遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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早瀬川と白幡神社(其の七 結)

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栲幡皇女の別名は、稚足姫皇女(若帯比売命)であるが、これを「ワカタラシヒメ」と訓む。例えば神功皇后の別名が、息長帯比売命(気長足姫尊)と、やはり同じタラシが付く。このタラシとは「満ちたりた月」を意味する。太陰暦が採用されていた時代、歴代の天皇の中に「タラシ」が付く天皇はかなりいた。しかし、太陽暦を採用した持統天皇時代以降のタラシは、元正天皇だけで終息する。つまり持統以前は、月が祭や生活などに大きな影響を与えていた。先の栲幡皇女も、五十鈴川に鎮座する水神の巫女であると共に、月の巫女でもあった。そして神功皇后もまた、気長足(タラシ)姫尊という月を名乗った巫女であったという事。仲哀天皇を祟った神を神功皇后が呼んで、真っ先に現れた神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であったが、「天疎」は西へと向かう月を意味している。そして神功皇后の御子である応神天皇の別名は、誉田(ホムタ)別尊であるが、「ホム」は「膨らんだ状態」を意味し、「タ」は「足り」と同じである事から、誉田別尊もまた「満ち足りた月」を意味する。
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先にも書いたが、月を象った鏡の原初は水鏡であった。その水鏡に映る月は、水が満ち足りた状態でもある。その満ち足りた月から零れ落ちる水が変若水である。変若水は、飲めば若返るといわれた水であり、月の不死信仰に関わる霊薬の一つとも云われる。イメージして欲しい。天空に浮かぶ月から零れ落ち、地上に向って落ちて来る一筋の水はまさに、高所から落ちて来る那智の滝と同じ様に白い布と同じと思われていた。前回「早瀬川と白幡神社」に掲載した「那智の滝図」の上に月輪が描かれているのは、那智の滝そのものが月の変若水である事を意味している。更に白(シラ)「新生・再生」の意味があるのは、全てが月から連想されたものであるからだ。白幡であり滝は、月から溢れ落ちる水(変若水)を意味する。その白幡に依り憑く神が水神であるのは、当然の事であった。

「万葉集」に下記の歌がある。

古ゆ 人の伝ひ来る 老人の 変若とふ水ぞ 名に負ふ滝の瀬(1034)


月夜見の 持てるをち水 い取り来て 君に奉りて をち得てしかも(3245)
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南部氏が崇敬する櫛引八幡の神事の「御浜入り神事」が神威の再生・蘇りの神事であるのは、やはり月の再生を意図してのものだと理解できる。その櫛引八幡宮の本来が石清水八幡宮(白幡神社)である事から、遠野の早瀬川に白幡神社を建立したのは、南部氏の信仰を持ち寄った為であろう。ただ、遠野盆地全てが水源を有する山である中、何故に早瀬川に白幡神社を建立しはたのかという疑問が残る。しかし、月を意識した場合、その月の運行は東から西へ、である。それと同じように早瀬川も東の山を水源とし、西へと流れる川である。月の運行に沿った川が早瀬川である事から白幡に適した河である事と、その早瀬川の源流に祀られた十一面観音が、白幡の神である瀬織津比咩の本地である事が大きかったのではなかろうか。遠野のの町に建立された白幡神社の一つが、現在の宇迦神社の向かいであり、もう一つが加茂神社近辺であったという事は、北の早池峯を意識していたのではなかろうか。何故なら、来内の伊豆権現は早池峯を信仰して建立された神社であるが、その直線状に早池峯の末社である加茂神社が建立されている。それと同じ様に北の早池峯を意識して、やはり白幡神社が二社建立されたのではなかろうか。そうでなければ、白幡神社を二社も建立する必要が無い。あくまでも方向を北の早池峯を意識した結果が、白幡神社の二社建立ではなかったか。
by dostoev | 2016-01-30 19:43 | 早瀬川と白幡神社 | Comments(2)

早瀬川と白幡神社(其の六)

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この絵画は鎌倉時代に描かれた「那智の滝図」で国宝となっている。滝を瀑布と称するが、こうして滝を絵にしてみると高い崖の上から一枚の白い布が垂れ下りなびいている様に見える。実際に瀑布の意味は、高い所から白い布を垂らしたように、直下する水の流れを意味している。この「那智の滝図」の右上には月輪がかかっているのは、滾り落ちる滝の水と月との関係を表している。

