遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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申年も今日で、お終い。明日から、酉年です。

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今年は更新がスローテンポとなり、何となく自分自身の老いを感じた年でもありました。まあ、若くなることは無いので、来年も無理せず年相応のマイペースでこのブログを更新していきたいと思います。それでは皆さん、良いお年を。
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by dostoev | 2016-12-31 06:34 | 民宿御伽屋情報 | Comments(2)

河童と瀬織津比咩(其の十三)結

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画像は、早池峯神社から馬産の護符として配っていた「猿曳駒」。この版木は現在、遠野市指定民俗文化財になっている。何故に猿が馬を曳いているかといえば、猿が病気から馬を護るとされた伝承からの、猿が馬を曳く護符になっているのだろう。石田英一郎「河童駒引考」では「捜神記」を引用して、猿が死馬を蘇生させた話を紹介している。しかし、それは猿の様であり、猿の様では無かった。「一物猴に似て非なるもの」という「捜神記」での記述は、この似て非なるものを結局猿とし、猿が馬を護る存在であると広くと認識されたようだ。

実は宮崎県に、こういう河童の逸話がある。宮崎市には昔、薬湯屋があって、毎晩遅くなると、沢山の河童が集まって来て、湯に浸かったのだと。"河童の使った後の湯は、毛が一面に浮いていて、大変臭くなる"としている。一般的に河童のイメージは両生類に近いイメージで、様々な河童の絵を見ても、毛があるとしたら頭の毛程度しか思いつかない。そして、湯に入るイメージは河童というより、猿のイメージの方が強い。それ故、この薬湯に浸かった河童とは、もしかして猿ではないかと思えてしまう。これは「捜神記」の逆で、まるでで「河童に似て非なるもの」ではないか。「捜神記」の「猿に似て非なるもの」を河童とは断言できないが、実はどこかで猿を河童として面白おかしく話した流れがあったのではなかろうか。

平安時代末期に編纂された「梁塵秘抄」にも「御厩の隅なる飼猿は絆放れてさぞ遊ぶ」と詠われ、厩に猿が飼われていた事がわかるが、馬を護るという俗信を信じた人間の手によって、強引に厩に紐で繋がれていたのだろう。だが河童譚にも、厩に忍び込んでいる河童の話が多い。猿と河童、その縄張りの共通性と姿態の共通性が、河童=猿であるとする説に気持ちが傾いてしまう。
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ところが河童と猿とは、かなり仲が悪いらしい。石川純一郎「河童の世界」には、その河童と猿の仲の悪い事例が、いくつも紹介されている。その中で、気になった箇所がある。それは「猿は馬を疾病から護り、河童の害からも守る。猿には河童除けの呪力があるのであろう。肥後芦北郡では、申年の申の日の刻生まれの者は、河童のいる淵に入って泳いでも何ともないと云われている。」これで気付いたのだが、猿は申であった。
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遠野を流れる猿ヶ石川沿いに庚申塔が、いくつも建っている。まあ猿ヶ石川だけでは無いのだが、古代から川沿いに道が開かれた歴史の合間に、石碑が建てられたのだろう。ただ「遠野物語55」の冒頭「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。」を、もう一度考え直してみたい。

遠野各地の川に、河童淵と呼ばれるものがある。それは人里離れた川の淵ではなく、人里に近いところである為、各集落ごとに河童淵があると言っても過言ではない。猿ヶ石川に河童が多いというのは、猿ヶ石川自体が遠野で一番長大で、広大な河川であるから様々な集落を経由している為というのは、河童が多いという一つの理由だろう。だがここで、猿ヶ石川という名の語源に素朴な疑問が湧き上がる。何故、猿という名前の付いた河川名になったのかだ。
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「猿か?石か?」という猿ヶ石川の語源説話である清瀧姫伝説は、全国に似た様な伝説が点在するのだが、遠野に伝わるものは恐らく群馬県の桐生発祥だと思われるので、元々遠野に伝わるものではなかった。また猿ヶ石川の語源となった猿石があるとは伝わるが、どうやらこれも後世の付会であったようだ。石で気になるのは、前回紹介した河童の祟り除けに、礫石経を1年分である365個を川に沈める事により河童の祟りを抑えるという呪術だが、遠野では聞いた事が無い。また別に河童除けは、猿であった事を照らし合わせても、猿と石とは、河童に深く関係しそうではある。

ところが、気になる伝承が熊本県の八代市に伝わっていた。「球磨川に露出している大きい岩の上に、女神が毎晩現れるのを猿と河童とが取り合いをした。」というものだ。猿と河童は仲が悪いという伝承があるのだが、何故に仲が悪いのかはわからなかった。筑後川の河童も、元々は球磨川から来たものであったから、この伝承の持つ意味は大きい。

