遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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鯰と地震(其の七)

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鯰が水神の使役・眷属というのはわかったが、関東から東北にかけては鯰の生息は少なかった様だ。江戸の庶民も享保の大地震の時に大量発生した鯰を見て驚いたのは、鯰自体を初めて見たせいでもあった。それが東北になれば、まず鯰を見る事が無い。「岩手民話伝説辞典」で鯰を調べても、鯰の腹から小判が出て来る話など、江戸の瓦版に書かれた鯰絵の笑い話から作られた様な話が伝わっている程度だ。その代り、鰻の話が多く伝わっている。

遠野で有名なのは、沼の主である鰻を殺した祟りに見舞われ、蛇体となった松川姫の話がある。また、小友町では一般的に知られる、毒を川に流して雑魚を獲ろうとするする若者達をたしなめる坊主に化けたウナギの話が二つほど伝わっている。また別に、沼の主である鰻を退治したら暴風雨が起きた話。そして、沼の主の鰻が現れる時に、地震が起きる話が三つほどあった。やはり東北では、鯰の代わりに鰻が、その役割を果たしているようである。また別に、鰻はウンナン様の使いであるから獲れば罰がある話が伝わる。
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遠野の一日市にある宇迦神社は、運萬虚空菩薩を祀ると伝えられ、「遠野町古蹟残映」には、鰻に関する話が紹介されている。

「社前に清泉ありて鰻多く生息す。この鰻は片目にて神の御使と称せられ、捕りて食するときは神罰たちどころに至ると言ひ伝へられる。」

画像を見ると社前に小さな橋がかかっているのは、以前は小川が流れていたのか、はたまた暗渠であったのか?以前に書いた「早瀬川と白幡神社」でわかったのは、川を隔ててこの宇迦神社と白幡神社があったという事。そして昔の川は、現代の遠野と比較すれば想像を絶する程の水量と川幅を誇っていた。それから察すれば、この宇迦神社の境内にに泉があり、小川が流れていたとしても驚く事は無い。逆に言えば、水神に深く関係する社であった事が理解出来る筈。

宇迦御魂命は大抵の場合、稲荷神社に祀られている場合が多い。稲荷と云えば狐のイメージを強く感じるが、宇迦とは、梵語で"白蛇"を意味する。それは、伏見稲荷の神符を見ても明らかだろう。この遠野の宇迦神社の祭神が虚空蔵菩薩となっているのは、栃木県などに多い、星宮神社=妙見信仰の流れを汲むものではないか。栃木県に多い妙見系神社は茨城県にも影響を及ぼし、その神社に関わる多くの氏子は、鰻を食べる事を忌み嫌っているのは、鰻が妙見神の使いであるからだ。白蛇である宇迦だが、この遠野の宇迦神社は、妙見と龍蛇と鰻の深い関係を表している。
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妙見神といえば、星神のイメージがあるが、本来は水神である。妙見神の古くは、熊本県の八代妙見宮であるようだ。そこには大亀に乗って来た女神が、妙見神として祀られている。しかし下記の図を見て欲しい。八代妙見宮の祭に登場する亀蛇と呼ばれる絵である。絵は「妙見祭民俗調査報告書」より。
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大亀に乗った女神である筈が、亀蛇に変っている。古代中国の俗説に、亀には雄がおらず、蛇を雄とするというものがある。実際に、亀の篆書は、亀と蛇の合体文字であるようだ。つまり亀蛇とは、本来の亀である雌の姿となるか?となれば、大亀に乗って来た女神とは、亀蛇が分離した形であろうか?とにかくそれを具体化したのが、八代妙見宮大祭における亀蛇なのだろう。つまり、妙見神の使役は亀でもあり、蛇でもある。

妙見神が後から虚空菩薩と習合し、その使役として鰻が結び付いたのは、地域性の問題でもある。水神の使役が鯰であるのは、西日本に鯰が多く生息するせいでもあった。蛇を頂点としての、"鱗族"である魚類が、その同族と見做されたのは自然の流れであった。その魚類の中でも、蛇に近い形状でありヌメヌメとした、鯰であり鰻が蛇の代わりになったのは当然の事であろう。鯰であり鰻が水神の眷属となったのは、まず信仰が伝わり、後から地域性が加味されて変化したものであろう。例えば、千葉徳爾「オオカミはなぜ消えたか」にも、山の神の使役の変化が証明されている。「古事記」と「日本書紀」での伊吹山の神の使役が、白猪や白蛇となっているが、関東から東北にかけての山の神の使役は狼となっているのも、東北には猪よりも狼の分布が多かったせいもあるようだ。大亀に乗った妙見の女神だが、関東から東北にかけては、「大亀(オオガメ)」という音であるが、東北では「狼(オオカミ)」が転訛し「狼(オオガメ)」として認識されている事から、大亀が狼に変換されて伝わったようだ。実際に妙見神として、狼に乗った女神が東北の一部に伝えられている。九州から始まり伝えられる信仰が、東北まで辿り着いた時、どのように変化したかの面白さは、まるで電線ゲームのようでもある。
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先に紹介したように、岩手県では鰻が地震を起こし、暴風雨を引き起こす。創建が明らかになっていない遠野の宇迦神社は、まだ現在の遠野町が人が殆ど住んでいなかった水多き時代に鎮座していた可能性から、災害を引き起こす水神を鎮め、町作りの為に創建された可能性があるだろう。現在の遠野の町が、今の様に人が多く住むようになったのは、17世紀後半からであった。そして、遠野の宇迦神社神社が栃木県に多く祀られる星の宮神社の流れを汲むものであるならば、この宇迦神社を創建したのは、やはり栃木県から来て遠野を統治した阿曽沼氏であろう。
by dostoev | 2016-05-12 17:56 | 鯰と地震 | Comments(0)