白幡は瀬織津比咩であると詠われた古歌が伝わる御前神社に保管されている古文書「東奥階上郡国正鎮守守浪打山三崎神社御宝蔵」の一覧に、「神功皇后より日月の旗が奉上」と記されている。この日月の旗とは言うまでも無く"赤幡・白幡"の事であるが、赤幡は太陽に対応し、白幡は月に対応する。「早瀬川と白幡神社(其の五)」で紹介した、宗像大社の御阿礼祭りにも幡が登場するが「幡(ハタ)」とは、神の依代であるとともに強弱の風により翻るからハタと称されるという原義から、動的なものが幡である事から、水の流れ落ちる滝もまた"ハタ"と認識され瀑布と称されるのだろう。いや、そもそも物とは、自然の中から開発されたものであって、例えば青白い輝きを放つ白銅鏡は月を見立てて作られたものであった。月の見立てが鏡となったのだが、その鏡の原初は水鏡からであった。自然の水の形態が鏡や白布に見立てられたのは当然の流れであったと思われる。ただ、白幡が滝である瀑布とする根拠が希薄であるように感じるが、その白幡と滝では無く月を結び付ける姫がいた。それは「雄略記」に登場する栲幡皇女であり、別名稚足姫皇女である。
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栲幡皇女であり稚足姫皇女は、雄略の皇女として伊勢神宮の斎王に仕えていた。あらぬ疑いから自殺したのであった。その時に伊勢神宮の神鏡を持って五十鈴川の辺に埋めたのだが、その鏡から大蛇の様な巨大な虹が浮かび上がった。神鏡とは八咫鏡ではないかと云われるが、「倭姫命世記」には宝鏡について記されている。

因て斎宮を宇治の県五十鈴の川上の大宮の際に興て、倭姫命をして居さしめたまふ。即ち八尋の機屋を建て、天棚機姫神の孫八千千姫命をして大神の御衣を織らしむ。譬へば猶天上に在る儀のごとし。謂ひて宇治の機殿と号ふは是なり。一名は磯宮と号す也。・・・彼の処にして、神社を定め給ひ神宝を留め置く。伊弉諾・伊弉冉尊捧げ持ちし所の白銅鏡二面是れ也。是れ則ち日神月神所化の鏡也。水火二神の霊物たり。

これによれば、栲幡皇女が何故に五十鈴川へ行って鏡を埋めたのかが理解できる。荒祭宮が本来の太神宮の祭神であったとされており、斎王が元来奉仕する神は荒祭宮の祭神で、斎王に神懸りして託宣させたという。つまり栲幡皇女は死の前に、神の託宣をしたのだと考えられる。その答えが、太陽の昇らぬ夜に白銅鏡から現れた、虹の姿であったのだろう。虹の俗信に「竜の女神が渡る橋である」というものがある。また虹は古代において「虹(ぬじ)」と呼び、それは「主(ぬし)」とも同義であった。つまり現れた夜に浮かんだ虹は鏡の主であり、それは月の主である蛇神であった事を意味している。ここで「神功皇后記」の一節を思い出さずにはいられない。

神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の折鈴五十鈴宮に所居す神、

                名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命


撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、現在荒祭宮に祀られる瀬織津比咩の異名でもある。今は五月と十月になっているが、以前は四月と九月に神御衣祭(かむみそのまつり)が荒祭宮で行われている。この時に捧げられた御衣によって、神は光を得、若返るというものは、月の満ち欠けに基づくものであった。古儀によれば磯部氏の童女がこの宮の物忌という重い役に任ぜられているようだが、栲幡皇女もそうであったのだろう。五十鈴川の機殿と御衣祭も基本的には川側で行われるもの。それは流れる水が衣と結び付けられた事を意味している。白幡が神の依り憑くものであるのは、それはその神が水神である事の証明に他ならない。そう白幡とは、水の流れそのものであり、それは高所から滾り落ちる滝そのものであった。
by dostoev | 2016-01-25 17:32 | 早瀬川と白幡神社 | Comments(0)

早瀬川と白幡神社(其の五)