八代市は、どこか出雲を想起させる地でもある。それは市内に流れる河川名のいくつかが、出雲に流れる河川名と同じであるからだ。その中の河童と猿が女神を奪い合ったという球磨川の畔には、妙見宮がある。この妙見宮の祭神は、亀に乗って来た女神であるとされる。こういう地であるから、球磨川の大石の上に現れる女神とは、妙見神であるのだろう。妙見は庚申、つまり猿と縁が深い。また九州における妙見神とは水神を意味する。それはつまり、猿と河童が互いに信仰する共通の女神を奪い合うという事ではないか。さる高千穂在住のお方によれば、高千穂十社大明神大宮司田尻物部系図に「四十九体妙見即ち瀬織津比咩神是也」と記されているそうで、その高千穂の妙見社は"御塩井大明神"とも呼ばれるそうだ。この御塩井だが、阿蘇に塩井神社があるが、そこに流れる川は塩井川であり、そこでの禊を"シオイカカセ"と呼ぶ。この塩井川は白川に合流するのだが、その白川の水源に鎮座するのは、白川吉見神社。考えて見れば阿蘇山を中心とする水神の根源は、日下部吉見神社が発祥となっている。それが地域によって名を変えているに過ぎない。また竹田旦「水神信仰と河童」を読むと、全国に拡がる水神信仰の祭りが六月と十二月という二度に渡る祭が行われているという調査結果に竹田氏は「年に二度の水の神祭りを行うということは、つまり水神が特定の季節と関連していることを指している。いわば、六月と十二月とはその季節の両端をなしているのだろう。」と述べている。しかし竹田氏が見逃しているのは、六月と十二月の神事として、何が行われる月であるかという事。それは、大祓であろう。日本における穢祓の根源は、水によるものであった。互いのわだかまりを「水に流そう」とする日本の風習は古代から延々と、水の穢祓による力に依存してきた。その穢祓の神として知られる瀬織津比咩こそが、猿であり河童が奪い合う女神であるのだろう。
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奇しくも猿ヶ石川の源流は、妙見信仰も重なる北に聳える早池峯山系から始まる。その早池峯の女神は、九州の水神でもある瀬織津比咩である。日下部吉見神でもある瀬織津比咩には、菊池氏も大きく関与する。遠野に一番多い苗字である菊池氏の流れは、人だけでなく信仰の流れもあったであろう。しばしば学者の指摘するところでは、東北地方と九州地方の習俗の近似・類似は、人の流れが大きく関与している。河童という水難除けに猿が存在するのだが、然程猿が多くなかった遠野においての水難除けは、恐らく庚申がその役割を担ったのではないだろうか。庚申塔は、まさに"猿の石"でもある。遠野の北から流れる猿ヶ石川の源流を又一の滝とする伝説は、「又一(またいち)の滝」が妙見の"太一(たいいつ)"からきているだろうとされるのは、滝神である早池峯の女神を妙見神とする事からであった。河童という水難除けの信仰の発端、もしくはそれに付随する河童伝承も、全ては九州から遠野に辿り着いた、物部氏であり菊池氏などが、その信仰を早池峯な重ね合せた事から始まったのだと思えるのである。
by dostoev | 2016-12-28 07:02 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(3)

河童と瀬織津比咩(其の十二)

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福岡の水天宮における平家の関わりと信仰を書いてきて、河童から少々脱線したきらいもあるが、ここで少し戻そうと思う。画像は"礫石経(れきせききょう)"と呼ばれるもので、平清盛が始めたようである。平清盛は人柱をやめる代わりに、この礫石経を海や淵に沈める事にした進歩的な人物だった。つまりこれは、水神の怒りを鎮める為のものである。その水神の使いとして河童がいるという認識だが、九州では河童の祟り除けに、この礫石経365個を川に沈める事により1年間、河童の祟りを抑える事が出来ると信じられる風習がある。

人柱は無かったとの見解を述べる学者もいるが、遠野では例えばメガネ橋の下から、お歯黒をした女性の頭蓋骨が発見されたり、松崎には人柱で死んだ巫女の墓などがある。また陸前高田には、菖蒲姫と呼ばれた遠野の上郷村から来た女性を人柱にしたという伝承が残っている。そして事実として平清盛がこの礫石経を人柱の代わりにしたという事であるなら、やはり人柱はあったとみるべきではないか。

「耳なし芳一」という小泉八雲の有名な怪談話があるが、平家の亡者から身を守る為、全身に経文を書いたつもりが、耳だけ書き残した為に、平家の亡者に耳を持って行かれる怪談話だ。これを九州の礫石経の河童除けの風習に照らし合わせれば、礫石経を365日に満たない数を川に沈めれば、その足りない日数分だけ、河童の祟りに遭うという事になる。「耳なし芳一」に登場する平家の亡者は、壇ノ浦の戦いに水没した亡者であるようだ。つまり水界から現れた、水の亡者という事であろう。その水の亡者の王は安徳天皇となるのだが、それはつまり水天宮に祀られる神でもある。小泉八雲が「耳なし芳一」の典拠としたのは、一夕散人「臥遊奇談」第二巻「琵琶秘曲泣幽霊」(1782年)であると指摘されているが、全てひっくるめて、平家の信仰を秘めた水天宮から想起されたものではなかったか。