鯰と地震(其の六)

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奈良県明日香村に、亀石と呼ばれる奇妙な石がある。画像は、ウィキペディアから借用。この亀石は、恐らく土木好きと云われた斉明天皇時代に造られたものか、はたまたそれ以前に遡るか定かでは無いという。この亀石の伝説には、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻の蛇と、川原の鯰の争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。亀石の以前は北を向き、次に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化すと伝えられているそうな。

この伝説にも鯰が登場しているが、ここでは蛇との争いの話しになっている。そして、そのとばっちりを受けた亀の話が語られているが、要はこの亀石を動かすと、奈良盆地は水没するという事らしい。阿蘇での伝説は、巨大な鯰が水の出口に引っ掛かっていた為に、湖の水が抜けきらないところを健磐龍命が鯰を引っこ抜いて、湖の水が無くなった事になっている。鯰は水神の使役であるが、亀もまた水神との関係が深い。つまり、奈良盆地が水没しない様に、亀石が防いでいるという事だろう。つまり、この"亀石""要石"でもあるという事ではないか。
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西山克「皇統と亀」には、称光天皇(1412~1428)が便所で用を足そうとした時、亀が現れて天皇に喰らい付いた話が紹介されているが、これは"霊石"の祟りであるとされている。中世宗教界の中には、しばしば亀が登場しており"金亀(こんき)"という概念上の亀は舎利塔や楼閣を背負う亀として認識されているのは、古代中国を含む様々な国に、大地などの根底には亀が居て、その大地を支えているなどの伝説が日本に上陸して定着した為であろう。これは亀そのものが堅牢さの象徴となり、磐に等しいものとして認識されているからだ。祝詞等などで読み上げられる中に「底つ磐根に宮柱太しり立て…。」という一文は、堅牢な社の建て方を謳っている。社寺の石垣などには亀甲の石垣を組んでいるのは、亀の堅牢性を具現化してのものだ。つまり亀は、堅牢な磐でもあり、それが発展し龍脈を抑え、災害を抑える要石となったのではなかろうか。

「日本書紀(巻一聞書)」には、「国中の柱つまり国軸として、常陸の鹿島動石(ゆるぐいし)、伊勢の伊勢大神宮…。」とある。ここでは要石ではなく動石と表記されている事から、要石という名称は後の事であろう。要石が国軸であるのはわかるが、それでは伊勢神宮の国軸とはなんであろう。それは"心御柱"と呼ばれるものであった。真言密教の秘伝によれば、心御柱は龍樹菩薩と呼ばれ、柱そのものは白蛇棲むとされ、それは龍でもあるとされる。またその心御柱は須弥山とも呼ばれ、白蛇が棲む須弥山は、龍が取り巻いていると。つまり、須弥山と呼ばれる琵琶湖の竹生島を七匝している大鯰は、龍でもあった。これは中世に記された「鼻帰書」に記されているものだが、これを記したのは独鈷を重視する修験によるものである。だからといって中世になってから、心御柱や竹生島、鹿島の動石が神聖視されたわけではなく、既に聖地とされていた場所に、御託を並べたものであろう。ちなみに竹生島を大鯰が七匝するくだりだが、南方熊楠「四神十二獣について」において「観仏三昧海教」という書が紹介されており、そこに「四海の中に須弥山あり。仏は山を繞こと七匝」と記されているから、「渓嵐拾葉集」は、これを採用したのだろう。

四神のうちの北に鎮座している亀に蛇が巻き付いた姿で表されている玄武は、「史記」によると「北宮、玄武」、つまり玄武は星でもあるが、その星は「日本書紀纂疏」にも記されている様に、古くから石・岩・磐・巌と信じられてきた。ここで、玄武=亀=星=石=要石との図式が成り立つか。

ところで、亀と蛇が一体で玄武というわけではない。大形徹「魂のありか」では、玄武の詳細であり、古代中国での亀の立ち位置が調べられており、亀とは「好んで蛇を喰らう」であるようだ。先程紹介した、南方熊楠「四神十二獣について」においても、熊楠は玄武が蛇を食べる亀である事を述べている。玄武の役割は、護衛であり、その堅い甲羅による防御である。玄武が鏡や墓室に描かれているのは、その主を悪神である蛇から守護する事であるからだ。「山槐記」には「地動は、龍動くところなり。」されている。それが日本にも伝わり、地震は地下に潜む龍が動いて起こるものであると認識されたようだ。それを別に龍脈とされ、その龍脈を抑える為に"玄武としての要石"が必要とされたのだろう。
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ところで前回、「日本書紀(斉明天皇元年 夏五月)」の記述「空中にして龍に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。靑き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて膽駒山に隠れぬ。」は、未だに謎となっていると紹介した。紀元前4510年頃の古代中国で、仰韶文化の西水坡遺跡から龍に騎る人の姿が造られていたのが発見されている。それは龍は魂を乗せて天界へと運ぶものとされていたようだ。上記の絵は、長沙子弾庫楚墓から出土した龍に乗る人物の絵である。これを龍船というらしいが、要は魂を天へと運ぶ船であるようだ。日本でも、これに影響されたのか補陀落渡海の思想があり、海の彼方に浄土、もしくはニライカナイがあると信じられていた。それが古代中国では、海の彼方、水平線の彼方は天の河と繋がっていると信じられていたようだ。古代中国において天河と繋がっていると信じられていたのは、南北に流れる漢水であったようだ。それは天の河がやはり南北に流れているのと重ねられているからである。つまり、葛城から膽駒山とは、北へ向かう天の河の流れを示しているものであろう。
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二度目の即位であった斉明天皇だが、この二度目の即位の後に何気なく記された龍に乗る者の意味とは、魂を賭して自らの信念を遂げ、天の河に到ろうとする斉明天皇の信念の表れではなかったか。となれば、香具山の西から石上山までに至る水路を掘ろうとしたのも、天河に繋げようとする意志であり、冒頭に紹介した亀石などの奇石も恐らく斉明天皇によるもので、天の河と繋がる、理想の都を目指したものでは無かったか。
by dostoev | 2016-05-11 19:47 | 鯰と地震 | Comments(0)