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現在の白幡神社の祭神は、「遠野市史」によれば「祭神は神功皇后とも、源義経の白幡ともいわれているが、今は単に白幡大明神を祭るとしている。」とある。とにかくハッキリとはわかっていない祭神の様である。源義経の白幡ともされているが、白幡は源氏の白幡でもあるので、義経に拘るのには何かあるのだろうか。ところで、この白幡神社の創建は、遠野が南部支配になってからだと推察した。その南部は甲斐の国から八戸に拠点を移して、勢力を拡大した。その南部氏の崇敬社は、八戸市にある櫛引八幡宮である。その櫛人八幡宮のHPから由来を抜粋したのが下記である。
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南部家文書(八戸根城南部家・『八戸家系』、『八戸家傳記』)によると、 文治5年平泉合戦(1189年)に戦功をたてた光行公は源頼朝から糠部郡(ぬかのぶのこおり、 岩手県北部・青森県東部の広大な地域)を拝領し建久2年(1191年)に入部、 後に家士を遣わして甲斐南部郷の八幡宮御神体を奉持せしめ、霊地をトして櫛引村に 宮社を造営し武運長久を祈ったという。

「櫛引八幡宮縁起旧記」によれば、このとき遣わされた家臣とは津島平次郎で、 平次郎は宮地が決まるまで六戸の瀧ノ沢村に仮宮を営んで奉祭した。

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つまり、この櫛引八幡宮は甲斐南部から持って来た八幡宮であるという事。八幡は全国で一番多い神社であり、その大元は宇佐八幡宮だが、源頼朝の時代には石清水八幡宮が宇佐を上回って崇敬を集めていたようだ。甲斐南部時代に勧請した八幡はわからないが、盛岡八幡宮が石清水八幡宮から勧請した神社である事から、恐らく甲斐南部の勧請した八幡宮もまた、石清水八幡宮からであろう。
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白幡神社の由来の伝承が神社とは別に「遠野八景名所記」に記されている。そこには「白幡明神是ぞ古へ文治の頃いづくともなく白幡一流飛来て爰にとゞまる故に白幡明神と申伝なり。」とあるが、伊能嘉矩は、それを後世の附会であろうとしている。ところで遠野に伝わる白幡伝説の古くに、無尽和尚のものがある。その伝説とは、無尽和尚が遠野に来たのは、無尽和尚の師匠が白幡を飛ばして、その落ちた場所に庵を建てろというものだった。そして、その落ちた白幡は白竜となったという。恐らく語られる白幡神社の由来は、無尽和尚のそれと重ねられたのではなかろうか。だが、その無尽和尚の伝説も、「肥前国風土記」に記されているものの亜流であろう。
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ヒメコソの里。此の里の中に川があり、名をヤマヂ川という。その源は、北の山より出でて、南に流れ、ミヰの大川(筑後川)と合流する。昔々、この川の西に荒ぶる神があり、道行く人が多く殺され、人々の半ばが生き、半ばが死ぬありさまであった。

時に、このように祟る原因を占い求めてみると、次のように神意が現れた。すなわち、筑前の国、ムナカタの郡の人カゼコをして、吾が社を祀らしめよ。もし願ひにかなはばば、荒ぶる心を起さじ、と。

そこでムナカタのカゼコを招き、神の社を祀らせた。カゼコは幡を奉納し、祈っていった。神が誠に私の祭りを欲するなら、この幡は風のままに飛んで、私を求めている神のいる場所に落ちよ、と。

やがて幡を揚げ、風のまにまに放ってやると、幡は飛んでいって、御原の郡のヒメコソの杜に落ち、さらに還り飛んでヤマヂ川のとりに落ちた。そのおかげで、カゼコはおのずから神の在します場所を知った。

その夜、カゼコの夢に、クツビキとタタリが舞い遊びでて、カセゴを圧し、驚かせた。そこでカゼコは、この荒ぶる紙が女神であることを識った。 カゼコが社を建てて祀ったので、それ以来、ヒメ神の名からソメコソ(姫杜)という名が由来し、今は里の名となっている。