実は、この発想は漫画である星野之宣「宗像教授伝奇考」に影響されている。学者では無い漫画家である星野氏は、漫画家であるがゆえ学者が書けない自由な発想から漫画を描いているのだと。しかしその発想には、かなりハッとさせられている。独自に、遠野の河童を調べ、遠野の北に聳える早池峯信仰と祭神の結び付きには、どこか九州の息吹を感じさせるものがある。それを感じた時に、たまたま星野氏の漫画に接し、もしかしてという気持ちが湧き上がったのを覚えている。
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「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。」という「遠野物語55」の冒頭だが、何故遠野の河童は、猿ヶ石川に多いのだろうか?を純粋に考えた場合、どうしても九州に行き着いてしまう。ところで猿ヶ石川の語源に、猿と石を間違い「猿か?石か?」として、猿ヶ石川と名付けられたという、とってつけたような語源伝説がある。

「遠野物語」において猿の話は、四話しかない。そのうちの三話は、猿の経立という化物猿に関するもので、六角牛の山が舞台となるのが二話。もう一話は、猿の経立の名前に触れている程度である。そしてもう一話は「遠野物語48」で、仙人峠の猿ヶ石川の話が書かれている。「遠野物語47」では「六角牛の猿の経立が来るぞ」という内容から、猿の経立の棲家は六角牛だという事で理解できる。猿がいるという六角牛と仙人峠は、遠野盆地の東側の山に面している。「猿か?石か?」の語源説は、猿ヶ石川の源流に伝わる話だが「遠野物語」では、まったく触れてはいない。その前に、猿そのものの話が遠野には少ないのがわかる。せいぜい、淵の傍に棲んでいる猿を淵猿と言って、河童の正体の一つとされる伝承が唯一、遠野の里に出没する猿の話となる。実際、今の遠野で猿を見るならば、やはり仙人峠か、六角牛山の脇を通る笛吹峠か、それを過ぎた場所にある橋野町で猿を見かける事が出来る。つまり、昔も今も猿を目撃できる場所は変って無いという事。たまに遠野の街に"はぐれ猿"が目撃される事があるが、それも一時だけである。

大正時代の記録に「遠野の獣と鳥」と題されたものが記されているのが、【鳥類】には当然、猿の名は無い。では【獣類】はどうかというと、下記の通りに猿が記されていない。

【獣類】

「きつね、ねこ、ねつみ、いたち、からたち、犬、むくいぬ、ちんけん、
おふくかめ、むささび、うさき(鎌せをい、白兎共)、くさい、こはみ、
山ねつみ、まみ、てん、しいね、とりう、きねつみ、くま、馬、牛、
鹿(あをしし、かのしし、うしゐ)、かはもり」


だが大正時代に認識されていなくとも、吉田政吉「新・遠野物語」には、猿の話が記されていた。猿の悪戯はそれなりにあったようで、鉄砲を駆使して猿を撃とうとしても事前に察知され、なかなか撃てなかったらしい。猿の被害はそこそこあったようだが、吉田氏によれば、狼に比べれば大した事は無かったそうな。だからなのか、遠野での猿の話が少ないのは。ただ、遠野の里に下りて来て悪戯を成した猿も、大正時代には見られなかったという事になる。明治の半ばで姿を消した獣は、狼が狂犬病の蔓延と、多額の懸賞金がかけられた事による率先した駆除によって滅び、猪は豚コレラの蔓延によって、やはり滅びた。しかし猿が、遠野の里から消えた理由がわからない。まるで河童の目撃数と比例するかのように、猿が里から姿を消したようにも思える。
by dostoev | 2016-12-20 06:26 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(5)

河童と瀬織津比咩(其の十一)

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風琳堂氏が北海道の滝廼神社で撮影した、恐らく唯一存在する瀬織津姫の神像ではないかとの事。前回「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、剣に斎く神」と書いたのは、剣は荒魂の証でもあるからだ。右手に剣を持つのは、相手を薙ぎ払うなどの武力としてのものであるが、穢れを祓う霊威をも意味する。この前は、天叢雲剣を祀る熱田神宮に関して簡単に書いたが、「円空と瀬織津姫(下)」に展開される熱田神宮祭祀は、まさに天照大神荒魂についてであった。実際に、熱田神宮の禁足地である本殿西北背後に鎮座する一之御前神社に天照大神荒魂は祀られているのだが、「「円空と瀬織津姫(下)」では熱田大神そのものが天照大神荒魂であり、天叢雲剣に斎く神であったと展開している。