鍋倉山の花

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今日の昼頃、暖かい日差しに誘われ、また軽い運動がてら鍋倉山にカメラを持って行って見た。少し前まで鍋倉山の主役であった桜は、既に散ったものや葉桜となっていたが、それでもまだその存在感を示していた。
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主役であった桜をよそに、足元に目を向けて見ると、色とりどりの花が目立つようになっていた。どうやら、花の季節がきたようだ。
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by dostoev | 2016-05-09 17:18 | 遠野の自然(春) | Comments(0)

鯰と地震(其の五)

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上図の絵は、地震の前兆として、光物が飛んだという話から描かれたものである。「安政二卯年十月朔日夜虎刻、浅草寺五重塔の方より南方へ飛行の者あり、其疾こと矢を射ごとく」と紹介されているが、この安政地震の時、他にも多くの人達の証言があり「その光眼を射てすさまじかりし」と、表現している。菅原道真も編集に携わったという「日本三大実録」に、貞観11年(869年)7月13日に三陸沿岸でマグニチュード8.3クラスの地震が発生し津波が起きたとあるが、それと共に「流光昼のごとく隠映した。」と、流れる光が昼間の様に明るかったと記されているのも、安政の地震前に目撃された光物と似た様なものであろうか。実際に、現代でも地震の前後に発光現象は目撃されており、わたしもまた実体験として何度か、遠野の深夜の山中で発光現象を目撃した後に起きたのが地震であった。

「日本書紀(斉明天皇元年 夏五月)」にこういう記録が記されている。「空中にして龍に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。靑き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて膽駒山に隠れぬ。」この何気なく記された一文は、未だに謎となっている。ただ災害の前兆とも捉える事が出来るが、記録に記されている一番古い地震は、「日本書紀(允恭天皇 416年)」「五年の秋七月の丙子の朔巳丑に、地震る。」と記されているのが最古の様だ。ただ実際に地震はあったろうが、地震情報が広域から集まって来なかった可能性、もしくは積極的に地震を含む災害情報を「日本書紀」などの正史に記録して来なかった可能性も指摘されているようだ。

三陸はリアス式海岸であると、小学校の頃の地理で習った事がある。リアス式海岸はノコギリ状で・・・との説明はなんとなく覚えているが、どうしてノコギリ状になったのかは説明されていなかった筈。今考えるに、人類が住む以前から地震が起き、津波が押し寄せて大地が削られて、三陸のリアス式海岸になったのだと思う。つまり三陸は、津波によって出来た地形という事。そして2011年の東日本大震災での津波は、九州まで到達しており、高知県も1メートル~2メートル規模の津波が押し寄せ、被害が起きている。天武天皇時代の白鳳大地震で、土佐の津波被害が記されているが、東北を震源地とする地震でも土佐には津波が押し寄せている事から、古記録による地震の震源地は、あくまでも予測でしかないだろう。後は、古代の人々が災害をどう表現して記録したかになるのか。

例えば明治時代まで、伊勢神宮の御幣が倒れただけで、その神意がどうであったのかと考えられてきた。御幣が天災という地震によって倒れたのではなく、あくまで御幣が倒れた意味を考えて来た時代がかなり続いていた。あからさまな大地震は正史に記載されるのだろうが、僅かばかりの地震では、記録されない事もかなりあったのではなかろうか。逆に言えば、自然災害は「怪異」「霊異」として表現されてきた可能性もあるだろう。

冒頭の光物がもしも雷を表すなら、雨の前兆、水の前兆でもあろう。また電磁波による発光現象であるならば、それは地震の前兆にもなる。しかし昔には、電磁波というものは存在しない。あくまでも天空に光るのは雷でしかなかった。とにかく古から鯰が地震を起こすのであるのは、どこかで水神と繋がっていると考えていた人達がいるだろう。何故なら鹿島神宮には本来、武甕槌ではなく、蛇神が祀られていたからだ。それを抑える為に、後から武甕槌が祀られたのだろう。それがいつしか、要石を使って鯰と地震を抑える鹿島神として広まったに過ぎない。
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以前「鉄の蛇」を書いていて分かった事だが、鹿島神宮の竜蛇神は二荒神社に関わって来る。そしてその二荒神社の信仰は、琵琶湖に繋がっており、その琵琶湖での鯰伝説は、竹生島にあった。「竹生島縁起」では、龍蛇が変じて琵琶湖の主になったと。「和漢三才図会」では「八月中旬月明の夜に、鯰魚数千竹生島の砂上に出で踊躍顚倒す」と記されている。八月中旬の月の夜であるから、これは十五夜にかかる伝承であり、それはつまり竹生島に祀られる水神は、月に関係する神であるという事を示している。