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この「肥前国風土記」によれば、幡とは神の依り憑くものであるという事。ここでは幡の色が書かれてないが、依り憑いたのが宗像大神であるなら、それは宗像大社の"みあれ祭り"に、それを見る事が出来る。"みあれ"は"御阿礼"であり、神の降誕を云う。その"みあれ祭り"の以前は「御手長神事」と呼ばれていた。長手とは長妙の意であり、長い布を竹の旗竿に付けた物を云う。これが神功皇后の三韓征伐にも使用されている。また幡に神が依り憑くのは、"ヤハタ"の八幡宮もまた同じである。そのどちらにも、神功皇后の影響を受けているのが分かるが、その詳細は省く事にする。
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南部氏の本拠地であった八戸に鎮座する櫛引八幡宮は、南部氏が甲斐国から勧請した八幡であったが、それは恐らく石清水八幡宮であっただろうとは書いたが、その石清水八幡宮は後の神社名であり、元はその鎮座している地名"白幡森"から白幡八幡宮と呼ばれていた。その白幡八幡宮の祭神は「淀姫神」となっているが、以前に書いた「菊池氏の信仰する神」では、その淀姫=與止日女は、阿蘇津比咩であり、早池峯の神と同じであった。
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最近出版された、菊池展明「八幡比咩神とは何か」に、櫛引八幡宮と同じ地に鎮座する御前神社が紹介されている。この御前神社は江戸時代には「御浜御前」と呼ばれ、この神社に伝わる江戸期の由緒書「東国正鎮守御浜御前」に下記の様な古歌が伝わっている。

みちのくの 唯白幡や 

         浪打に鎮りまつる 瀬織津の神


「八幡比咩神とは何か」を出版した風琳堂氏のブログによれば、この櫛引八幡の神事に「御浜入り神事」というものがあり、それは櫛引八幡宮のHPで確認すると、御神威の再生・蘇りの神事であり、八幡大神が御神輿にて御前神社に渡御するという事であるが、要は御前神社に挨拶に伺うというもの。御前神社には神功皇后も祀られている事から、八幡大神が応神天皇であるならば、母である神功皇后に挨拶に行くのは当然だろうと認識されているようだ。しかし御前神社の祭神は、明治時代になって変ったものの、それ以前は瀬織津比咩であった事を踏まえれば、それはどういう意味を持っているのだろうか。
by dostoev | 2016-01-19 22:05 | 早瀬川と白幡神社 | Comments(2)

早瀬川と白幡神社(其の四)

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ここでもう一度、白幡神社の歴史を振り返ってみよう。創始は定かでは無いが「遠野史料」では「往時早瀬川氾濫して河床極めて広かりし時代、現在の一日市の東方を中河原と称し、ここに白幡観音の祠あり、時の人これを中河原観音と称す。佐々木東甫翁の覚書に、安兵衛といえる者願主となり、文化十三年(1816年)堂並に行屋を建つとあるは、蓋し再建を意味する如し。泉沢氏と及川氏との宅地の裏に存す。」とあり、また「八戸家伝記」「運満堂の向かいの辺りに在った白幡観音堂を中河原の白幡と呼んだと云う。」とある事から、どうやら現在"便所町"と呼ばれる辺りに、この白幡神社はあったらしい。また1816年に再建されたとある事から、何度も早瀬川の氾濫によって社は崩壊し続けていたのではなかろうか。人がいてこその神社である事から、その創始は16世紀の後半、阿曽沼の終焉時期というより、南部の支配の始まりから白幡神社が祀られたと考えて良いのではなかろうか。源氏の象徴でもある白幡は、清和源氏の一流を認識している南部氏にとって大事にすべきものの一つであろうから。
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「遠野市史」の瑞応院の箇所を読むと「観音堂には観音像三体があって、中央の立像は明治初年に中川原観音を移した、ものという。」その中央の観音が白幡観音であり、その正体が画像の十一面観音となる。ただ三体あった観音像のうち、この十一面観音の脇侍にあたるもう一体の観音は盗難に遭い、その正体と行方は不明であるそうである。