八岐大蛇の尻尾から取り出された天叢雲剣、別名草薙剣を「日本書紀」では「大蛇のいる上に常に雲があったのでかく名づけた。」と説明している。その天叢雲剣は、朱鳥元年(686年)に天武天皇を祟ったとしている。これはつまり、天叢雲剣に斎く神の祟りとなるのだが、同じように天皇を祟った神がいる。それは崇神天皇を祟った、天照大神荒魂である。

長元四年(1031年)、「大神宮諸雑事記」によれば、外宮の月次祭の時、急に大雨となり雷光が走り天地が振動したかと思うと斎宮が叫び声をあげて「我は皇大神宮の第一の別宮、荒祭宮也。」として託宣を述べ始めたと云う。その託宣の内容は「最近の天皇には敬神の念が無く、次々に出る天皇もまた神事を勤めない。」などと批判している。実際は斎宮が天照大神荒魂を名乗っての仕組みであろうが、だがこれは伊勢神宮の歴史から、天皇を祟ってきたのは天照大神荒魂であったとの証でもあろう。
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剣に斎く神は、佐賀県は神埼郡の櫛田宮にも祀られている。櫛田宮の由緒は「往昔此の地に荒ぶる神あり。往来の諸人多く害されたり。此の時に景行天皇の筑紫御巡狩ありて、此の地御通軍の際、櫛田大神を御勧請ありしかは、更に殺害に遇ふ者なく蒼生皆幸福を蒙りたり、故に郡名を神埼と謂ひ、鎮座の地も、神埼と云ふ。」

櫛田大神とは世間一般に"お櫛田様は女神"と信じられ、その御神徳は「諸々の禍を払い除き、逃れさせたもう」と伝わっている。これは「佐賀県神社誌要」によると、弘安年中蒙古襲来の時、櫛田の神の御宣託に「我れ異国征討の為に博多の津に向ふ。我が剣を末社博多の櫛田に送り奉る可し。」蒙古襲来の戦地に赴いたと云う。蒙古との合戦の最中、海上には数千匹の蛇が浮かび出たとし、その三か月後、櫛田宮の末社である櫛田神社に疵を受けた数多くの蛇が現れ、再び櫛田神の御宣託があり「各蛇疵をこうむるといえど、蒙古は既に全滅した。」と宣ったと。これから察するに櫛田神とは、剣に斎き蛇を眷属する神だと理解できる。

現在の祭神は、櫛名田比売を主祭神として素戔男尊と日本武尊の三柱となっているのだが、その祭神についての論争が諸説ある為、取り敢えず現在の祭神で収まっている事情の様だ。ただ櫛田神は剣に斎き、蛇を眷属する神であるが、それがどうも櫛名田比売に結び付かない。櫛名田比売は八岐大蛇に怯え、素戔男尊に退治して貰ったか弱き姫というイメージであるからだ。

それでは、その祭神の諸説を見ると、櫛名田比売説と大若子命説と豊次姫命説の三つがある。確かに櫛田宮という社名から櫛名田比売を想像する場合が多いのだろう。しかし、長い間信じられた祭神は、豊次姫命だとされている。これは「櫛田宮由緒記」に、「櫛田大明神をもって総社とす。伊勢大神宮の大娘豊次姫命これなり。」と記されている為だが、この神名の正しくは"豊鍬入姫命"であり、崇神天皇を祟った天照大神荒魂を倭の笠縫村に祀った初代の斎宮であった。また大若子命説だが、白井宗因「神社啓蒙」「櫛田神社在肥前国神埼郡 祭神一座 大若子命」とあり、また「佐賀繁昌記」にも「櫛田社祭神大若子命也。」と記されているとの事。この大若子命とはなんぞや?と思ったが、別名"大幡主命"とされる。だが"大幡主命"といってもピンとはこない。しかし調べてみると実は、崇神天皇を祟った天照大神荒魂が流離った時に帯同した人物であった。正しくは、伊勢国の櫛田郷辺りの国造で、倭姫命に奉仕する大神主であった。「神社啓蒙」によれば、いつの間にか斎祀る側が櫛田宮に神として祀られてしまったとの事である。櫛名田比売はさて置いて、豊鍬入姫命も大若子命も、天照大神荒魂を奉斎した者達であった。また「禰宜補任」によれば、櫛田宮の由緒に登場する景行天皇のくだりだが、実は景行天皇にも仕えこの神埼に来た大若子命が、此処にも来て荒ぶる神を和ませたという事の様である。それはつまり、この神埼の地の荒ぶる神とは、櫛田大神であり、それは天照大神荒魂であったという事実があった。
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この櫛田宮の目と鼻の先に、與止日女神社がある。「肥前国風土記」にも登場する女神だが、「佐賀郡誌」によれば、「神功皇后を助けて三韓征伐に軍功ある女神」という事であるが、その正体は神功皇后の妹であるともされている。しかしだ、阿蘇の菊池氏の主流である日下部氏が奉祭する母神に蒲池比咩がいる。この蒲池比咩は、この肥前国一宮である與止日女神社(川上神社)に祀られる與止日女と習合している。そして筑前糸島の桜井神社(與止日女宮)」で川上の與止日女は瀬織津比咩と同神とされている。瀬織津比咩は天照大神荒魂とされる事から、櫛田宮と同神という事になる。そもそも「肥前国風土記」に登場する"荒ぶる神"そのものが天照大神荒魂であると伏せられていた事からの混乱でもあるのだろう。