竹生島は、伊吹山の神が、姪で浅井岳の神である浅井姫命と高さを競い、負けた伊吹山の神が怒って浅井姫命の首を切り落とした。その首が琵琶湖に落ち、竹生島が生まれたという伝説を持つ。菊池展明「円空と瀬織津姫(下)」では、浅井姫の浅井岳は小谷山であろうとしているが、それは恐らく間違いで、一般的に云われる金糞山の事であろう。間違いではあろうが、その祭神が神武天皇の皇后である蹈鞴姫となっているのは日吉神道との繋がりもあろうが、実際に蹈鞴場であった山であるからだろう。その蹈鞴の重複から、神武皇后としての媛蹈鞴五十鈴媛命という名では無く、単に蹈鞴姫となり、後から神武の皇后と結び付けたのではないか。ただし、浅井姫であったこの金糞山が重要なのは、源流となる河川が琵琶湖へと流れ、そして伊勢へと流れている。つまり、伊勢と琵琶湖を結ぶ山が浅井岳であるからだろう。

田中貴子「渓嵐拾葉集の世界」を読んでいたら、竹生島に関する記述があった。「竹生島縁起」は、天台僧が琵琶湖を大海に、竹生島を須弥山に例えて記事を増補したと思われるとしている。その「渓嵐拾葉集」には「竹生島の明神は魚龍である。相伝によれば大鯰が七匝り島を繞っている。これ則ち七仏薬師の化現なのである。」と記されている。七薬師で思い出すのは七つ森である。七つ森信仰は、北辰信仰、つまり妙見信仰である。妙見菩薩の本地は、薬師如来であるからだ。北斗七星が降った霊山とされる比叡山との兼ね合いが、この竹生島にも見えている。つまり、比叡山の本地は、竹生島であるという事か。

また、黒田日出男「龍の棲む日本」でも、竹生島の存在と、龍と鯰について言及している。「龍の棲む日本」でも「渓嵐拾葉集」を引用して「竹生島は金剛輪際より出生した金剛宝石である。」という記述を紹介している。"金輪際"とは、地層・地下の最も深いところを意味している事から、要石を想定して展開している。また実際に「鹿島宮社例伝記」の記述を紹介し、それによれば「近頃の伝によれば、近江の湖の竹生島こそ、かくのごとく"不動の島"である。故に竹生島は地震があっても動かないという。」竹生島は、"金剛宝石である不動の島"という事らしい。不動明王は、不動金剛明王とも書き表す事から、不動の島は確かに要石を想定させるが、それとは別に北極星をも想定させるものだ。

この竹生島には宝厳寺が建てられているが、その由緒が、神亀元年(724年)、聖武天皇の夢に"天照大神"が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天の聖地であるから寺院を建立せよ」との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし宝厳寺を開基させたという。聖武天皇は、仏教を信仰し、奈良の大仏の建立も始めたが、それ以前に妙見を強く信仰していた。天皇という名称は天武天皇から始まったが、天皇そのものが仏教に帰依いつつあると、仏教僧は天皇では無く"金輪聖王"という名称を使うようになっていた。仏教側によれば、天皇の本質が仏教の説く金輪聖王にあるとみなし、金輪聖王は俗世を統治する為に出現した仏の化身であるとしている。恐らく聖武天皇の名は、この金輪聖王を意識して名付けたのではなかろうか。その聖武天皇の夢に天照大神が登場しているが、神仏混合となった時には、天照大神の本地は大日如来とされている。しかし夢に登場したのは垂迹である天照大神でありながら、竹生島は"弁才天の聖地"としているのには違和感を覚える。恐らく正確には、宝厳寺に伝わる古文書「竹生嶋縁起略」「欽明天皇六年乙丑四月初巳日に弁才天女、大内に示現して曰く、我は竹生島の弁才天、天照大神の分魂なり」との神託があったとされている。聖武天皇よりも更に古い、欽明天皇時代に竹生島の祭祀が遡っている。そして天照大神の分魂とは、恐らく荒魂という事であろう。何故なら「日本書紀(神功皇后記)」を確認してみると「和魂は王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」とある。また別に「荒魂を撝ぎたまひて、軍の先鋒とし、和魂を請ぎて、王船の鎮としたまふ。」事から常に不動であり、伊勢神宮に坐すのは和魂であり、先鋒として各地に進むのは荒魂の性格であるからだ。
by dostoev | 2016-05-08 23:08 | 鯰と地震 | Comments(0)

鯰と地震(其の四)

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室町幕府将軍足利義持の命により、如拙という僧が描いたのが、瓢箪で鯰を抑え捕る事が出来るか?という禅問答の様な絵が上記の「瓢鮎図」と呼ばれる有名な絵。通常では、瓢箪で鯰を捕まえるなんて出来ないと思うのだが、鯰は地震の元とも知られ、水神の使役とも知られている。

「日本書紀(仁徳天皇十一年冬十月)」では、瓢箪が水神を鎮める呪具として登場している。また有名な「西遊記」では、呼びかけた相手が返事をすると中に吸い込んで溶かしてしまう瓢箪の紅葫蘆で銀角を吸い取ってしまう。本来は水瓶であるから、やはり水神関係の呪具であったのだろうし、また瓢は魂の器という認識があった為、天皇陵などの前方後円墳も瓢を半分にした形を模したものであるという。
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ある鯰絵では、鹿島明神が要石の代わりに瓢箪で鯰を抑え込んでいる。
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また、別の絵では鹿島明神の代わりに、恵比寿様が瓢箪で鯰を抑えている。つまり瓢箪は、要石の代わりになるものであるのがわかる。考えて見れば、地震の後には津波が押し寄せる。地震と津波は、セットみたいなものである。当然の事ながら、鯰は暴れて地震を発生するが、それが水神の怒りにも似た津波に結び付くのは自然の流れであるのか。