この白幡観音が明治初年に瑞応院に移されたという事は、明治政府による神仏分離に則ってのものであろう。しかし、神道としての白幡神は大正七年(1918年)になって、やっと新しく社が建てられて祀られるようになった。
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瑞応院は臨済宗妙心派で、承応二年(1653年)の開創であるが、そのきっかけが南部直栄の娘である"お万"の死によるものだった。瑞応院という寺名は、そのお万の戒名「瑞応院殿乾峰真貞大姉」から来ている。南部氏の菩提寺は大慈寺であるが、この瑞応院も南部氏の影響を色濃く受けている寺である事が理解できる。
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瑞応院の住職に聞くと、瑞応院境内には観音堂と稲荷神社、そして早池峯神社があったという。あった、という書き方は、稲荷神社の社が失せている事からである。どうも現在の早池峯神社の社が、実は稲荷神社であったようだ。そして今の観音堂が、どうも早池峯神社だったようで、それに観音堂が並んで建っていたとの話も聞くが、真実は全く不明という事である。確かに今の観音堂を見ると神社造りのようでもある事から恐らく、十一面観音を御神体として、早池峯神社と観音堂が合祀された可能性もあるだろう。
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よく十一面観音の脇侍に不動明王が祀られている場合が多くある事から、盗まれた脇侍は不動明王の可能性もあるが、先々代の住職が観音好きであった事から、観音様だけを集めて祀っていた為に不動明王像は無かったのでは?との住職の見解を聞いた。早池峯大神の本地は十一面観音であるが、瑞応院境内には御神体を鏡とする早池峯神社も鎮座している。その早池峯神社は、瑞応院の鎮守と守護の為に祀ったようだが、この早池峯大神の御霊は、附馬牛の早池峯神社から来たわけでは無く、瑞応院が独自に祀ったもののようである。では何故、早池峯神社なのかは、やはり南部氏の影響からだと考えるべきではないか。何故なら、南部直栄の娘"お万"の為の寺の境内に、勝手に早池峯神社を祀るとも考え辛い。南部氏の意向を汲んでのものか、南部氏に許可を得て祀ったかのどちらかだろう。では何故に、早池峯大神であったのか。
by dostoev | 2016-01-17 19:54 | 早瀬川と白幡神社 | Comments(0)

凍てつく早池峯神社

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ここ二日続いて「早池峯神社に行きたい。」という客が訪れていた。この日も二人の観光客を連れて行く予定だったが、一人は急用が出来て、前日の午後にタクシーで行ってきたという。費用は1万ウン千円かかったというが、とにかく路線バスが無くなった為に、これからは早池峯神社に行く方は、このくらいの費用がかかる事を念頭に入れて計画した方が良いだろう。

さて今日も早池峯神社は、誰もいなかった…。
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天気も良く、喜び勇んで参拝しようとする客。
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参拝の前に清めようと御手水へ行ったら、御手水の完全に凍てついた姿があった。確かに、ここ数日寒かったが、この御手水は冬でも水が流れていたイメージがあるが、これではどうしようもない。
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とにかく参拝を済ませた。さて今度は、御札や御守を買う為に社務所へと。
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池の水も凍っている。
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早池峯神社の一番の問題点は、社務所に普段人がいないという事。わざわざ早池峯神社まで来て、参拝を済ませたものの、御札を買えなかったとか、御朱印を頂けなかったとの声がいくつも聞こえて来る。だが今日は、留守番のお爺さんがいて、観光客が希望していた早池峯神社の御札と、座敷ワラシの御守を購入出来たようだった。
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by dostoev | 2016-01-16 14:08 | 御伽屋・幻想ガイド | Comments(2)

どんと焼き(2016.01.15)

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今日は、どんと焼きなので古い御札などを持って遠野八幡宮へと行ってきた。
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3時頃に到着だったので、まだ火が点けられていない状態。御札や正月飾りが、山と積まれていた。まだまだ増えるよう。
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実は今日、泊る予定の観光客が是非に八幡宮へ行きたいとの事で、同行していた。どんと焼きが目的では無く、なんでもネット上で御利益があると評判の八幡宮へ行きたかったとの事。一人でそそくさと参拝へ行ったようだが、遠野八幡宮がネット上で評判とは知らなかった。
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天気はまあまあ良かったが、やはり寒いので、どんと焼きが始まるまで、火の周りに人が集まっていた。自分は、時間の余裕が無いので、御札などを納めたら、どんと焼きが始まる前に退散してしまった。
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本当に久々の遠野八幡宮だったが、気付いたのが稲荷社の向きが変っていた事。いつ変わったのかも、よくわからんかった。
by dostoev | 2016-01-15 17:16 | 遠野情報(雑記帳) | Comments(0)

早瀬川と白幡神社(其の三)