更に、この櫛田宮の目と鼻の先、筑後川を間に挟んだすぐ傍に水天宮が鎮座している。平安時代の神埼御荘の長官は、平忠盛であった。平氏一門は、この神埼に宋の商船を迎え入れ、密貿易によって利益を蓄えたとされている。恐らく按察使局伊勢は、この平氏一門の力が根付いている筑後川界隈を頼って訪れたものと察する。更に加えれば、平家一門の信仰の共通もあったからではなかろうか。
by dostoev | 2016-12-17 21:52 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(3)

三女神の別れの前の晩の地へガイド

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遠野の三女神が、各山々に別れる前の晩を過ごした場所を取材したいという人物を案内してきた。
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その前にと、先に早池峯神社へと参拝する事にした。昨夜から降った雪で、遠野は薄っすらとした雪景色となっている。
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境内では、一生懸命雪搔きしている関係者の姿が。
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少し前は落葉で色付いていた地面が、真白に変っていた。
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ただし、週明けはまた気温が上がるというので、この雪も溶けるのかもしれない。
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とにかく、参拝を済ませた。
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目的の場所は、重端渓沿い。冬季は閉鎖になる道路だが、まだこの程度の雪じゃ、閉鎖にはなっていないだろうと進む。目的の林道入り口も、どうにか行けそうなので、車でいつもの場所まで侵入してみた。
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車を置いて歩くと、さっすく目的地が確認できた。これが夏の緑に溢れる時期だと、もっと見え辛いのだが、緑が枯れた冬は見つけやすくなっている。
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大型カメラで撮影しようとしているが足場が傾斜地の為に、かなり難儀しているよう。
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苦労しつつも、何枚か撮影した様子。この場所の撮影は、午後だと逆光になる為、午前中がベスト。雲は多かったが、その合間から時より、明るい日差しが降り注いでいた。
by dostoev | 2016-12-15 17:21 | 御伽屋・幻想ガイド | Comments(0)

河童と瀬織津比咩(其の十)

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水天宮を初めに祀った尼御前は、物部の女であり、平家に仕えていた。それはつまり、平家の信仰にも携わっていたという事だろう。平家の信仰の拠点といえば厳島神社だが、平清盛を筆頭とする平家は伊勢平氏と呼ばれ、伊勢の地が発祥となる。伊勢の地で地盤を固め、頭角を現したのが伊勢平氏だ。当然、その信仰の拠点も伊勢にあったものを、厳島に移したと考えて問題は無いと思う。しかし、伊勢平氏の伊勢での信仰の拠点は多度大社であり、現在その祭神を確認すると、天津彦根命を主祭神としている。そして境内には、天津彦根命の子である天目一箇命を祀る別宮・一目連神社があり、本宮とともに多度両宮と称される。しかしこれでは、厳島神社との共通点が見出せない。わずかに摂社として美御前社には、厳島神社と同じ市杵島姫命が祀られているに過ぎない。

「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」

上記の歌が詠われたように、多度大社と伊勢神宮との関係は深そうだが、それは、天照大神の御子である天津彦根命を祀っているからだとされている。だが上記の歌以外に「梁塵秘抄」に、下記の様な歌が詠われている。

「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、又比良の明神、安房の州龍の口や小野、熱田に八剱伊勢には多度の宮」

多度大社は軍神と呼ばれているのだが、天津彦根にそれを感じないのはどういう事だろう。高橋昌明「清盛以前」を読むと、多度の地には、多度神社と多度神宮寺があり、伊勢平氏にとっての氏寺が多度神宮寺であったと。ただしそれは多度神宮寺と多度神社が一体不可分のものであるから、多度神社に祀られる祭神は当然、多度神宮寺と本地垂迹の関係になるのだろう。高橋昌明氏は「多度の地の多度山は、まさしく伊勢平氏の氏の祖霊の鎮まる霊山であり、多度神社及び多度神宮寺は、その神聖な祭壇と見做す事が出来る。要するにこの多度山は、伊勢平氏一門同族の結集の場であり、何よりも伊勢平氏の精神の故郷にほかならなかった。」と説明している。