鯰の伝説で一番古いであろう阿蘇地域に、もう一度目を向けてみよう。神武天皇の孫である健磐龍命は、阿蘇カルデラ湖の水源を護る鯰を退治した後に、祟ったその鯰を祀った。また、神武天皇の皇子である彦八井耳命が日下部吉見神社の元地にあった池を干し、襲ってきた大蛇を退治し祀った。どちらも本来は、阿蘇に関係無い神武天皇の子孫であり、その子孫たちが水神の使役らしきを退治している。ところで同じ、阿蘇に隣接する地域に菊池郡があり、そこにいくつかの乙姫神社が鎮座している。祭神は阿蘇津比咩であり、鯰と関係する伝説が伝わっている。それは、姫井という地で川に呑まれて流された阿蘇津比咩を、大きな鯰が助け出した伝説であ。阿蘇津比咩は本来、日下部吉見神社の水神であるから、水神の使役であるとされる鯰が助けるのは当然の話しだろう。ただしこの地域では、乙姫とは阿蘇神社の二ノ宮に祀る阿蘇津比咩の事であるとしている。また隣接する地域に男石乙姫神社があり、祭神は阿蘇大神となっている。しかし、その阿蘇大神とは乙姫である阿蘇津比咩を指す言葉であるという。また別に伊萩二宮神社があり、その名の通り阿蘇神社の二宮に祀られる、阿蘇津比咩を主祭神としている。どうもこの地域での阿蘇大神とは、健磐龍命ではなく、地主神であった水神の阿蘇津比咩という事らしい。また、阿蘇大神が阿蘇津比咩であるかのような伝承が「彦山流記」に記されている。行者が阿蘇山に登り、山上の宝池の本当の主を知りたいと様々な行法を駆使していると、女人が現れ行者の舌を食いちぎった後に正体を現し、それは大龍であり、娑婆では十一面観音であった。これはやはり、龍の女神である阿蘇津比咩が阿蘇大神という事であろう。

鯰を倒した健磐龍命であるが、水神である日下部吉見神社の阿蘇津比咩の使役が鯰であるなら、健磐龍命は阿蘇を開拓したというより、阿蘇で崇敬されていた水神である女神を力で従わせ、阿蘇の地を征服したとの見解が成り立つ。
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ところで、この菊池郡を調べていて気になったのは、地名に「大津」「瀬田」があり、そして近江国から勧請された「唐崎神社」そして「日吉神社」があった。「菊池郡市神社誌」によれば、男石乙姫神社は、高宮山城守高宮清房が阿蘇乙宮大明神を勧請したようだが、この高宮清房という人物は、近江国高宮の人であり、元は佐々木氏であり南北朝時代に征西将軍に従って菊池に下り、その子孫は菊池に仕えて居住し、地名はそのまま近江国の高宮を採用したようである。これではまるで、琵琶湖周辺の地名が移転したようでもある。ウィキペディアによれば、大津の名前の由来はよくわからないが、「肥後国誌」によると戦国期に有力国人である合志氏の一族が東嶽城(現 日吉神社)を築き、大津十朗義兼と名乗っていることから、既にこの頃には大津の地名があったようである。「合志川芥」には「此の所は「火児国大水(ヒゴノクニオオズ)」と呼ばれていた」とある。合志氏が登場しているが、元は近江国の佐々木氏であった。「肥後国志」によれば「佐々木四郎左衛門尉長綱、大友氏の裁許によりて当国に下向し、合志半国の地頭職となり、真木村に住し、氏を合志と改号す。」なのだと。元々は大水(オオズ)である地名に、近江国の大津から合志氏が来た事から「オオズ」の訓み名に「大津」をあてたのだろう。

しかし、この阿蘇地域の菊池郡に、多くの菊池氏と佐々木氏が住んでいるのだが、遠野の地もまた、菊池氏が多く、それに次ぐのが佐々木氏である。この菊池郡における菊池氏と佐々木氏のバランスは、遠野に何等かの関係があるのだろうか?そしてむもう一つ、琵琶湖を中心とする近江国との関係。この琵琶湖にもまた、鯰の伝説がある。
by dostoev | 2016-05-07 20:44 | 鯰と地震 | Comments(4)

「遠野物語99(霊界の法則)」

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土淵村の助役北川清と云ふ人の家は字火石に在り。代々の山臥にて祖父は
正福院と云ひ、学者にて著作多く、村の為に尽くしたる人なり。清の弟に福二
と云ふ人は海岸の田の浜へ婿へ行きたるが、先年の大津波に遭ひて妻と子と
を失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばか
りありき。

夏の初の月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の
打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よる
を見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遙々と船越村
の方へ行く崎の洞のある所まで追い行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひ
たる。

男はと見れば海波の難に死せり者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心
を通わせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてあると云ふに、子供は可
愛くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物
言ふとは思われずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見て在りし間に、男女
は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。
追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中に立ちて
考え、朝になりて帰りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。

                          「遠野物語99」

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以前に書いた、この「遠野物語99」の話は、東日本大震災と重なって、かなりのアクセスを見せた記事であった。死んだ妻が、夫である福二と結婚する以前に心を通わせていた、やはり津波に呑み込まれた男と消えて行く様子は悲しげであり、その理由をいろいろ考えて見たものだった。