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現在の仲町である中央通が、以前は中河原と呼ばれた早瀬川の河原であったのがわかった。その中河原が開発され、裏町となった。その裏町に水難事故を防ぐ為の金毘羅神社が鎮座していたというのは、裏町が開発された後というより、中河原時代には既に鎮座していたと考える方が普通であろう。
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その金毘羅様だが、「遠野町古蹟残映」によれば「遠野町第13地割1番大工丁の北にあり。金刀比羅大権現を祀る。御神体は高さ一尺位の木造の小堂にて、もと下屋敷なる山奈某の内神なりしを、山奈家絶えたる後その遠縁の者これを祀ると伝ふるのみ。其他不明なり。」とある。裏町に鎮座していた筈の金毘羅様が、いつしか大工町に移転し、それが山奈氏の内神であったという。裏町が開町したのが、寛文九年(1669年)。その裏町に、武家の下屋敷があろう筈もない。つまり、武家であろう山奈氏の下屋敷は当時、裏町に有り得る筈も無かった。ましてや大工町も、大工などの職人が住んでいた町通りであり、余程の下級武士で無い限り、大工町に住んでいる筈も無い。
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前に書いたが、裏町に鎮座していた金毘羅神社が明暦元年の洪水で水没し、その時に大工町に移転した後に、山奈氏が別当として受け継いだのではないか。それが山奈氏の没落の後の明治時代、現在の早瀬町の地に移転したのではなかろうか。早瀬町といっても、住宅が建ち並んだのは昭和20年以降の事であるから、明治時代の早瀬町は、まだ川原であったのだろう。つまり、裏町の中河原と似た様な対岸に移転したのが金毘羅神社ではなかったか。
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前回、弘化四年(1847年)の三閉伊一揆の群衆が早瀬川原に集結した一万二千人余りは、白幡神社から加茂神社の間に陣したと伝えられているが、その時の図面には白幡神社ではなく熊野権現社と記されているのでおかしいとなったが、知人に聞いたところ熊野権現社が、白幡神社の後方にあったという。それを確認したが、確かに白幡神社の後方に熊野権現社は鎮座しているが、今では陶器製の小さな社で、なかなか目につかない場所に鎮座していた。
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「遠野旧事記」に、この熊野社が記されているが、ただ新張に有りとし、願主も勧請に関しても詳細は不明とある。しかし、弘化年間の三閉伊一揆の時には、図面に載るほどの社格を誇っていたのだろう。そして、その時に現在鎮座している白幡神社は、そこには無かったようだ。
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「遠野今昔第一集」に、白岩国武「芭蕉塚」が掲載されているが、そこに白幡神社に関する別の情報が記されていた。白幡神社は確かに、早瀬川沿いに2社あったようで、その一つは一日市町に鎮座し、後に祀られていた観音は瑞応院に移転し観音堂に納まった。そして神社そのものは、やはり現在地の新張に移転された様だが、新張には別に白幡神社があったようだ。白岩国武「芭蕉塚」から抜粋すると「新張部落の言う白幡の地は、古老の口碑から現在の賀茂明神付近とし、白幡講の名としても今も存在し、菊池氏の氏神であった。」と記している。ただ、加茂神社の辺りを新張と呼んだ事については、どうなのだろう?ただ新治(にいばり)=新張(にいばり)は"開拓した地"の意味を持つ事から、現在の新張も、加茂神社近辺も、その当時は新治=新張であったのかもしれない。とにかくこれで、伊能嘉矩「遠野盆地に於ける河流の変遷 余志(其二)」に記されている様に「往時此の早瀬の流水を挟み南北岸の磧上に各々白旗の叢祠を設けられた形迹が見ゆる。」は、確かに一日市町と新張であったようだ。さて次は、その白幡の意味と、その神について記す事としよう。
by dostoev | 2016-01-13 20:19 | 早瀬川と白幡神社 | Comments(0)

早瀬川と白幡神社(其の二)