八巻照雄「伊勢平氏盛衰史」には簡単な年表と共に、平氏と厳島神社との関わりを紹介している。例えば「長寛二年(1164年)九月、平家一門三十二人が法華経(三十三巻)を書写し、安芸にある平家の守護神・厳島神社に奉納した。」とある。この法華経の三十三巻は"十一面観音の三十三応現身"になぞらえたという。つまり、"平家の守護神"とは、十一面観音と関係の深いものであるという事。

伊勢平氏の精神の故郷であり軍神である多度大社であったが、主祭神の違う厳島神社もまた軍神を思わせる"平家の守護神"であるとしている。精神の故郷を捨て去って、新たに厳島神社を信仰する程、平家の信仰は移ろいやすいのだろうか?伊勢平氏は、軍事的貴族とも呼ばれた。それは、伊勢平氏が超人的武運に恵まれる事を願った為に、多度大神を信仰したのだと。その軍事的貴族を永続するのであるなら、多度大神と厳島明神は戦神という神威を共通する同神でなくてはならない。何故なら、神は祟るからだ。伊勢平氏の地盤を築いた多度大神を簡単に捨て去る事は、その時代の信仰の深さからみて有り得ない話だ。
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木野戸勝隆「百日参籠」によれば、多度大社の主祭神である天津彦根を否定し、本来の祭神は不明であるという。その神は、"近江国より来た神なり"とのみ言い伝えられ、神名はわからないとしている。そしてもう一つわかったのが、この多度の地は"元伊勢"と呼ばれているという事だ。元伊勢とはどういう事かと云うと、伊勢大神が一時坐した地であるという事である。近江国、琵琶湖の辺に、やはり元伊勢の地がある。それは、崇神天皇時代に祟った天照大神荒魂が流離った過程の一つが、近江の地であり、この多度の地であった。

近江雅和「記紀解体」によれば、崇神天皇から離れ遷座の地を求め彷徨ったとされる旅の面々を見る限り、それは武力平定の移動であったろうと述べている。ここで思い出して欲しいのは、神功皇后の武力平定の先鋒でも、荒魂が務めたと云う事。鎮座後に留まるのは和魂であり、行動するのは荒魂であるという事から、滝宮に至る四十年間に、各地を荒魂を先鋒として武力平定し続けた旅であったのだろう。それ故だろう、多度の地にも訪れた天照大神荒魂であったからこそ、軍神として「梁塵秘抄」にも詠われた。また、天武天皇が壬申の乱の前に、伊勢大神に向って祈ったのは、今の伊勢神宮の方向ではなく天照大神荒魂が彷徨い最後に落ち着いた滝宮に向ってのものであった。物部氏に伝わる伊勢大神とは、三韓征伐にも関係した天照大神荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命である事から、天武天皇は戦神に勝利を願ったのだと思う。そしてその撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、剣に斎く神でもあった。

多度の地を武力平定して一時坐した天照大神荒魂は、多度の地にはもういない。しかしその神威は衰えずに伊勢平氏の"祖霊"として残っているからこそ、信仰されたのだろう。仁安三年(1168年)、平清盛は厳島神社を修築している。平清盛が厳島神社を重視したのは、在来の神社・仏閣が皇室、貴族の深い信仰を受け、それに増長して横暴を極め、更に僧兵まで養って、強訴を繰り返して朝廷を圧迫していた事が大きかったという。つまりその当時の厳島神社は、朝廷や貴族の息がかかっていなかった神社であり、平清盛にとっては聖地に思えたのではないか。奇しくも、平清盛が厳島神社を修築した同じ年に、伊勢神宮が燃え落ちている。もしかして、伊勢で祀られている天照大神荒魂を厳島神社に移す為に、平清盛が伊勢神宮に火を放ったのかとも思えてしまう。そしてその六年後の承安四年(1174年)に、後白河法皇の厳島神社の参詣に、伊勢平氏一門が同行した。これが平清盛が準備してきた伊勢平氏の守護神である厳島神社信仰の始まりであり、そしてこれまで信仰していた多度大神信仰の終焉となった。
by dostoev | 2016-12-12 22:40 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(2)

河童と瀬織津比咩(其の九)

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遠野で水天宮を祀る場所は、殆ど見かけない。もしかして、この小烏瀬川の滝だけに祀られているのかもしれない。この水天宮の総本社は、福岡県久留米市の水天宮となるが、そこに河童伝承が伝わる。石田純一郎「河童の世界」では簡単に、この水天宮の河童伝承を紹介しているが、それを更に略して紹介する事にしよう。

