮司さんは、「みね」という漢字を当用漢字の「峰」ではなく、未だに「峯」を採用しているのは、山を頭の上に置くのが、山に対する敬意だと考えているからだ。しかし、その考えは一般人には、なかなか伝わらないもの。

平成初期であったと思う。遠野で山神の祭が12月12日に執り行われた。それを取材しようと、いくつかの新聞社が記者を派遣した。その中で確か、読売新聞社であったと思うが、女性記者を派遣したのだった。山神は女を嫌うとされる。その理由は、自分より美しい女に対して嫉妬するからなどという話があるが、平成の世になれば、そういう山にも女性が登っていたので、そんなものは迷信として一蹴されていた。しかし、山神の祭には女人禁制が継続していたのだった。その為、山神の祭りの関係者から「まあ迷信でしょうけど、昔から山神の神事は女人禁制でやっていましたので、今回は申し訳ありませんが…。」と、女性記者を派遣した読売新聞社だけが取材拒否となってしまった。男女同権を謳う現代の世の中でも、日本の神々に携わる地には、こうして女人禁制などの迷信が未だにあった。しかし、それを否定しようとは思わない。昔からそれを信じて奉斎してきた人々にとっての、心の拠り所であるからだ。現代となっても、守るべきは守るのが日本の伝統文化でもあるのだろう。
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ところが2005年11月3日、大峰山の女人禁制に反対する伊田広行、池田恵理子らが結成した「大峰山に登ろうプロジェクト」のメンバーが、大峯山登山のために現地を訪れ、寺院側に質問書を提出し、解禁を求めたが不調に終わった。その結果改めて話し合いの場を設けることで合意して両者解散したが、その直後に問題提起の為としてプロジェクトの女性メンバー池田恵理子を含む3人が登山を強行した。大峰山を含む紀伊山地の霊場と参詣道は、世界遺産にも登録されていた事に起因するようだ。厄介なのは、このメンバーの一人である池田恵理子は、NHKのチャイナスクールと呼ばれる中国べったりの一派の代表でもあった。もう一人は伊田広行で、国会議員でもある辻元清美の支援団体「つじもとネット」代表である。国会議員の辻元清美とは、自ら「自分は国会議員ではなく、国家の枠をいかに破壊させるかという国壊議員だ。」と宣言している。恐らく伊田広行の黒幕として、辻元清美がいるのだと思う。調べれば出て来るが、現在騒がせている学校法人森友学園問題でも、裏で辻元清美が工作員を使って暗躍しているようだ。池田恵理子は中国系に、辻元清美は朝鮮系にべったり関わっているようだ。何をしようとしているかは、過去の行動から、日本文化の破壊にも関わっているよう。だからこそ、日本に古くから伝わって来たものを壊す事が目的なのかもしれない。今の時代は、男女同権や差別という言葉を発すれば、何でも良しとされる風潮もある。神社界などは、格好の標的だろう。だから簡単に、女人禁制であった大峯山に強行侵入した。これだけで、古より守り続けてきた日本の伝統文化が凌辱されてしまった。その後、この大峯山に池田恵理子も伊田広行も関わって無い事から、初めから伝統文化の凌辱が目的だったと思えてしまうのだ。そして次は、やはり世界遺産登録を目指している宗像の沖ノ島だろう。この沖ノ島は、現在の日本で唯一、女人禁制を守っている地ではなかろうか。世界遺産登録を果たした後、大峯山と同じ悲劇が待っているようにしか思えない。現在のリベラル派と呼ばれる者達は、どちらかというと左翼というより反日派であり、こういう日本の文化を否定する者が多い。辻元清美を筆頭に、皇室廃止を唱え、神社の在り方を否定する。そういう者達にとって宗像沖ノ島は、格好の餌食になるのではないかと危惧するのである。
# by dostoev | 2018-01-05 09:41 | よもつ文 | Comments(0)

食べてすぐ寝ると牛になる

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自分が小さな頃から「食べてすぐ寝ると、牛になるよ!」と言われていた。要は、怠け者と言いたいのだと思っていた。確かに、食べて寝ると食べた物が体に蓄積され、太ってしまう。太っているのは、運動量の少ない=怠け者と思われがちだと理解していた。ネットで意味を検索すると「食事をした後に、すぐ、横になったり、眠ったりするのは、行儀が悪いので、 そのことをいましめた言葉。」とあった。確かに、行儀が悪いでもある。例えば正月なりに親族が集まり、飲み会が開かれると、男衆は酒を飲み、肴を食べ、のんびりとしている。酒の影響もあって、そのまま寝てしまう男衆もいる。しかし女衆は、酒を出したり、料理を出したり。そしてそれらを片付けたりと、なかなかのんびりと休めない。だから、この諺は、男衆に対しての言葉ではないかと思っていた。