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白幡神社で疑問なのは、遠野の街側を流れる早瀬川に、何故二つの社があったのかという事。そして、一つは中河原の観音堂として認識されているが、現存する白幡神社そのものの記述が殆ど無く、中河原観音堂と混同されているという事である。例えば「遠野市史」では「八戸家伝記」を引用し、一日市町の上北側、運満堂の向いの辺に在った白幡観音堂の記述を、あたかも現在の白幡神社であるかのように記している。実際は、中河原の観音堂は、瑞応院境内に再興され、祀られていた観音は今でも現存している。
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気になるのは、その現在の白幡神社であるが、弘化四年(1847年)の三閉伊一揆の群衆が早瀬川原に集結した一万二千人余りは、白幡神社から賀茂神社の間に陣したと伝えられているが、その時の図面には白幡神社ではなく熊野権現社と載っているようである。そこで思い出したのが、下記の画像のものである。
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この画像は、現在早瀬町に鎮座している金毘羅神社に保管されている、横田村に鎮座していた熊野神社のものである。この横田村が正確には、光興寺前にあった横田村か、鍋倉城下に移転してからの横田村かは定かでは無いが、この金毘羅神社自体が明治時代に大工町からこの早瀬町の場所に移転されたものである事から、恐らく後者であろう。それでは現在の白幡神社は、実際は熊野神社であったのだろうか?
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金毘羅神社は大工町から、早瀬町に移転されたとは記したが、この画像を見ると「遠野裏町鎮座」とある。裏町とは現在の仲町であるが、「遠野町古蹟残映」によれば「城下町・宿場町としての役割が重要になり、経済が発展し、交易のため商人、旅人の出入りが多く路上に荷駄があふれ、機能的に一日市町、穀町だけでは処理できなくなり、寛文九年(1669年)裏側の町であるので裏町として開町した。」とある。それでこの裏町だが「八戸家伝記前後編類聚」では「往古は早瀬川之流大鶯崎より二股に流れ当時裏町の後感応院寺内の辺は中河原に有之候故世俗中河原と称申由」と記されている事から、一日市町運満堂の向かいの中河原が、実は感応院までの広範囲になってしまう事がわかる。
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今一度、16世紀頃の早瀬川の流れを見ると、感応院(今の遠野駅近辺)近辺にも早瀬川の流れがあった事が分かる。それ故に、裏町=仲町近辺が河原と呼ばれるのは至極当然の事であった。「遠野市史」から「善明寺」の箇所を読むと、「一時遠野の裏町(後の仲町、現中央通り)に移り、」と記されている。「善明寺縁起」によれば、明暦元年同寺露風和尚の代に「中河原に於て洪水の難に逢ひ寺内半ば川中と成り難儀至極せり」と記され、その後に替地を大工町に求めた事から、善明寺が現在の大工町にあるのは、その時の洪水以降なのだろう。そこで金毘羅神社だが、本来金毘羅神は水難事故を防ぐ為に、遠野に多く勧請されている神である。忍峠の入口に沢山の金毘羅の石碑が建っているのは、木流し(川の流れを利用して木材を運搬する仕事)などの仕事で事故が無いように願った事からのものであった。画像の地図から見て、大工町は早瀬川から決して遠くは無いが、金毘羅神社は本来川の近くである川原にあったものではなかろうか。これは憶測になるが、それを洪水の時に、善明寺の和尚が善明寺と一緒に水没してしまった金毘羅神社と熊野神社の御神体を今の大工町の善明寺まで運び保管していたものを、明治時代になってから現在の地に移転したというのが正しいのではないか。ただそうなると、熊野神社がわからなくなる。三閉伊一揆の群衆が、熊野権現社(現白幡神社)から賀茂神社の間に陣取ったとある図面そのものが間違いであったのだろうか。
by dostoev | 2016-01-11 17:48 | 早瀬川と白幡神社 | Comments(0)

早瀬川と白幡神社(其の一)

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伊能嘉矩「過去の遠野」で伊能嘉矩は早瀬川を、下記の様に紹介している。

「早瀬川は源を仙人峠の若木沢(上郷村)より発し、同峠の麓なる沓掛窟(石灰岩の自然浸食洞)の隈を流下し、遠野盆地に出づる。」
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その沓掛窟の入口には、「早瀬観音」の石碑がたっている。伊能嘉矩は、この早瀬川の名の由来を「古事記」「上つ瀬は瀬速し。」に求めているようだ。
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沓掛窟、または別名観音窟の入口は、ゴツゴツとした岩穴になっている。
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沓掛窟の内部を見ると、観音が祀られていた当時の名残りがまだある。
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現在、この沓掛窟に祀られていた観音は風化が酷かった為、管理でき易いようにと里の近くに新たに観音を彫像し観音堂を建てて祀っている。風化した観音は、その形状から十一面観音であったようだが、現在の観音堂に祀られる観音は、十一面観音では無いようである。
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この沓掛窟に伝わる観音の伝承としては、坂上田村麻呂が蝦夷との戦に勝利した後に観音を勧請し祀ったという事である。また、その新しい観音堂の手前にある日出神社境内には、坂上田村麻呂がやはり蝦夷との戦の前の日に手にしている刀を試し切りした石が木の根元に入り込み、水を湧き出した栃の樹の伝承が伝わる。戦の前の日と、戦の後についての坂上田村麻呂伝承がある事から、日出神社と沓掛窟は、関係があるのではないか。勝利の祈願をしたのが日出神社であり、その勝利の成就を感謝したのが沓掛窟であった。日出神社で坂上田村麻呂が試し切りした石は、川の根源の石であったと伝えられるが、戦に勝利した後に観音を祀ったのは早瀬川の源流にある沓掛窟であった事から、日出神社に伝わる川の根源の石とは、早瀬川の根源の石であったのだろう。つまり坂上田村麻呂は、水神の力を得て勝利したと感じたから、早瀬川の源流にある沓掛窟に水に関係が深い観音を祀ったのだろう。
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その早瀬川だが、上の図でわかる様に16世紀途中までは現在の遠野の街中を、二股三股に別れて流れていた為、この頃はまだ多くの人が住み、賑わう街では無かった遠野であった。早瀬川が現在の様な流れになり、遠野の街の基礎が出来上がったのが、今まで高清水山の麓にあった横田城が、鍋倉山に移転してからであった。それが16世紀後半であり、阿曽沼氏の統治の終焉であり、代わって遠野を統治した南部氏の時代の始まりでもあった。遠野の街中を流れる様の記述を伊能嘉矩「遠野盆地に於ける河流の変遷」から抜粋してみよう。