服藤早苗「平安朝の女と男 貴族と庶民の性と愛」に、10世紀の半ば頃に「女は死後、初めて性交をした相手に手を引かれて三途の川を渡る。」という俗信が紹介されていた。つまり、これを「遠野物語99」に当て嵌めると、津波に呑み込まれて死んだ妻は、"霊界の法則"によって、結婚している福二の妻であったが、それよりも強い絆であるのか、初めて身体を預けた男性に手を引かれて行くというものは、まさに不条理であった。突っ込みどころがある俗信ではあるが、平安時代の俗信が現代であり、東北の果てまで伝わって信じられていたという事が、貴重であり重要であると思う。福二が見たものは、この地方まで伝わり、根強く生きて来た強い俗信の幻影であったのか。それとも、その霊会の法則は、実在するリアリティであったのだろうか。
by dostoev | 2016-05-06 16:20 | 「遠野物語考」90話~ | Comments(0)

みつせ川

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「蜻蛉日記」の巻末歌集に下記の歌がある。

みつせ川 浅さのほども 知られじと 思ひしわれや まづ渡りなむ

みつせ川 われより先に 渡りならば みぎはにわぶる 身とやりなりなむ

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冒頭の「みつせ川」とは、「三途の川」を云うのだという。「蜻蛉日記」の解説によれば、初めの歌の意味は「三途の川は水深もわからない。心配でならないと思っていたが、その私が先ず、渡ることになろうとは。」という自らの死を意識した歌となっている。次の歌の意味は「貴方が三途の川を先にお渡りになったら、私は岸辺で途方に昏れることになりましょう。そんな思いをおさせにならないで。」これはつまり、私の手を引いて連れてって、もしくは背負ってこの川を渡ってと、嘆願している歌となっている。10世紀中頃の日本の俗信として、女は死後、初めて性交をした相手に手を引かれて三途の川を渡る」というものがあった。これは「遠野物語99」で津波に呑まれた筈の妻が婚姻する以前に、深く心を通わせた、やはり同じく津波に呑まれた男と消えて行った理由が、この10世紀の俗信が、真実として生きていたという事なのか。

ところで、この"みつせ川"は、渡る瀬が三つある為に"三瀬川"と云うそうである。これを知って、思い出した川であり、場所がある。それは、旧熊野本宮大社跡地である大斎原だ。大斎原は、熊野川・音無川・岩田川の合流点にあり、橋も無かったそうだ。それ故に熊野本宮大社を参拝する為には、歩いて川を渡り、着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりであったという。自らの身だけで川を渡る事により、それが穢祓となって、自然に身を清め、神域を訪れ事になるのだと。
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奪衣婆は、三途の川の畔に居て、亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼と云われる。別名、葬頭河婆とも。しかし、俗世の衣服を脱ぎ捨てる事は穢祓となる事から、脱衣婆もまた瀬織津比咩と同じに穢祓の神に等しい存在である。実際に脱衣婆は、瀬織津比咩と同一視されている。ところで脱衣婆の別名は葬頭河婆(しょうづかばあ)だが、この葬頭河(しょうづか)という音は、清水川(しょうずか)ともなる。「蜻蛉日記」の歌では、三途川の深さがわからないと詠われているが、イメージとしての三途川は、底の見えない深さか、あるいは濁った川の様なイメージを与える。確かに、極楽では無く地獄に堕ちるのであれば、その景色は不安を煽る情景と成ろう。目の前に見える三途川も、美しく透き通った川だとは想像できないだろう。しかし、岩から染み出る清水は、綺麗な透明度を誇る美しい水だと認識されている筈。よって、"葬頭河婆""清水川婆"であれば、その印象はガラッと変わる事だろう。ちなみに清水川と書いて「すずか」とも訓む。「すずか」で思い出すのが「鈴鹿」であるが、これについては長くなるので、別の機会で書く事とする。
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そしてもう一つ、三瀬川(みつせがわ)で思い出して欲しい川がある。それは「古事記」において、伊弉諾が黄泉国から帰還して、穢祓した川である。

「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は瀬弱し」

上記の言葉の後、伊弉諾は中つ瀬を選んで禊し、生まれた神が八十禍津日神であり、瀬織津比咩の異称である。伊弉諾の上記の言葉は、川の流れの上流から下流にかけての表現だと、自分はずっと思っていた。しかしこれを、三つの瀬を表現しているとしたらどうであろう?三つの川が合流する大斎原であるが、その中で一番重要な川が熊野川である。

熊野本宮大社の旧社地である大斎原とは「水霊の斎く霊地」の意であり、古くは大湯原と表記され、それは「聖水によって清められた聖地」との意であった。それは、熊野川の奥に坐す地主神である水神であったとされている。また、平安中期の仏教説話集である「三宝絵詞」には、その熊野川の奥に坐す神が熊野の「本神」と記され、それが熊野坐神であった。つまり熊野本宮神の本来が、水神を祀っていたのは疑いの無いものである。それでは、その熊野川の奥には何があるかといえば、熊野川源流部に鎮座しているのは天河神社。その天河神社に祀られる本来の祭神とは「天照大神別体不二之御神」であり、それはつまり、天照大神荒魂とされる神であり、瀬織津比咩であった。この神が熊野本宮神、熊野坐神であったという事になる。