ところが伊能嘉矩「遠野くさぐさ」に「寝て食へば牛となるてふ物語」というものが紹介されていた。奥州の説話に、三浦浄心「名所和歌物語(1614年)」というものがあり、伊能嘉矩は、それが根源ではないかと述べている。「遠野くさぐさ」を、そのまま記せば読み辛いと思うので、解り易く簡単に訳して書いてみる事とする。
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栗原郡の筑川という所に、沼があった。その沼の中に島がある。そこに縫衛門という老人がいて、一人の僧を食わしていた。その僧は、読経もせず、墨染めのボロ法衣をまとって昼寝しながら貪り飲んでいた。すると、どこからか黒い牛が現れ畑を荒らしていたので、縫衛門が捕まえた。それより僧の姿が見えなくなったので探してみると、実は僧が牛になった事がわかった。その後、縫衛門も昼寝をした後に牛になったので、不思議に思った村人達は、沼を掘り、その沼に二匹の牛を沈めたと云う。この沼に二匹の牛を沈めて102年経つが、その牛は今でも時々現れるのだそうな。
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この話は、遠野の善明寺に伝わる「真似牛の角」の逸話を思い出すが、本来は宮城県小牛田町の「牛飼長者伝説」に似通っている。「牛飼長者伝説」では、孫右衛門という男が一人のみすぼらしい坊さんを家の中に招き入れ食事を与え、新しい小屋を建てて住まわせ、朝夕心を尽くして、食事や身の回りの世話をしていた。しかし、その坊さんは牛になってしまったのは、何もせずに世話になっていた罰だとして、孫右衛門の家畜として一生働くと近い、孫右衛門は村一番の長者となったという話だ。ただ時代的には恐らく、三浦浄心「名所和歌物語(1614年)」の方が古いようだ。

ここでわからないのは、何故牛を沼に沈めたのか。例えば「遠野物語55」では、生れた醜悪な河童の子を切り刻んで土中に埋めたという話に類似したものであろうか。102年経っても出るというのは、やはりそれは牛では無く、人間だと云う意識からであろう。それは半人半牛の"件"をもイメージしてしまう。ともかく「食べてすぐ寝ると牛になる」とは、仏罰を意図した諺であるのだろう。
# by dostoev | 2018-01-04 18:30 | 民俗学雑記 | Comments(0)

遠野物語の山の舞台は、早池峯より東側の山に多し

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「遠野物語」の舞台の中心は?と問われれば、やはり佐々木喜善の住んでいた山口部落を中心と答えるだろう。そして「遠野物語」の数多くの話の舞台は、山となる。その山に関してだが、有名なマヨヒガの話は白望山周辺となる。その白望山は、遠野盆地の東側に位置する山でもある。
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耳切山から荒川高原にかけて、夜に車を歩走らせると無数の日本鹿に遭遇する。ところが、その無数の日本鹿がいる筈の高原を冬に訪れても、足跡を発見できない。あるのは、兎やキツネなどの小動物の足跡ばかりである。そうそう、この時は、カモシカに遭遇した。しかし、日本鹿の姿を見る事は出来なかった。

雪を苦手とする鹿は、雪が降ると山を越え、雪の降らない沿岸域へ避難する。かって青森県までいたイノシシも雪を苦手とする獣であるが、やはり生息していたのは青森県でも雪の比較的降らない太平洋沿岸部である八戸市近辺であった。江戸時代の記録によれば、八戸市では猪に畑を荒らされ飢饉となり、餓死者が200人にもなったと云う。猪であれ日本鹿であれ、苦手な冬の雪を想定すれば、山に囲まれた遠野盆地の中でも、東側に多い理由が、これになる。実際、夜に西側の山へ車歩走らせても、動物との遭遇率は東側の山と比較して、かなり低い。「遠野物語」には、動物の話も多いのだが、先の理由から殆どが東側の山が舞台になっている。ただ狐や狸だけは、遠野のどこでも万遍なくいるようだ。その為、狐の話だけは、遠野全体に広がっている。
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かつて狼が、遠野に多く生息していた。これは江戸時代から明治時代にかけて、五葉山が鹿の宝庫であったせいもある。その為、堺木峠の沿岸寄りに廃村があるが、その辺りでは三峰様の石碑が多く建っている。また、大槌町の金沢には「オイノ祭り」と呼ばれる「狼の産見舞い」の民俗儀礼が、今尚行われている。「オイノ」とは、「御犬」からの転訛である。金沢の人の話では、大した事が無い祭なので、見に来なくてもいいよ、とは言う。それは毎年2月19日に山神と三峯山の石碑まで幣束と供物を持って御参りするだけのものらしい。供物は御産した狼の乳の出を良くする小豆飯のお握りと、吉次などの赤魚や鶏卵であるようだ。このオイノ祭も、五葉山中心に多くの日本鹿が生息していた為、それを捕食する狼もまた多く生息していた時の名残である。