「早瀬川は上郷、青笹村二村を経過し、遠野町東郊の鶯崎より其の山嘴に沿ひて二股をなし、一は西方に流下し現在の町北一部と松崎村大字白岩字新張部落の内外に漲溢して猿ヶ石川に落ち合ひ巨浸の状を成した。されば裏町より延きて一日市町の上北側に当る辺りは中河原と呼びて磧原をなし、同じく下北側に当る辺りは谷内と呼びて蘆葦の茂れる菹茹の区であったといふ。」

「鶯崎にて岐れた他の一流は、南に折れて字欠ノ下即ち東山通の稲荷下及び大日下の低地を流れ石倉丁に出でて来内川に合したのであった。」

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その遠野の街中を流れる早瀬川に、二つの白幡神社が鎮座していた。伊能嘉矩「過去の遠野(余志其二)」によれば、早瀬の流水を挟み南北岸の磧上に各々白旗の叢祠があったようだ。そのうち南は、現在と同じ一日市の上北側に建てられたものを中河原の白旗と呼び、これは現在の宇迦神社の向かいにあったという。「遠野盆地に於ける河流の変遷」での記述では「一日市町の上北側、即ち運満堂(今の宇迦神社)の向ひの辺に在った白幡観音堂を中河原の白幡と呼んだといふから、孰れ此の附近より裏町へかけての間の地を卜したのであろう。」
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「遠野市史」によれば、現在の新張にある白幡神社は大正七年に建てられたものであるそうである。祭神は神功皇后とも、源義経の白幡とも云われるが定かでは無い為に、今はただ白幡大明神としているらしい。白幡神社を見ると、社全体に浪模様の彫刻が施してあるのが画像からもわかるであろうか。これから見ても、白幡大明神とは、水と関係する神である事が理解できる。寛政七年の「組一乱記」という旧記に、遠野の上組町より新張を経て松崎に到る道程をこう表している。「はや白はたとなりければ・・・白はた様願ます頼ますと夜更て人も聞ざれば声高にぞ祈りける。」と記されている事から、かなりの信仰の厚さを感じる。また、この白幡神社の前で落馬すれば不吉なりとされ、白幡神社の前では馬に乗る事を戒めていたようである事から、祟り神の一面も見せている。そして、もう一つの白幡神社は、現在の瑞応院境内に再興されたとされている。
by dostoev | 2016-01-09 20:34 | 早瀬川と白幡神社 | Comments(2)

あけましておめでとうございます(2016.01.01)

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あけまして、おめでとうございます。今年も早池峯神社の元朝参りからはじまりました。見上げる夜空は晴れ渡っている為か、寒い早池峯神社となっていた。
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先に、盛岡の早池峯神社を詣でて、そのまま馬越し峠を通って、大出の早池峯神社に参拝。
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時刻は、夜中の1時を過ぎており、すれ違いで参拝したであろう何台かの車には遭ったものの、自分が足を踏み入れた時の早池峯神社境内に、参拝客は皆無。
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夜中とはいえやはり、正月で誰も居ない社は寂しく感じるもの。
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境内ではライトアップが為されており、正月という特別なイベントの雰囲気が出ていた。
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ところで、新しい御守が売り出されていた。「ざしきわらしお守り」値段は千円だけれど、御利益があれば安いものか?
by dostoev | 2016-01-01 08:42 | 民宿御伽屋情報 | Comments(8)