昔、河童は唐天竺の黄河の上流に大族をなしていたが、その中の一族が郎党を引き連れて黄河を下り、海を渡って九州一の大河である球磨川に棲み付いたと云う。九千坊という河童の族長は乱暴者で、田畑を荒らし、女子供をかどわかしたりするので、加藤清正が怒って、九州の猿を集めて河童を攻め立てた。河童にとっての猿とは、大変仲が悪く、手強い敵であった為、降参して肥後を立ち去る約束をして詫びを入れ、土地の者には害をしないと誓約したそうな。その後、筑後は久留米の有馬公の許しを得て、河童達は筑後川に棲み付く様になり、水天宮の使いになったそうな。河童は、お宮の堀にも住んでいて、神主が手を叩くと水底から浮き上がって来るのだと伝わる。
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どうやら九州の河童は、中国の黄河から来たようだ。しかし日本の秩序を乱すので懲らしめられ、権力者に服従する事になったという事であろうか。その中でも橘氏の流れを汲む、菊池氏と繋がりの深い渋江氏の眷属となっているのは事実というより、信仰の繋がりを感じる。

ところで河童は、よく相撲を取りたがる。河童に相撲で負けた人間は、尻子玉を抜かれたなどと云う話があるが、負ければ諂うのが河童だ。黄河から来たという事で面白いと思ったのは、一般的に知れ渡る中国人との接し方だ。中国人に対して弱気に接すれば、どこまでもつけ上がるが、強気に接すると大人しくなるというもの。まあこれは中国人に限った事では無いだろうが、相手を平伏せる為には、相手の上に立つしかないのだろう。それは相撲で勝つという事もあるだろうが、信仰にのっとれば、同じ水系の神には、頭があがらないものと思える。そういう意味では、渋江氏の下に付いた河童とは、渋江氏の奉斎する神の下に付いたと考えてもおかしくはないだろう。
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久留米の水天宮の由来は、壇ノ浦で平家の最後を見届けた後に、筑後川に辿り着いた尼御前と呼ばれる按察使局伊勢から始まる。寿永4年の夏という事である。筑後川の畔に住み付き、小さな祠を祀るようになったが、尼御前の人徳に触れ地域の人々も又、尼御前の祀る祠を拝むようになったという。その祠に祀られていたのは、幼く死んだ安徳天皇と、その母である建礼門院に、祖母の二位の尼の三柱の御霊であったというが、それとは別に天御中主命を祀ったとされる。実際に現在の水天宮の祭神は、この四柱の御霊となっているようだ。しかし「明治神社誌料(下)」によれば、当初は水天龍王を祀っていたものを、後に天御中主命に改めたようだ。また、この尼御前である按察使局伊勢は、大和國布留の神社の神官某の女であるとしている。按察使局伊勢は、安徳天皇の内侍でもあるのだが、内侍とは天皇の身辺に奉仕する者であり、ここでは厳島神社の女性神職で、神事のほかに、同神社に参籠する貴人の旅情を慰めるために今様を朗詠したり舞楽などを行った存在でもあるのだろう。同じ福岡県の榊姫神社に祀られる御霊の中に榊内侍と呼ばれた、やはり平家の内侍が祀られている。恐らく按察使局伊勢は、平家の信仰にも詳しいのであると思われる。

壇ノ浦の合戦で最後、水の都に向った安徳天皇だったが、按察使局伊勢はその水の繋がりから、安徳天皇の霊を慰めようとする為の筑後川の畔に祀った祠であったろうか。しかし按察使局伊勢が物部の女であるとわかり頭を過ったのは、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮すと云う「布瑠の言」である。

「ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ」

もしかしてだが、水天宮とは当初、安徳天皇の復活を期してのものではなかったか?何故なら、布留を調べると月神へ辿り着く。月には、不老不死にも繋がる変若水があるからだ。「佐陀大社縁起」には、こう記されている。「月神とは大和國に在りては春日大明神と号し、尾張國に在りては熱田大明神と号す。安芸國に在りては厳島大明神と号す。」
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月神に向かう前に、まず布留の神社について書かねばならない。布留の神社とは、つまり物部氏が奉斎する石上神宮の事。この石神神宮に祀られる神とは、布都御魂大神と布留御魂大神となる。布都御魂は武甕雷男神と共に国譲りの神話に登場する、剣の化身のような武神でもある。それと共に祀られる布留御魂とは、石上神宮の神域を流れる布留川に関係する。「円空と瀬織津姫(下)」によれば、布留川の源流には布留滝があり、それを「桃尾の滝」または「布留の滝」と呼ばれている。「布留神宮縁起」によれば、その布留の滝は「布留御前」として、石上神宮の元社である布留神宮に祀られているのだと。そしてこの布留川の川上は「日の谷」と呼ばれ、"八岐大蛇伝説の異伝"が伝わっていた。