和野の佐々木嘉兵衛、或年境木越の大谷地へ狩にゆきたり。死助の方より走れる原なり。秋の暮のことにて木の葉は散り尽し山もあわは也。

向の峯より何百とも知れぬ狼此方へ群れて走り来るを見て恐ろしさに堪えず、樹の梢に上りてありしに、其樹の下を夥しき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。その頃より遠野郷には狼甚だ少なくなれりとのことなり。

                        「遠野物語41」


この様に堺木峠より沿岸寄りには、狼が沢山生息していたようだ。その狼の群れが最後に向ったのは、北。北というと、北に聳えるのは早池峯というイメージになる。狼が北に向かったのか、それとも早池峯に向ったのかはわからぬが、何となく象徴的な表現になっている。ただこの頃の狼は、狂犬病にかかり、また懸賞金がかけられ、多くの狼が殺されている時代でもあった。死期を察するものは、北へと逃げるのは、古代から物部氏や、源義経、長慶天皇など、多くの人間達もまた北へと逃げて来た。北に何があるわけでも無いだろうが、北を目指したのは追い詰められての苦肉の方角でもあったか。ところで、早池峯近辺には伝説も付随する狼岩という地名があり、早池峯神社はドローンも飛ばない電磁波を発生しているよう。白鳥は磁気を感じ取り、北へと向かうとも云われるが、狼も地磁気を感じる能力があるのだろうか。「遠野物語41」での狼が北へ向かう行動は、本能からのものであろうとは思う。ともかく「遠野物語」の山の舞台は、北に聳える早池峯から東の山にかけてが殆どである。今は居なくなった日本鹿も、厄介な事に雪が融けはじめる春には、再び北に聳える早池峯から東の山々に、大挙戻ってくるだろう。
# by dostoev | 2018-01-03 18:24 | よもつ文 | Comments(0)

初夢は?

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遠野の卯子酉神社へ行くと、沢山の恋の願いが成就されたいと、赤い布切れに結ばれ、それを待っているかのよう。平安時代は俗に王朝時代とも呼ばれ、沢山の恋の歌が詠まれていた。有名な、小野小町の歌がある。

いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣を返してぞきる

衣を返して着るとは、非日常にする事だと思う。つまり夢の中の恋くらいは、非日常として楽しもうという意味だろうか。これは夢を夢として楽しもうとする小野小町の気持ちを感じるが、この頃にはまだ夢と現実の境がまだわからない時代でもあった。例えば「蜻蛉日記」での道綱母の歌がある。

言絶ゆる現やなにぞなかなかに夢は通ひ路ありといふものを

これは、夢は夢と意識しつつも、夢では互いに意思の疎通がありながら、現実は言葉も交わせていない不条理を嘆いている。この歌には、どこか夢が現実に成りえるのではという期待を感じる。しかし、先の小野小町は、こういう歌も詠んでいる。

かぎりなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ

これは夜に女から出向くのははしたないが、夢であるから誰も咎めないだろうという意の歌。つまり、夢は夢と割り切っての大胆さを詠っている。こうして見ると、小野小町は夢と現実を使い分けて楽しんでいるかのよう。

初夢の歴史は鎌倉時代からだと云うが、良い夢を見る、見たいという意識は平安時代からのものであったろう。現代でも「一富士二鷹三茄子」が良き夢と伝わっているが、本来は自分が望む夢こそが、良き夢であると思う。その中には当然、恋の歌も含まれる筈。逢いたい人に、夢の中だけでも逢えれば幸せという人もいるかもしれない。そういう想いを強くする霊的な場所として、卯子酉神社があるかもしれない。夢とは、日常の印象的な事が出易いものだ。そういう意味では、卯子酉神社へ祈願しに行った人は、そういう夢を見易くなると思う。卯子酉神社に参拝する人は、殆ど女性だと云う。王朝文学での恋の夢の歌も殆ど女性であった事から、恋の夢は女性が時代を超えて引き継いでいるか。そういえば遠野三山の三女神も、寝ている間に蓮華が降りて来た娘に、早池峯山を与えるとなったのは、女神=巫女=女性が霊的なものに強く反応するからだとも思える。こうして思えば、強い霊性は女性に宿るものであるようだ。そして降りて来た蓮華を奪う事を許されるのも、早池峯の女神の様な女性である事から、正夢を見る事の出来るのは、男より女の方が有り得そうだ。そして座敷ワラシの性別が、殆ど女の子になっているのも、人に与え奪う事の出来るのが、女性という姓別である気がしてならない。男が夢を追い求め成し得る為にはもしかして、身近な女性を大切にするこそが第一歩なのかもしれない。
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# by dostoev | 2018-01-02 18:21 | 民俗学雑記 | Comments(0)