伊弉諾は、三つの瀬のうち中つ瀬を選んで穢祓をし、生まれたのが八十禍津日神であった。大斎原に集まる三つの川のうちの熊野川の源流部にに、穢祓の神である瀬織津比咩が坐す。これは、偶然であろうか。三途川とは仏典に由来しているというが、その概念は熊野本宮大社の前に流れる三つの瀬を根底に作られたものでは無かろうか。
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「死の国」とも呼ばれる熊野。黄泉津大神となった伊邪那美の墓所は比婆山とも、熊野川の河口にある有馬とも云われる。三途川もまた、死の国の入口である事を考えれば、この熊野の地に、"みつせ川"である三途川をあてはめて考えられたとしてもおかしくはないだろう。
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ちなみに、閻魔大王と葬頭河婆は夫婦であるという説がある。冥界の王であり、人の罪を裁く閻魔大王であるが、これを日本神話に置き換えて考えれば、浮かび上がるのが根の国の王でもある素戔男尊である。「大祓祝詞」に記されている罪は、素戔男尊が高天原で行ってきた罪の数々である。もしも閻魔大王が素戔男尊と習合するのならば、それは何という皮肉であろうか。ところで根の国に登場する素戔男尊の娘とされる須世理姫は、「大祓祝詞」に登場する速佐須良比咩と習合するという。素戔男尊は建速須佐之男命とも書き記し、速佐須良比咩の「速」が重複している事に加え、どちらも根の国の住人である。それでは、須世理姫であり速佐須良比咩の母親は誰であろう?

遠野地域に於いて牛頭天王(素戔男尊)を祀る八坂神社を調べると、牛頭天王と並んで祀られる神が各々、早池峯大神・祓戸大神・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命・九頭竜・瀬織津比咩となっている。牛頭天王(素戔男尊)以外は全て同一神であろう事から、この組み合わせは、罪を成す者と罪を祓う者か?それとも素戔男尊を閻魔大王と見做すなら、罪を裁く者と罪穢れを祓う者の組み合わせとなるのだろうか。五来重氏によれば、日本固有の宗教は「罪と穢を人生すべての禍の根源」とし、それを祓う事に重きを置いて来た宗教観念が根強いという。まさに罪と穢祓を意識した素戔男尊と瀬織津比咩との結び付きは、また仏教世界と結び付いて、閻魔大王と葬頭河婆との組み合わせにも思える。天の安川で対峙し誓約をした素戔男尊と天照大神と神話には記されているが、本来は天照大神の荒御魂ではなかったかとも云われる。出雲を調べても、その信仰的中心は大国主の奉斎する熊野大神であった事からも、日本の信仰の根底は、"死の国"と呼ばれる熊野にこそあるのではなかろうか。
by dostoev | 2016-05-04 06:52 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

やめてくれ。。。

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家の猫のミーが最近、自分がPCの前に座ると寄ってきて、PC画面をカリカリ?モミモミ?するようになった。とても、邪魔なんですけど。取り敢えず、ネタとして提供(^^;
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この前、スカイパーフェクトテレビの「旅猫ロマン」という番組から電話が来て、家のミーを取材させて欲しいと言われ、OKした。数日後の午前中早くに取材しに来て、暫くミーの行動を撮影していたが、カメラに臆することなく、愛嬌を振りまいていた様。放送は確か夏頃の予定だとか。しかし、我が家ではスカパーは映らない。その後にBS11でも放送するらしいが…BSも映らない。まあ、編集したらDVDを送ってくれるそうなので、それで問題無しだけど。
by dostoev | 2016-05-03 08:02 | 民宿御伽屋情報 | Comments(2)

鯰と地震(其の三)

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鯰と地震の関係についてなのだが、遠野に住んでいると、それが実感できない。何故なら、遠野には鯰が生息していないからだ。似た様な魚に"ギンギョ"と呼ばれるものがいる。ただしギンギョという呼び名は、この地方独自のもので、正確には"ギギ"と言い、、ナマズ目ギギ科の魚となる。子供の頃、川で初めてギンギョを捕まえた時は鯰だと思っていた。まあ鯰の仲間ではあるが、鯰ほどには大きくならない。だからか遠野においてのギンギョは、イワナやヤマメ、鯉やウナギ、そしてカジカに比べれば存在感が薄い魚である。

川の主として人間に化けて、川漁をやめさせようとする大鯰の話がある。または、阿蘇地方では阿蘇山のカルデラ湖の縁を健磐龍命が蹴り裂いて、湖の水を無くそうとした。しかし、そこに湖の主である大鯰がいた為に邪魔で、なかなか水が無くならない。そこで健磐龍命は、その大鯰を、どうにかどけて、湖の水は完全に干上がった。そこに稲作を始めようとしたが、上手くいかない。それは鯰の祟りだと知って、それから阿蘇の人々は鯰の霊を祀り、鯰を食べる事を止めたという。恐らく日本における鯰の古い伝説は、この阿蘇の話しだろう。何故なら登場する健磐龍命は、神武天皇の孫という設定だからだ。

また、その健磐龍命の妻である阿蘇津比咩は、日下部吉見神社の姫が嫁いだものであった。しかし、この日下部吉見神社もまた因縁がありそうだ。この神社は、阿蘇神社よりも6年程古い。社殿が鳥居より下にあるので、下り宮と云われ、日本三大下り宮の一つとなっている。ただこの下り宮は別に"忌宮"とも云われるらしい。その忌宮と呼ばれる理由は定かでは無い。この日下部吉見神社の由緒だが、神武天皇東征六十九年にに、彦八井耳命が日向高千穂より日下部に入り、暫くの間川走の窟に住んでいた後、日下部吉見神社の地にあった"池を干し"宮を定めてからだという。その時、襲ってきた大蛇を斬ったというが、恐らくその大蛇が、その池の主であったのだろう。これは、健磐龍命の湖の主である鯰を退治した話と似通っているが、つまり全ては、未開の地を征服し開拓するという神武天皇からの政策からなのだろう。