むかし、出雲国の肥の川に棲んでいた八岐大蛇は一つ身に八つの頭と尾をもっていた。素戔男尊命がこれを八つに切り落とした。大蛇は八つの身に八つの頭がとりつき、八つの小蛇となって天に昇り、水雷神と化した。そして天叢雲剣に従って大和国の布留川の川上にある日の谷に臨幸し、八大竜王となった。今そこを八ツ岩と云う。天武天皇の時、布留に物部邑智という神主があった。ある夜夢を見た。八つの竜が八つの頭を出して、一つの神剣を守って出雲の国から八重雲に乗って光を放ちつつ布留山の奥へ飛んできて山の中に落ちた。邑智は夢に教えられた場所に来ると、一つの岩を中心にして神剣が刺してあり、八つの岩は、はじけていた。

物部氏の祀る経津御魂は神剣の神だが、この伝説に登場する神剣は布留御魂の事を意味しているのだと思われる。となれば、物部氏の祀る剣は、二振りという事になるか。三種の神器の一つとなる、天叢雲剣を祀る熱田神宮の別宮である、やはり熱田大神を祀る八剣宮縁起にも、祀る剣は布都であり、布留でもあり石上布留の神社とも祝ひ奉るとされるのは、熱田神宮と布留神宮の剣は同じという事。これらから、久留米の水天宮に尼御前が祀った水天龍王の正体が見えて来た。
by dostoev | 2016-12-11 17:25 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(5)

わが爪に魔が入りて

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わが爪に魔が入りてふりそそぎたる月光むらさきにかゞやき出でぬ

きら星のまたゝきに降る霜のかけら墓の石石は月光に照り

本堂の高座に説ける大等のひとみに映る黄なる薄明

                        宮沢賢治

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宮沢賢治が14歳の頃、旧制中学の先輩だった石川啄木「一握の砂」に触れ、文学に目覚めて歌を詠み始めた頃の歌だという。宮沢賢治は学生時代、寺に下宿して文学書や宗教書を読み漁り、夜には寺の本堂の縁側で月を観ながら物想いに耽っていたというが、学生時代は特に幻想的な面に魅かれる為、こういう歌を詠んだのかと思った。

ところで気になったのは「爪に魔が入りて」という表現だが、爪には"爪半月"という箇所がある。その爪半月が無いと不健康などという迷信の他に、その部分が黒ずむと、いつか死ぬという迷信を子供の頃に聞いた事がある。実際に子供の頃、爪に棘を刺した事があり、その部分が黒ずみ紫がかった見えた。もしかしてだが、"月の紫に輝く""爪(爪半月)の魔"をかけてに結び付け、神秘的な表現にして遊んでいたのじゃなかろうか?表現的には、上田秋成「青頭巾」の最後の場面を彷彿させる。
by dostoev | 2016-12-03 15:54 | 民俗学雑記 | Comments(2)

遠野物語の発生

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最近、空き家・廃屋調査が行われていた遠野市であったが、少し山に入ったところにも、画像の様な廃屋を見かける事がある。画像の建物内部に入ってみると、アナグマが巣食っていた。今はどうかわからぬが、遠野小学校へ行く途中の歯科医院の空き家にも、アナグマは巣食っていた。こうして人の住まなくなった家には、野生の獣が住みつく場合が多いのだが、特にそれはアナグマの場合が多い気がする。知人の家の小屋にも、知らない間にアナグマが巣食っていたと聞く。
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山中で遭遇するアナグマは、画像のように寄って撮影しても、慌てて逃げようとはしない。ある時は、平気で自分の脇をすり抜けて行った時もあるほど、遠野ではアナグマほど人間を恐れない獣はいないのではなかろうか。気性もイタチ系らしく激しく、熊と遭遇しても熊を追い払う程の気性の持ち主がアナグマである。人間が寄って来た程度では、気にもかけないのかもしれない。
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上郷町の曹源寺は、「遠野物語拾遺187」の舞台でもある。ここでは化物貉として登場しているが、そもそも貉は狸似ているが、狸では無い獣として認識されていた。「ムジナかタヌキか、タヌキかムジナ」と、動物の体系が定められていない時代のアナグマは、タヌキと同一のものか、その変化した存在という見方もあった。曹源寺には今でも貉堂があり、貉大権現として、アナグマは神に昇格していた。
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先に書いた様に、何故か空き家・廃屋にアナグマが棲みつく場合がある。恐らくそれは廃寺となった寺院でも同じなのだろう。遠野の寺院の歴史を見ても、一旦は廃れてしまった後に、ある和尚によって再興されたという寺は意外に多い。その廃れた時期に、こうしてアナグマが貉として棲み付き、遠野物語に登場するような、不気味な話として作られ語られる場合が多かったものと思える。人を恐れぬ貉(アナグマ)は、格好の不気味な妖怪モデルとなったのだろう。「遠野物語」には掲載されていない話の中にも、貉の登場する話は多くある。また、東禅寺の和尚であった無尽和尚の母親は貉であったとの伝説も伝わる事から、古くから廃寺などに棲み付いたアナグマの姿が目撃され、こうした話が創作されたのだと思う。
by dostoev | 2016-12-02 16:28 | 民俗学雑記 | Comments(2)