雲海で始まる正月

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朝から雲海に覆われていた遠野上空は、雲が多いながらも青空が広がっていた。
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時間的に、かなり太陽が昇った為、消える前兆として雲が沸騰し始めている。
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雲が、沸き立つ様。
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遠野盆地全体を覆っていた雲海も、消え去っているところもあるようだ。
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数年前、1月2日に雲海に遭遇した事があったが、元旦からは初めて体験した。
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こんな感じで、太陽が昇ると靄が消滅していく。
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ただ朝靄に太陽の光りが差すと、光芒が出来るので、綺麗なので光芒探しは、よくやる。
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また、朝靄に太陽光が当たると色付くので、これも幻想的な景色になるので、かなり好き。
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とにかく、朝靄に包まれた世界は、太陽が昇ると共に、一斉に眠りから覚めた様に感じる。
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ただ里まで下ると、太陽が見えるものの、色の無い真白世界になっている。太陽光の角度の問題だろうか?
# by dostoev | 2018-01-01 19:07 | 遠野情報(雑記帳) | Comments(0)

二つの初日の出

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元旦の朝は靄に包まれていた。昨夜は、雨の様な雪が降っており、気温がかなり高めだった。早池峯神社も、いつもより暖かく驚いたものだった。この暖かさが水蒸気を発生させ、遠野は雲海に覆われているのだろう。そこで行けるかどうかはわからなかったが、高清水山へ行って見る事にした。

元旦の朝、高清水へ ←「クリックすると動画へ」
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車で、高清水の頂は無理だったので途中、木々の間から覗き込むように遠野盆地を見た。上空は晴れているので、このままここに居れば日の出時刻頃に初日の出を拝めるだろう。
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だんだんと、空が明るくなってきた。
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雲が輝いている。今にも太陽が、顔を覗かせそうだ。
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やっと、太陽が顔を出した。
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太陽全体が姿を現した。これが今年初めて見る、初日の出だ。しかし、山の位置を下げて、もう一度初日の出を拝む事になる。
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山を少し下ると、雲海の真っただ中に入る。そこには太陽の光りが、全く届いていない。
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すると、真白な太陽が顔を出した。これも初日の出なのだろうか?
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太陽が昇り始めると、上空の雲海の薄い箇所に近付き、全体が色付き始めて来た。
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また神秘的な色を発している、今日二度目の初日の出だ。
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それではもう一度「あけまして、おめでとうございます。」

# by dostoev | 2018-01-01 18:11 | 遠野の自然(冬) | Comments(0)

あけましておめでとうございます(2018.01.01)

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新年、あけましておめでとうございます。今年も、早池峯神社への参拝から始まりました。と、その前に。恒例の、神遺神社。今年の元旦の夜は妙に暖かく、そのせいなのか早池峯神社方面へ向かう車が多いように感じた。しかし、この、三女神が各山々へ別れた神遺神社に立ち寄る車は無かったように思える。
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早池峯神社に到着すると、やはり車はそこそこある。山門をくぐり歩いて行くと、やはりそれなりに参拝客が訪れていた。ここまで人のいる早池峯神社の元日の夜は、自分の知っている限りはじめてじゃないだろうか?
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御手水舎と社務所に灯りがあるのも、非日常を感じる。
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そして、いつも変わらぬ本殿。今年は、何度ここを訪れるのだろうか…。
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正月は、参拝客に甘酒が配られる。この拝殿で、御札や御守が販売される。
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まだまだ、人は訪れている。全国の有名神社の参拝客に比べれば、比較するにもおこがましい人の数だが、これでも通常の早池峯神社を知っていれば、人が来ていると思ってしまう。とにかく今年も、早池峯神社参拝から始まった。明るくなった午前中には、盛岡の早池峯神社へと行く予定だ。それでは皆様、今年もよろしくお願いします。
# by dostoev | 2018-01-01 06:16 | 民宿御伽屋情報 | Comments(4)