その阿蘇は現在、大地震による被害で苦しんでいるが、古代の阿蘇もまた大地震で苦しんでいた。天武天皇時代(在位 西暦373~686)には白鳳大地震を筆頭に、なんと19回もの大地震が起きている。これを知ると、まだまだ阿蘇では地震が続く可能性もあるのかもしれない。
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ところで遠野には、多くの要石を有する不地震地帯というものが存在する。これは古老による口伝ではあるが、古代に九州の地が地震などの天変地異で不安定な時に、安住の地を求めて遠野に移り住んだとの伝承がある。伊能嘉矩「猿ヶ石川流域に於ける不地震地」によれば、その不地震地は、全部で13ヵ所にもなる。しかし調べると、経塚もまた不地震地となる可能性があるので、あと4つは追加になるだろうか。それら不地震地帯を図にあてはめて見ると、早池峯神社の地だけが、北に飛び抜けて離れているのが分かった。不地震地の半数に天台宗が関係する場所がある事から、恐らく早池峯神社及び早池峯山を頂点として、不地震地が設定されたのではないかと考えた。この不地震地帯は何故か川側の盛り上がった丘の上に設定流されている場合が殆どである。つまり地震だけでなく、水害をも抑える意図があってのものだろうと思う。

日本で最大の湖である琵琶湖を調べると、琵琶湖の東岸に石造神社があり、他にも石造・玉作神社。瀬田には岩坐神社や石山寺など、琵琶湖を石と名の付くの神社仏閣が多い。また、琵琶湖の裏鬼門に位置する比叡山は、北斗七星が降った霊山であるとされる。星は石でもある事から比叡山もまた石としての呪術として、琵琶湖と何等かの関係があるのではなかろうか。大雨が降り続いて起きる山崩れや土石流を"蛇崩れ"や"蛇抜け"と呼ぶのは、水が龍蛇の象徴と捉えていたからである。健磐龍命は、岩を蹴り裂いて阿蘇のカルデラ湖の水を外に出した。つまり石が、水に対する防御となっているのが理解できる。

「日本書紀(天武天皇七年)」「筑紫國、大きに地動(なゐふ)る。地裂くること廣さ二丈、長さ三千餘丈。百姓の舎屋、村毎に多く仆れ壊れたり。是の時に、百姓の一家、岡の上に有り。地動る夕に當りて、岡崩れて處遷れり。然れども家既に全くして、破壊るること無し。」

この「天武記」の話は、大地震が来ても岡の上の家はまったく安全で被害が無かったと記している。ここでは、その岡の詳細が記されていないが、恐らく大岩を含んだ安定した岡であったのだろうと予想する。何故ならば、神社仏閣の建つ地域はしっかりした岩盤の上に成り立っているものが多い。これは例えば「大祓祝詞」などにも記されている様に「底つ磐根に宮柱太しり立て…。」とあるのは、実際の建築様式である筈。実際に神社仏閣の土地が不地震地帯になっているのは、この様式に合わせて土地を選び、社を建てているからだろう。去年に早池峯神社へと行きドローンを飛ばそうとしたら、電磁波の干渉によりドローンを飛ばす事が出来なかったのも、早池峯神社の地盤が磁力を帯びた磐の上に建てられているからだろうと考えた。

この「天武記」の地震の際に無事だった百姓の家の検証が成されてはいないが、この天武時代に発生している19回にも及ぶ大地震の際、不安になった九州に住む人々は、故郷を捨て、安住の地を求めて遠野に辿り着いた可能性は無いだろうか。何故なら、阿蘇山に祀られる阿蘇津比咩とは、遠野の早池峰山に祀られる瀬織津比咩であるからだ。瀬織津比咩が阿蘇に嫁いだ為に、神名が阿蘇津比咩となっただけである。共通する神を祀る阿蘇と遠野、あながち伝説だけで済まない気がする。早池峯の由緒では、始閣藤蔵が金が採れたら、早池峯山にお宮を建てると祈願したのだが、つまり早池峯神社が建立する以前から、早池峯山には女神が祀られていたという事。それでは誰が大同元年(806年)以前、早池峯山に阿蘇山と共通する女神を祀ったかという事になる。(続く)
by dostoev | 2016-05-02 12:13 | 鯰と地震 | Comments(0)

「現代遠野物語」 第百九話(鈴の音)

座敷わらしを期待して、某宿に泊った家族三人連れの話である。その客は、
座敷わらしにあげようと、子供向けのオモチャをいくつも買って来ていた。

その日の晩、母親がフト目覚めたのは、鈴の音が聞こえたからであったそ
うな。目が覚めても、その鈴の音は部屋の周りを移動していたという。ところ
がよく見ると、熟睡している娘の傍にある携帯電話のストラップについている
鈴が鳴っているのに気付いたという。しかし、揺らさなければ鳴らない筈の鈴
の音が何故に鳴っているのか理解できなかったと。ましてや、その鈴の音が
部屋の中を巡る様に鳴るという事は、理解できなかったそうな。その後に娘を
起こして、やっと鈴の音は鳴り止んだという。もしかして、その鈴を鳴らしたの
は、沢山のオモチャを買って来て貰って嬉しかった、座敷わらしの仕業であっ
たかと思ったそうな。
by dostoev | 2016-05-01 15:21 | 「現代遠野物語」100話~ | Comments(0)